| 年頭提言 |
| 花園大学長 西村惠信(にしむら・えしん) |
| (2003年『大法輪』1月号より抜粋) |
|
「仏教ヒューマニズム」の復権 一 除夜の鐘を撞いて百八の煩悩を洗い去ると、今年もまた新しい年の初日が世界を照らし、人びとに新たな希望を与えてくれる。絶え間のない時間の流れに三百六十五日を周期として新たな刻みを入れるということは、いかにも人間らしい話ではないかと今年は妙なことを考えた。 今から二千年以上も前の大昔、エジプトの数学者ソシゲネスが改めたといわれる太陽暦のお蔭で、この自分がこの世に来てから太陽の周りをすでに七十回も経巡ったことがはっきりする。古人も「百年、三万六千五百日」と覚めたことを書いているが、実に明解な人間の自覚と言うべきであろう。 ところで自分が乗っているこの「地球」がいま破壊の危機に瀕しているというのである。人間の智慧による自然環境の破壊が、人間ばかりではなく人間を生かせてくれるあらゆる動植物をもともに死滅へ追い込もうとしている。そしてこのような恐るべき事態の到来をよく承知しているのも人間だとすると、人間というのはまた何という狡智な生き物なのだろうか。 筆者がまだ青年の頃、あのアーサー・ウエリントンが、「道徳なき教育は知恵ある悪魔を作る」と嘆いたというのを読んだ記憶がある。なるほど現代の世界状況を見ていると、まさに悪魔の仕業としか言いようのない事件が頻発して、地球の将来さえ危ぶまれるという事態の到来である。どうしてこういうことになったか。 道徳とかモラルの欠如という言葉がもう古いのであれば、「人間教育」の欠如と言い換えてもよい。そもそも人間とはいったい何なのかという根本的な問いの欠如である。ここにきて、近世いらい自明とされてきた「人間」についての考え方が、歪みを見せ出したように思われるのは筆者のみであろうか。 このところ地球の温暖化に見られる顕著な自然破懐や、テロリズムによる人間同士の争いを見ていると、地球は近いうちに生物の住めない死せる物体となってしまうのではないかという予感がする。事態は確かにそう断言しうるほど加速度的に進んでいる。 すべては天災ではなく人災であるとなると、一切の責任はこういう事態を造り上げた人間の責任である。そもそもこのような人間の所行の根本は何であるかと考えるに、それはなべて西欧近世いらい支配的であった人間中心の思想であったと言うことができるであろう。 中世の暗黒な神律的世界観から脱して人間の自由と開放を求めた西欧の人びとは、「ヒューマニズム」の旗のもと、神に代わって地上を支配することを始めた。いわゆる無神論的世界観というものの台頭であるが、これが今日のような地球規模の環境破壊と民族国家間の闘争に導いた指導原理であったとしても間違いではあるまい。神に代わって登場した近世以来の西欧ヒューマニズムは人間を大きく羽ばたかすことになったが、神が人間に与えたペナルティには計り知れないものがあったわけだ。ご多聞に漏れず明治いらいのわが国もすっぽりその近代化路線に乗ってしまったのである。 ところでこのような西欧主導型のヒューマニズムの潮流にもめげず、東アジアの片隅にもう一つの「人間尊重主義」が残されていたのは幸いであった。それこそは人間ブッダの「大覚」に始まる仏教である。私はここで敢えてそれを「仏教ヒューマニズム」と呼ぶことにしよう。 紀元前五世紀に始まるこの古くて新しい人間尊重の宗教が、いま世界中の人びとによって熱い注目を浴びているのは周知のところであろう。彼らにとって東アジアに厳然として存在する仏教、とりわけ「大乗仏教」はもはや単なる閉鎖的な宗教の一形態ではない。それはグローバル化時代を迎えた世界の人びとにとって、「人間として生きる」ための人類共有の指導原理となっていま確実に復権しつつある。 二 筆者がここで仏教を「仏教ヒューマニズム」と断言する理由は、ブッダの教えが人間を超えるような絶対他者を認めない点にある。この世界の外に存在するものを一切否定したブッダの教説は、人間が自己自身最後の拠り所を求めることを説く類いまれなる「宗教」である。死に臨んで別れを惜しむ弟子たちに向かってブッダは、「自らを灯とし、法を灯とせよ」と説いた。では如何なる自己が真に自己の拠り所となり得るか、それが仏教徒の実践課題である。 そういう人間主義にはすでにニーチェのあの強きニヒリズムを連想させるものがあるが、もちろんブッダはそういう意味でのニヒリストではない。ブッダによれば人間はニーチェの言うような意味で謳歌すべき存在ではない。世界を支配するような強きニヒリストではない。しかもブッダは人間一人ひとりに「天上天下唯我独尊」という尊厳性を認めた。 ブッダが認めた人間の尊厳性は、ニーチェのような「強者」的なものではなくて、無常の世界に置かれた人間の苦悩を正しく諦観できる人間の能力のことであった。その能力を開発し得たものが「覚者」と仰がれ、そういう覚者を理想とする思想を仮に「仏教ヒューマニズム」と呼ぼう。ブッダの説いた正しい人間の生き方こそ、いま我々が復権すべき「新しきヒューマニズム」の規範ではなかろうか。 人間の弱さの自覚、これこそ「仏教ヒューマニズム」の原点でなければならない。裏返せばこれは人間の傲慢に基づく近世ヒューマニズムに対する批判としての意味を持っている。強き者は支配することを求める。弱き者は共生を求める。我われはいまこの点について深い洞察をなす必要があるのではないか。近世いらいのヒューマニズムが自然に対して行ってきた暴力的破壊行為、あるいは人間同士の間に行われた憎悪と報復のくりかえし。これらはすべて近世的人間の自我意識と、それが理想とする近代国家観に支えられた支配の原理に基づいている。 これに対してブッダが観察した人間存在の真相は、「無我」であり「縁起」であった。一人ひとりの人間が拠り所とすべき「自己」は、それ自体いかなる実体を持つものではなく、ただもろもろの因縁によって結ばれた地水火風という四大の仮和合であるに過ぎないとブッダは諦観した。ブッダによると自己は宇宙の要素を内容として成立し、やがてまた宇宙の中へと還元されていく、たまゆらの存在である。自己は無我であり、無我なるがゆえに宇宙的大我である。そういう自己にどうして世界の中心となって世界を支配することがあり得よう。 自己という実体をもたないこの一箇の縁起的存在は、同時に宇宙の彼方へと通じている大いなる存在でもある。一切のものと根源を共にし、したがって一切のものと共生することによって生きることの出来るこの無我的自己から、またどうして闘争などということが起こり得よう。仏教がその歴史を通して発揮してきた「寛容」、「非暴力」、「慈しみ」などの崇高な精神は、いわゆる人間社会のルールとしての人倫や道徳という人間くさいレベルのものではなく、それらとはっきり領域を異にしたきわめて自然な「仏教的ヒューマニズム」の発露である。 そういう観点から今日の世界を恐怖に巻き込んでいるイスラム過激派によるテロリズムなどを見るとき、それが彼らの宗教的信仰と結びついているとしても、暴力という手段が用いられる限り「支配」の原理に基づいており、深い底で悪しきヒューマニズムの権化と考えざるを得ないであろう。そのために熱心な信仰者であるはずの彼らが、容易に無神論的思想と結びつくという不思議ささえも露呈することになるのである。我々はいまこれら一連の憎悪と報復に満ちたテロリズムと敬虔なイスラム教的信仰を峻別し、新しい「仏教ヒューマニズム」の原理に立って、世界平和のための新たな宗教的連帯を固めるべき時が来ているのではないか。 現代杜会の抱えるもう一つの問題は、人間の傲慢による自然の支配が人間自身への支配にまで及んできたことである。このところ急速に発達したバイオテクノロジーは、遺伝子の組み替え、試験管ベビー、臓器移植、脳死判定など、人間の尊厳を無視した前代未聞の実験を歯止めなく開始した。これら先端技術は現代科学の誇らしげな成果を示す以外に、人間の幸福にとっていったいどのような意味を持ちうるというのであろうか。 例えば仮に人間が死を克服しえたとして、それが人間の幸福とどう関係するのか。クローン人間が実現したとき、人はそれを何のために如何に扱おうとするのか。人間の衝動的欲望に動機づけられた科学は、日進月歩するかに見えて実は絶望の渕に向かって突進している。しかもなぜ人びとは、そのような状況の中で依然として無関心を装おうとするのか。それもまた悪しきヒューマニズムに毒された現代人の癒し難い習性なのであろうか。 こうして新しい年は世界のグローバル化時代に生きるわれわれに、今までにない深刻な課題を投げ掛けることから始まったように思われる。 |
||
![]() |