| 共にご縁を結ぼうではありませんか |
| 律宗管長 唐招提寺長老 松浦 俊海(まつうら しゅんかい) |
| (2008年『大法輪』4月号より抜粋) |
| 共に来縁を結ばん 「共に来縁を結ばん」とは、今から千二百六十年も昔、唐から十二年間の歳月と五回の挫折にもめげず、不惜身命(ふしゃくしんみょう)を実践されて仏の教えと戒律を日本に伝えられた鑑真和上(がんじんわじょう)が、揚州(ようしゅう)の大明寺(だいめいじ)において大勢のお弟子に対して、渡日の決意を述べられたお言葉の最後の一節です。 仏教が日本に伝えられたのは、欽明天皇七年(五三八)に百済(くだら)の聖明王(せいめいおう)が、仏像や経典を日本に贈ったのが初めとされ、その後は聖徳太子が六〇四年に制定された十七条憲法で「篤(あつ)く三宝を敬え」、「和を以って貴(たっと)しと為(な)す」と定められたことは有名なことで、ひろく知られています。 その後仏教は次第に広まって多くの寺院が建立され、僧侶になる人も続出しましたが、僧侶になれば納税や労役を免除されるという特典があったため、僧侶の過ぎた増加と質の低下に政府は手を焼いていたようです。 そこで、先進国であった唐から、正しい仏教の戒律を伝える授戒にふさわしい高僧を招くべく、勅命を受けた栄叡(ようえい)・普照(ふしょう)という二人の若い僧が、遣唐使船で入唐(にっとう)して約十年間の修行を経た末、大明寺で戒律の講義をしておられた鑑真和上にめぐり合い、来日を懇請しました。 鑑真和上が渡日を決意 和上は居並ぶお弟子たちに対して、日本に法を伝えようと望む者はいないかとお尋ねになりましたが、その当時日本に渡ることは生死を賭けたことであり、鑑真和上のおそばを離れたくはないと、誰も名乗り出る者がいませんでした。 和上は「かつて日本の長屋王(ながやおう)がはるばる中国の僧に寄進した千枚もの袈裟(けさ)の縁(へり)には、『山川は域(いき)を異(こと)にすれども・風月は天を同じうす・諸(もろもろ)の仏子に寄せて・共に来縁を結ばん』という句が刺繍(ししゅう)されてあったということだ。実に仏教と縁の深いところであり、私自身がおもむいて法を伝えよう」と決意をされたのです。 中国と日本の山河の景色は違っていても、我々にとって風や太陽と月は同じものであります。同じく天にあって全人類は日夜その存在を感じ、同じようにその恩恵を受けているのです。すなわち国は違っても同じ人類であり仏のみ弟子です。たくさんの仏弟子にこれらの袈裟を寄進して、ご一緒に来るべきご縁を結ばせて頂きたいという、長屋王のメッセージであったのでしょう。 しかし、和上はこのように伝え聞いていると仰(おっしゃ)いましたが、私はこの中の最後の句である「共結来縁」こそ、和上の決意が表明されたものであると信じています。 和上は渡日を決意されて直ちに実行されたのですが、その後の十二年間には船の難破や漂流、また和上を失いたくない弟子の密告などと、五度の挫折を止む無くされました。五度目の渡航では暴風のため、はるか南方の海南島に漂着されました。日本から渡って和上に渡日を懇願した栄叡がその後病死し、和上の高弟など、和上を支えた人々と永別の悲しみや、高齢に過労と栄養失調から視力をも失われるという、艱難辛苦(かんなんしんく)をされました。詳しいいきさつは、『唐大和上東征伝』や絵巻の中に見ることが出来ます。 和上は舎利や多くの経巻を携えられましたが、暴風で船が壊れ、怒涛(どとう)にそれらが飲み込まれようとした時、金色の大亀が現れて背中に乗せて救ったと伝えられます。唐招提寺には「金亀舎利塔」(国宝)が舎利殿に納められています。 和上六十四歳の七五三年、六度目の渡航は遣唐使船の帰途に便乗することが出来て、ようやく九州の南西の秋目浦にお着きになり、翌年に奈良平城の都に入られました。 鑑真和上の業績 一行を歓迎した人々は数多く、和上は聖武上皇・光明皇太后に東大寺の大仏殿の前で、授戒されたのをはじめ身分の上下を問わず、求めるものには分け隔てなく法を説き、授戒されました。 和上は日本に渡って多くの人々を集め、共に来るべき仏縁を結ぼうではないか、と願われて、ついにこのことを成就なさったのです。七五九年、和上は奈良西の京に新田部親王(にいたべのしんのう)の旧宅地を貰われ、唐招提寺を創建されました。先(ま)ずは金堂(本堂)ではなく、法を説くための講堂を、朝集殿の古材でお建てになりました。 昨今は地球環境にやさしくと、資源を大切にとか、エコロジーやリサイクルが重要視され、日本語の「もったい無い」の意味が外国でも話題になっていますが、和上は率先して倹約や再利用に努められたことを窺(うかが)うことが出来ます。 和上は仏教の戒律を伝えられただけでなく、数々の漢方薬や味噌などの保存食、また当時の先端技術を日本にもたらされました。まさしく、宗教・文化・芸術をもって、中国と日本を繋(つな)ぐ架け橋になられた方であり、わが国にとっての大恩人と申せましょう。 唐招提寺では、昭和三十年代に当時の森本孝順長老が、奈良県庁の近くにあって地方裁判所として使用されていた旧興福寺一条院の宸殿(しんでん)(重文)を、鑑真和上像を安置する御影堂(みえいどう)として和上御廟(ごびょう)の西側に移築しました。 また唐招提寺では、和上の業績を広く紹介するため、遅ればせながら二年前に公式ホームページを立ち上げました。新しいメディアを現代の布教伝道の方法として活用し、唐招提寺をより身近にご理解頂ければと願っています。 古来伝統のものを守るため、新たな技術を積極的に取り入れ活用する。そして新旧相まって、さらなる発展をとげようとする鑑真和上の手法は、現代においても大いに学ぶものがあるのではないでしょうか。 唐招提寺が伝える文化財 俳人、松尾芭蕉は鑑真和上のお像に相対したとき、「若葉して おん目の雫(しずく) 拭(ぬぐ)はばや」と詠(よ)みました。 若葉の季節に、鑑真和上を拝んでいると、和上は望郷の念や、先に逝(い)った弟子たちとご両親に想いを馳(は)せておられるのか、盲(めし)いられたお目にはみずみずしい若葉と同じように、うっすらと光るものを芭蕉は感じて、それをそっと拭って差し上げたいものだ、と願うあまりにこの名句を作ったのでしょう。この句碑を講堂の東北側にある、旧開山堂(本願殿)の前に見ることが出来ます。 日本で最高の肖像といわれるこの像は、脱活乾漆(だっかつかんしつ)造り等身大の国宝であります。高弟の一人が、ある夜講堂の梁(はり)が落ちる夢をみて、和上の遷化(せんげ)が近づいていることをさとり、急いで皆にはかって和上のお姿を克明に写したものといわれています。毎年六月六日の開山忌の前後には、唐招提寺の御影堂で拝観して頂いております。 和上が七六三年に、七十六歳で遷化されてから約二十年もして、お弟子の一人であった中央アジア出身の碧眼の僧・如宝(にょほう)によって「天平(てんぴょう)の甍(いらか)」と絶賛される金堂が完成しました。 「おおてらの まろき柱の月影を 土に踏みつつ ものをこそおもえ」と、歌人会津八一(あいずやいち)が詠んだ列柱の中央の堂内には、ご本尊の盧舎那仏(るしゃなぶつ)を、左側には五メートルを超える千手千眼観世音菩薩、右側には薬師如来の三尊が安置されています。 天平建築を代表するこの国宝唐招提寺金堂は、平成十二年から解体修理が行われています。建立から五度目の大修理ですが、その時代の叡智を集め、技術の粋を尽くして施工されました。 外形は保ちつつも、明治の修理には西洋の建築技法であるトラス構造が導入され、今回は水平方向にもトラスが入って増強が図られました。小屋組みには複雑な金物が取り付けられるなど、合理的な改良が施されました。 年輪年代法という近代の鑑定方法で、垂木(たるき)が七八一年に伐採された木材であることが判明し、建立年代がほぼ確定されたり、基壇(きだん)の補強工事は必要がないほど堅固であったことや、正面の扉に打たれている金具の下から鮮やかな彩色が発見されるなど、と綿密な調査の結果も出たのであります。天平(西)と鎌倉(東)の鴟尾(しび)はひび割れが激しくて、棟に帰すことが出来ず、平成の一対が代わることになりました。しかし長年の風雪に耐えてきたこれらの鴟尾は、今後新宝蔵の展示室で静かに安置され、拝観者は目の当たりに見ることが出来るようになりました。 境内西方に仮設された仏像修理工房では、本尊始め数々のみ仏の像が修理されました。九五三本のお手を持つわが国最大級の千手観音も、金堂にお入れした後に、小さな手がすべて取りつけられます。平成二十一年秋、金堂の大修理完成落慶法要の後には、以前のように拝むことが出来るようになるのであります。 巨大な脱活乾漆造りのご本尊は左右の仏とともに、柔和な慈悲のお顔で万人(ばんにん)を迎えられます。「すべてのみ仏」は、相(あ)い対するあなたと共に、より良いご縁を結びたいという心をお持ちであるに違いないと、私はかたく信じます。 縁について 「縁」とは不思議なものです。特に男女のそれは異なもの妙なものだと言われます。原因があって結果が単純に生じるのではなく、多くの原因を繋ぎとめる縁があってこそ、果実を結びます。仏教では縁起とも因縁とも呼んで、重要視するのです。寺院の由緒のことも○○寺縁起と呼び、長い歴史の詳細を記しています。 善因善果・悪因悪果、それぞれ応報の因果律は時代が変わっても昔から不変です。仏教系の保育園や幼稚園では幼児達が「のの様は何でも見ている知っている」と歌います。家庭でも社会でも、鉄は熱い間に鍛造(たんぞう)して正しく整えるべきでしょう。モラルが低下しているといわれる現代、個性が形成される幼児期での躾(しつけ)や情操教育が大事だと思います。 「一期一会」は特に茶道で、たまたま狭い茶室に同席して一碗のお茶を喫することになった互いの奇しきご縁を喜ぶ名句です。ちなみに英語では初対面の挨拶にNice to meet you.というのが一般的でしょうが、「あなたにお会いしたことは結構なことです」という意味ですから、まさしくこれは一期一会の初めてのご縁を喜んだ挨拶と言えましょう。 人は字の示すように支え合って成り立つものです。全く一人だけで自立して生涯を送れるものではありません。また他人との繋がりの中で愛や憎しみに悩まねばなりません。四苦八苦の理(ことわり)が示す通りです。しかし良いご縁で良い人間関係が得られれば、どんなにか人生において助けられることが多いか、またその反対はどんな不幸なことになるか、さまざまな事例を見て来ました。しかし世間には他に危害を与える悪い行いが絶えないのは悲しいことです。 持戒が大切なこと 私は今年年初に「もろもろの悪をしてはならない。もろもろの善を為(な)せ。そして自分の心を清らかにせよ。これが仏の教えであり戒めである」という通誡(つうかい)の偈(げ)を、つくづくと思いました。 悪はつい人間が為してしまう所行でしょうか。字の如く、人が為すことには「偽」が多いのでしょうか。昨今はIT革命で、まさしく悪い情報が千里を瞬時に駆け巡ります。耳目を覆いたくなるような生き地獄の様相を見せ付けられるのです。 仏教徒が護持すべき戒律は数多くありますが、とりわけ第一に掲げられる「不殺生戒」(殺すなかれ)の乱れは深刻です。ひろくは今だに世界のどこかで戦争や紛争が起こっていますし、平和で豊かなこの日本でも毎日のように殺人事件が発生しています。特に親が子を殺し、子が親を殺すという痛ましい血肉を分けた者同士の殺し合いは悲惨の限りです。 仏の戒律を説かれた鑑真和上の末弟の中、持戒堅固で有名だった北川智海長老(昭和二十一年遷化)は、たびたび「戒は能(よ)く万徳の門を開く」と揮毫(きごう)されました。 干支(えと)の巡りの始めになる子年、我々仏教徒たる者は仏の戒めをよく保つべきだと思います。少なくとも今年は世間に偽りのない言動を為し、幸せな意味の漢字が今年を象徴する一字として選べる年になるように、精進努力を致しましょう。 近年特にワールドワイドウェブとかグローバリゼーションといわれ、地球上での色んな往来が頻繁容易に出来るようになりました。ますます地球規模での環境問題や平和共存を図らねばなりません。いまや鑑真和上が千二百六十年以上も昔に云われて実践されたお言葉を思い、「同じ日月を頂く我々は、共に基本的な倫理道徳はもとより、仏の戒を一つでも多く保って、来るべき有難い縁を結ぼうではないか」と多くの人類がそれを実行してほしいと願っています。 |
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