| 共に生きる |
| 法華宗(本門流)大本山鷲山寺貫首 大塚日正(おおつか にっしょう) |
| (2008年『大法輪』5月号より抜粋) |
| 大統領への手紙 昔、人は常に自然と共に暮らし、歩んできました。朝日が昇ると共に働き始め、日が沈むと一日の仕事を終えます。時には月の明かり、星の明かりの下、夜なべ作業に勤しんだこともありました。四季折々の素晴らしい景色の移り変わりの中、人々は常に自然と共に生きていました。そうして、豊かな、感性溢(あふ)れる心を育んで来たのです。 一八五四年、第十四代アメリカ大統領フランクリン・ピアスは、ネイティブ・アメリカンの土地を買収し、居留地を与えると申し出ました。 酋長シアトルはこの条約に署名しましたが、その時に大統領に宛てた酋長の手紙を紹介します。 この地球のすべてのものは、私たちにとって神聖なものです。輝く松葉、浜辺の砂、暗い森を覆う霧、あらゆる草原、そしてあらゆる虫たちの音……、すべては私たちにとり神聖です。 木の中を流れる樹液は、私たち赤き人々の記憶を脈々と伝えているのです。川を流れる輝きの水は私たち先祖の血。水のささやきは私たち祖父の声。川は私たちの兄弟。渇きを癒(いや)してくれます。川はカヌーを運び、子供たちに食物を与えてくれます。川は私たちの兄弟であり、あなたたちの兄弟であることを、どうか忘れないで下さい。だから、あなたたちが兄弟に与えるのと同じように、思いやりの心を持って下さい。 空気は、私たち赤き人々にとっても、すべてのものにとっても貴重なもの、同じ空気を吸っています。 森は、鷲は、小鳥たち、虫たち、美しい川は、どこに行ってしまったのでしょう。 私たちにとり、真剣に生き残ることを考えなければならない始まりがやってきました。 どうか、私たちが愛したように、あなたたちもこの土地を愛してほしい。神が私たちを愛してくれたように愛して下さい。 この様な内容でした。 近代技術文明で失ったもの さて、信じられないほどの猛スピードで、近代技術文明が私たちに押し寄せました。さながら「近代技術文明」という超特急に乗って、猛スピードで走っていると言えましょう。 その結果、車窓からゆったりとした、のどかな美しい景色を失ったように、人間にとり、とても大切なものを失ってしまいました。 命、心の大切さ、人の苦しみ、悲しみを感じる心、悪なるものに対しての怒りの心等々、人間が本来大切にしなければならない沢山のものを失いました。 地球を無限と錯覚した人類は、自然を破壊し、資源を消費してきました。地球温暖化は今や全地球的規模で起こっています。 私たちに求められている最も大切なものの一つは、自然を愛し、自然と共に、いかに歩むかということです。 今、竹林にちょっとした異変が生じています。竹は普通、山の麓に群生しますが、最近、山の中腹や、頂上付近にまで生え出し、他の木々を枯らし始めているそうです。 その一方、下の畑にまで茎を伸ばし始め、畑にも被害が生じてきました。竹は、地下に茎を伸ばし、節々から竹の子が芽を出して繁殖します。しかし、竹の子が全て竹になれるのでなく、親竹はそのうちの何本かを選び、集中的に栄養を与え育てるのだそうです。バランスを取ることにより、共倒れになるのを防ぎ、また、他の木々とも上手に住み分けをしてきたようです。自然の素晴らしい生きる智恵です。 花粉症、特に杉花粉の被害が年々増加していますが、これは人が杉林を管理しなくなったためと言われています。 「自然との共生」といっても、自然をただ破壊しなければよいという問題ではありません。私たちは多くの自然によって支えられ生かされています。同じように、私たちも自然を生かすためには、それなりの手を加え、保護してあげなければなりません。これでこそ、本当の「自然との共生」ということではないでしょうか。そうでないと、自然も生態系が崩れ、時には私たちに対して悪影響を及ぼす、ということになります。 「人間中心」による環境破壊 今、この地球上から、なんと一年間に約二万種の生物(動物・植物など)が、絶滅し続けているそうです。 つまり、私たちの住むこの地球が、いろいろな意味で、危機的な状況にあるというのです。地球の温暖化による気象の変化、フロンガスによるオゾン層の破壊、酸性雨による大地の変質、廃棄物による環境破壊等々、数えあげたらきりがないほどです。 どうしてこのような事態になったのでしょうか。それは、この宇宙には、守らなければならない法則、自然の摂理というものがあります。それを、とくに近代の人間は無視し続けてきました。 そうした人間の驕(おご)りによるしっぺ返しが、今起きているのです。我々人間は、自然を破壊し、大事な資源を消費し過ぎてきました。これ以上自然を破壊し、資源の無駄遣いをすると、しまいに生きてゆけなくなります。人間の生活が脅(おびや)かされないためには、どうしても環境を保護しなければなりません。 このことは当然のことですが、よく考えてみると、やはり「人間中心」の考え方のような気がするのです。 近代は、家畜を含めて動物や植物、その他諸々の資源は、すべて人間のためにあるということで進んできました。 以前、テレビで、ある牧場の風景が映し出されているのを見たことがあります。広場の中央に太い大きな柱が立てられていました。その柱からまるで巨大な傘の骨のように、細い棒が何本も突き出ています。一本一本の、その傘の骨の先を牛の鼻に結びつけ、スイッチを押します。ゆっくりと巨大な傘が回転し始めます。牛はそれに引かれて、ゆっくりと歩き回り始めました。運動させるためでした。人間に食べられるまで、毎日毎日こうして歩かされるのです。なんとも残酷な話です。 私たち命あるものは誰もが皆、他の生きものを食べなければ生きていけません。共存、共生するということはお互いが、お互いに支え合って一緒に生きるということでもあるのです。 仮に食べられることなく、自分の命を全うしても、その亡骸(なきがら)は自然の土に戻り、全て生き物の生命の源である、母なる大地の栄養分となります。 このように、自然の理にかなう生き方こそが、共存の原理なのです。 ところが人間は、必要以上に他の生命を脅かします。人間だけがこの地球上で、他と共存などしようとはしない身勝手な生き物ではないかと言われても仕方がありません。共に同じ尊い命のある者同士、互いがもっと謙虚に向かい合うべきです。 これが仏教の考えに基づく「共生」であり、「連帯」なのではないでしょうか。 こうした考え方をもってこそ、初めて環境問題など、人類の課題に対する解決の糸口になるのではないかと思います。 西洋式合理主義と仏教との違い 戦後、西洋式合理主義なるもの、経済至上主義の原理が、日本に導入されました。人間の都合だけで形成、発展した政治、経済、化学などが、今私たちの地球の生命を脅かし、自然界を破壊させようとしています。 西欧の文明は、小麦と牧畜によって栄えました。小麦には雨はあまり要らないそうです。森を切って小麦を植え、牧草地には牛と羊を飼います。牧草が全部食べ尽くされると、最後は山羊を飼います。 一万二千年前から、森を切り開き続け、気がついたら、中近東から西アジアに至るまでが、ほとんど砂漠になってしまったのです。山羊は荒れた土地でも放牧が出来るそうで、最後に残った木の株まで食べて全部枯らしてしまうので、やがて一帯は砂漠にならざるを得ません。 文明が緑を失わせ、砂漠にし、その砂漠の中から一神教であるユダヤ教や、イスラム教が興(おこ)りました。キリスト教のもとをなすのはユダヤ教です。こうした農業形態から興った宗教は人間中心で、人間が森を、植物を、動物を支配するということです。 ところが、西欧のそれとは違い日本を始め、東アジアは、稲作農業を中心に文明が興りました。稲作農業は雨が必要です。森は水を蓄えます。従って森を残さなければならないのです。雨が必要ということは、その雨は人間の力ではどうすることも出来ません。 そこで、人間と自然との共存という思想が興ったのです。時により、人間は自然に対して敬い感謝し、ひれ伏しました。 こうした考えのもとに、興ったのが仏教です。仏教では、人間が全てを支配するという考え方はありません。生きとし生けるもの全てが共生しており、それ故に、もっと謙虚に人間は自然と向き合うべきではなかろうか、という考え方が仏教なのです。 ノーベル賞を受賞した福井謙一先生は、 今までの科学は、人類が地球を、全ての生き物を支配する、そのための科学や技術であった。しかし今や、生きとし生けるものと共存するために、科学や技術が用いられなくてはならない。 と言われましたが、全くその通りです。お互いにもう一度、謙虚な心を取り戻すべきです。 そして、世界中の人々が、否、人間だけでなく、自然を含めてこの世の全てのものと共生、そして共生から世界は一つという連帯の精神を持って、共に平和を目指して歩みを進めなければなりません。 |
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