| 《目次》 |
| 第一章 坐禅する意味 一 砂糖壺の中に落ちた蟻 二 他に依止するものは動揺す 三 いま、ただかくの如くあり 四 生命の実物を生きる意味 第二章 坐禅の実際 一 坐禅の仕方 二 思いの手放し 三 生命の覚触 第三章 接心の実際 一 玩具あそびなしの接心 二 時間以前、自力以前 三 生命の風景 第四章 坐禅人の自己 一 尽一切自己 二 証上の修 三 覚めて生きる 四 尽一切の生きる方向 第五章 道元禅師の祇管打坐 付 録 一 いくつかの質問に答えて 二 坐禅における調息 三 経行の仕方 四 坐蒲の作り方 |
| 《本書より》 |
| ※あなたは自分というものの存在価値、存在根拠、存在確認を、自分以外の他のもの、たとえば財産とか仕事とか他人の評価とか、などの中にだけ求めていて、本当の自分の実物において、それを見出していないから、さびしくなるのじゃありませんか。つまり、あなたはいつも、ただ他との関係(かねあい)においてだけで生きていて、本当の自分を生きていないから、自分の人生がさびしくなるのでしょう。 ※この坐禅の姿勢こそは、まったく東洋の発見した、不思議な姿勢であるということができましょう。というのは、この坐禅の姿勢は、小さな人間的思いを投げ出すのに、もっとも適した姿勢だからです。 その点ロダンの彫刻に「考える人」というのがありますが、この「考える人」の彫像と坐禅の姿と比較してみるとよくわかります。あれは「考える」といえば体裁がいいけれど、じつは妄想を追う姿勢なのです。あのように身体が曲っているのは血液が停滞する姿勢であり、ことに頭の血液が停滞しますから、妄想にとりつかれて、これから離れることができない姿勢です。 ※坐禅においてもっとも大切なことは、煩悩妄想を細めていって、最後に「ZZ'の線(坐禅の姿を守っていること)に成りきる」ということではなくして(もちろん坐禅中にそういう時もあるわけですが、それも坐禅中の一つの風景です)、かえってZZ'の線をねらいながらも、ともすれば外れがちであり、外れがちでありながらも、常にZZ'に向かって覚触する姿勢こそが「人生の坐りとしての坐禅」として大切なことなのだといわねばなりません。 ※大乗仏教としての坐禅する態度は、決して坐禅修行することによって、これから何か新しい自分を人為的につくり出そうとするのではありません。あるいは煩悩を細めていって、最後に煩悩をまったく無くしてしまうということを目指すのでもありません。さらにあるいは、坐禅の中で特別な神秘的体験をすることを目指したり、あるいはこれから改めてサトリをひらこうとするのでもないのです。真実の大乗仏教としての坐禅は、どこまでも自己が真実にただ自己するだけです。生命が真実にただ生命するだけなのです。 |