| ─平 泉─〝この地を浄土に〟 |
| 天台宗・中尊寺貫首 山田俊和(やまだ しゅんわ) |
| (2008年『大法輪』6月号より抜粋) |
| 武器を捨て、浄土を建立 今からおよそ900年前、藤原清衡(きよひら)公の中尊寺建立に始まる奥州平泉の仏都建設は、時空を越えて「─平泉─浄土思想を基調とする文化的景観」の標記のもと、平成20年7月の世界文化遺産登録を目前にしております。 波乱に満ちた生涯を過(すご)した清衡公は、前九年・後三年合戦の後、陸奥国押領使(おうりょうし)となり、武器を捨て、戦争を放棄して、仏像を刻み、堂塔を建立し、経を読み、写経をし、仏教による文化的方法で国造りをしました。現在中尊寺には金色堂(阿弥陀堂)が創建当時の姿で現存し、毛越寺(もうつじ)の浄土庭園、無量光院遺跡等々と共に世界の注目を集めております。 清衡公は、人間の理想郷を仏教の浄土に見たのだと思います。この陸奥国(みちのく)を、仏様の住まわれる、清らかな、苦しみのない、楽しみに満ちた浄土にしようと願われたのです。 その根本にすえたのは、慈覚(じかく)大師円仁(えんにん)によって巡化され根付いた『法華経』の教えです。『法華経』には、全ての人は仏に成(な)る性質を具(そな)えて生れ、いつか必ず仏に成る、と説かれています。この絶対平等・成仏の考え方が、中尊寺を建立し、平泉仏都を造りました。この地を浄土に、の強い誓願が困難な事業を完遂させたと思います。清衡公自身が、浄土にくらす「仏」になろうと思われたのだと思います。 「ほとけになろう」 この言葉に出合ったのは私が大学生の頃です。ある先輩が、 『釈尊は私達に「ほとけになろう」と説かれている。毎日仏道修行をすること、即ち、経典を読誦(どくじゅ)し、坐禅・写経・食事・掃除等々、日常生活の全てが仏教徒にとっては「ほとけになる」即ち「成仏する」ための修行です』 と言われました。私はほとけになるために生れ、ここに居る。ほとけになろうと我が身をはげましながら今日に至りました。 さて、「仏」は「ぶつ・ほとけ」と読みます。梵語のさとりに到達した者、という語を漢字に写したのが「仏陀(ぶっだ)」で「仏」はその略語です。本来は釈迦牟尼仏を指します。また、仏は慈悲の具わった人や仏像、この世の汚濁(おじょく)から離れた死者をも指します。大乗仏教では、釈尊と同じように種々な仏の存在が説かれているわけです。 釈尊は今からおよそ2500年程前に、インドの国に生れ80歳の生涯でした。30歳の時に苦行を乗り越えて「さとり」を開かれました。そのさとりとは、 一、諸行無常(しょぎょうむじょう) この世の全てのものは変化し続けており、一瞬も止まることはない。 二、諸法無我(しょほうむが) 全てのものの存在には生れる原因がある、その存在するものがまた原因となって新しいものが生れる、即ち同じ性質を保ち続けるものはない。 三、一切皆空(いっさいかいくう) 全てのものは諸行無常、諸法無我で、そこにはなんら実体的なものがないのに、自分の欲望に執着し思うようにならずに苦しむ。 この三つです。 釈尊はこのように、宇宙の真理をさとられ、苦を乗り越えて、この世でほとけになられました。釈尊は自ら私達にさとりへの道を示され、大慈悲の心で導いておられます。私たちは先(ま)ず「ほとけになろう」との強い誓願を起すことが大切です。 生きている、生かされている 今日の世界の関心事は、地球温暖化、環境、食料、エネルギーなどの問題にあります。さらに民族・宗教・人権問題があります。それらが命の根幹に関わる人類共通の問題として迫って参りました。 近年、人間社会の文明の発展、経済・科学の進歩は目覚しい限りです。たしかに生活は便利になり、物質的には豊かになりました。しかしながら、多様化し複雑化した社会は混迷し、人類が全てのものと共生する方策が模索されています。 仏教では、「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」と説いています。即ち、この世に生れた全ての生きとし生けるものは、みな仏に成る性質を具えているというのです。さらに、「山川草木悉皆成仏(さんせんそうもくしつかいじょうぶつ)」と説かれます。この世の中の生きとし生けるもの、即ち、人間ばかりでなく、野山の木も草もみな仏に成るというのです。釈尊は全ての生あるものに仏性を認めたのです。 私たち人間だけでなく、生命あるもの全ては、自然の恵みを等しく受けています。太陽、大地、水、空気、その自然の恵みにいだかれて生きています。私たちの身体は、人間以外の動植物の命によって保たれています。実は私たちは、自然、他のものにより、生かされて生きている存在です。従って、自然に保護されている、自然はありがたいもの、と発想を転換することにより、「共生」の意味を考えなければなりません。 また私たちは一人では生きていけません。多くの人々の協力を得て生きています。衣・食・住の全てにおいて、他と深い関係を保ちながら、生かされ、生かし、生きているのです。 伝教大師(でんきょうだいし)は、「己を忘れて他を利するは慈悲の極みなり」と仰(おっしゃ)いました。これは、「悪いことや嫌なことは自分で引き受け、良いことや好ましいことは他人に振り向ける。それが慈悲の極まった姿である」という意味です。好い人間関係を築くためには、この精神を忘れてはなりません。 私たちは、誰もが得難(えがた)い人身(にんしん)を、神仏のはからいで、父母先祖のはからいでありがたい仏性を具えて誕生します。しかし人生の歩みの中で誕生時の清浄無垢(しょうじょうむく)な心は、時として迷いの中に隠れてしまいます。従って常に自分が生かされて生きている存在であることを自覚し、仏性が開き顕(あらわ)れるよう努力を重ねることが大切です。 この地を浄土に 中尊寺は、天治(てんじ)三年(1126)三月二十四日に、伽藍の落慶式が厳修(ごんしゅう)されました。その折りに読み上げられた「中尊寺建立供養願文(ちゅうそんじこんりゅうくようがんもん)」に、清衡公は中尊寺建立の趣旨をこのように述べています。 一、辺境のエゾ地と言われるこの奥州平泉の地ではあるが、中尊寺を上皇の御願寺(ごがんじ)となし、鎮護(ちんご)国家の道場として国家の安泰を祈る。 二、前九年・後三年の合戦で死んだ自分の一族だけでなく、この戦で故なく命を落とした人々を、敵、味方の区別なく全ての人々のさまよえる霊魂を浄土に導きたい。 三、仏教を信じることにより、都人(みやこびと)と同じく仏のご加護を受け、さげすまれることなく、みな平等でありたい。 と志願を述べられています。 戦乱の時代を戦いぬき、勝者となった武将が武器を捨て、寺院を建立し、平和を求めたのです。この世に生を受けた人はみな平等で、仏性が具っている。敵、味方の区別なく、死んだ者の霊魂を浄土に導きたいと述べられたのです。これは前貫首千田孝信大僧正の仰(おっしゃ)る如く、怨念の浄化であり、菩薩行の実践です。 伝教大師は、「怨(うら)みを以て怨みに報ゆれば怨み止まず。徳を以て怨みに報ゆれば、怨み即ち尽く」と述べられています。また『法華経』には、「この経を聞いて説のごとく修行すれば、命終(みょうじゅう)して安楽世界の弥陀仏の大菩薩衆の囲繞(いによう)する住処に行き、蓮華の宝座の上に生(しょう)ぜん」とあります。清衡公はこれらの教えにより、つぎからつぎへと繰り返される争いを、徳をもって断ち切り、自分が犯してきた罪を滅し、全ての人々の苦しみを取り除き、楽しみを与え、菩薩行に励んで、この地を浄土にしようと願われたのです。 三つの浄土のすがた 浄土教は、中国六朝(りくちょう)時代に慧遠(えおん)法師、曇鸞(どんらん)大師によって始まりました。日本に伝えたのは慈覚大師円仁です。その教えは末法時代の到来(1052年)と相まって盛んになり、恵心僧都源信(えしんそうずげんしん)によって大成され、さらに法然上人、親鸞聖人に受け継がれ、日本独自の発展をとげました。 清衡公が中尊寺を建立し、仏都平泉を建設しようとした根本は、慈覚大師によって奥州にもたらされた法華一乗の教えであり、当時隆盛になった浄土の教えです。浄土といえば、一般的には阿弥陀如来の西方極楽世界ですが、『維摩経(ゆいまきょう)』には浄土の三つの姿が説かれています。 一、来世浄土(らいせじょうど)─往(ゆ)く浄土─ 死後にゆく浄土として来世にたてられたもの、極楽浄土(阿弥陀仏)・浄瑠璃浄土(じょうるりじょうど)(薬師仏)・霊山浄土(りょうぜんじょうど)(釈迦牟尼仏)などです。 二、浄仏国土(じょうぶつこくど)─成(な)る浄土─ 現世の浄土化で、現実世界で仏道修行の実践に励む菩薩行として説かれています。 三、常寂光土(じょうじゃっこうど)─在(あ)る浄土─ 常にこの世に遍満(へんまん)している一切の限定を越えた絶対浄土で、仏道修行を通して現世でひたる浄土です。 極楽浄土については、『阿弥陀経』には、無限のかなたにある、と説かれますが、『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』には、「ここを去ること遠からず」と説かれています。 浄土は、苦しみのない、楽しみに満ちた人間の追い求める理想の世界です。私たちは、ほとけになろうとの誓願を発し、菩薩行に励み、浄仏国土の建設を目指し、共に手を携えてこの地に浄土を実現しなければなりません。その精進により、来世は必ず極楽浄土に往生し、また常寂光土にひたることができます。 尊い命を生きる 現実の日本を見ますと、物の豊かさにくらべ心の貧しさばかりが目に付きます。全ての人がほとけになるとの得難い仏性をもっていますのに、迷いに覆われて気付きません。情報の公開、プライバシーの保護、自由、自己の権利と、すばらしい言葉があふれていますが、その反面、私たちが失ってしまったものも多いのです。みな共に生きているのです。自己の利益を優先し、得になるか損になるかで物事を判断してはなりません。正しいのか正しくないのかで判断することが大切です。 この世の中を一人で生きることができないとすれば、好い人間関係がなくてはなりません。『法華経』に「人中尊(にんちゅうそん)」という言葉があります。全ての人が仏に成る、成仏するという尊いものを持っているという意味です。その尊いものを他の人に認め、尊重し、認め合い、また宥(ゆる)し合うことです。私たちはこの「人中尊」に気付き、親子、夫妻、友人等々の人間関係を見つめ直してみる必要があります。 私たちの生きる目標は、全ての人と手を共に携えて、浄仏国土を建設し、極楽浄土に往生することです。平泉は、かつて藤原清衡・基衡・秀衡・泰衡の四公により実現されたみちのくの浄土といえます。 |
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