| 華厳経の主人公・ビルシャナ仏は宇宙に輝く ──ある参拝者と僧侶の語らい── |
| 東大寺上院院主 森本 公誠(もりもと・こうせい) |
| (2002年『大法輪』10月号より抜粋) |
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●奈良の大仏さん ある参拝者(以下、参) 小学校の修学旅行のとき以来、大仏さんとは四十年ぶりの再会なんですが、今日はお坊さんにご説明いただけると聞いて楽しみにしてきました。 東大寺僧侶(以下、僧) それはどうも。ようお参りくださいました。 参 それにしても大きいですね。もっとも、小学生のときの方がもっと大きく感じましたかね。ガイドさんは、大仏さんの高さがいくらで、顔の長さがいくらで、口の長さがいくらでとか、鼻の下の長さまで言ったかどうか覚えていませんが、手のひらには十五人は乗れると言ってましたかね。 僧 なぜ大きいのかという説明をしましたか。 参 よく覚えていませんね。そんな説明なかったのではないでしょうか。なにしろ、当時の国民の半分が働いて造ったんだぞと言っていたように思います。 僧 わたしは外国から来たお客さんに、逆にたずねてみるんです。これを造った人は、自分の権力の偉大さを誇示するのが目的だったと思いますかと。すると、大低はそう思うと言いますね。 参 自分もその口かな。 僧 おやおや。目的は別のところにあるようですよ。今年はこの大仏さんの開眼供養が行われてから一二五〇年目にあたります。ということは、今から一二五〇年もまえ、どうしてこのような大きな仏さまを造ることになったのかという問題につながってくるのです。 ●本名はビルシャナ仏 僧 「奈良の大仏さん」と親しみをこめて呼ばれていますが、正式なお名前がおありで、ビルシャナ仏と言います。漢字では盧舎那仏とも毘盧遮那仏とも書きます。いっぺんにいかめしい感じになってしまいますね。これはインドの言葉ではヴァイローチャナと言うのですが、それを漢訳するとき、古い時代では盧舎那仏、新しい時代では毘盧遮那仏と音写したのです。新しいと言っても唐代、七世紀の末のことですが。 では、もとのヴァイローチャナはどのような意味かと言いますと、宇宙いっぱいに光り輝いておられるお方ということなのです。中国で光明遍照と訳しました。よく太陽と比較されることがありますが、ちがうのは、ビルシャナ仏の光は影を作ることなく、どこまででも透きとおしていかれる知恵の光だということです。 参 お釈迦さんではないのですか。 僧 むろんお釈迦さんと大いに関係があります。今を去ること二五〇〇年の昔、小さな国の王子であったお釈迦さんは、成長するにつれ、人間とは何か、人生とは何かについて深く悩むようになり、その真理を究めるために王子の地位を捨て、修行の道に旅立たれた。断食など厳しい行を積まれること六年、いくら体を痛めても真理を見いだせないと思われたお釈迦さんは、村娘から差しだされた乳ビ(乳がゆ)で体力を整えられるや、とある大樹の下に坐り、深い瞑想に入られた。それから幾日たったのでしょうか。お釈迦さんの心のなかに大きな変化が起こった。いわゆる「さとり」を開かれたのです。 お釈迦さんはさとりを得られた瞬間、無限の広がりをもって輝かれたと言われています。ビルシャナ仏とは、このときのお釈迦さんのお姿をあらわしたものです。ビルシャナ仏は無限大のお釈迦さんだと言えるわけで、ですから、本当はこの大仏さまでも小さいのです。しかし昔の人は、この大きさで無限大のビルシャナ仏ですよ、という意味を大仏さまの高さの五丈三尺五寸という漢字のなかにこめたようです。 ●ビルシャナ仏は『華厳経』の説くほとけ 参 さとりという言葉はよく聞くのですが、どんなことなのでしょうか。 僧 それはむつかしい質間ですね。実は『華厳経』というお経があって、そこではこのビルシャナ仏のさとりの世界が見事に説かれています。ふつう、さとりとは真理に目覚めることだといわれますね。それは、目覚める以前に迷いというものがあるからです。それはそうでしょう。わたしども人間は、あれもこれも欲しいとか、もっているものを失いたくないとか、いつまでも健康でありたいとか、さまざまな願望をもっていますね。しかし、それがなかなか思いどおりにはいかない。当然、悩みや苦しみが起こってくる。 そのような迷いの世界というのは、いわば暗闇の世界です。それに対してさとりの世界は煌々たる光の世界です。もっとも、お釈迦さんのさとりの世界は単なる光の世界ではないようです。先ほど、お釈迦さんは人生について深く悩まれた、と申し上げましたが、古い経典によると、お釈迦さんは目覚めの過程において「眼が生じ、智が生じ、慧が生じ、明が生じ、光が生じた」と言われています。おそらく、お釈迦さんは長い時間をかけて、とてつもなく深い心の暗闇のなかにさまよわれていたが、突如ご自身のなかに一条の光を見いだされ、その光はしだいに明るさを増し、やがてはみずからがその光となって地上を離れ、無限の広がりをもって宇宙に輝きわたったと、そのようにご自身のことについて自覚されたということでしょう。しかもその自覚は、単に空間的広がりばかりでなく、時間的広がりのうちにも体験された。 言い換えれば、自己が時空において無限に拡大拡散するという内的宗教体験を得られた。『華巌経』はそのような時点でのお釈迦さんをビルシャナ仏として称え、そのビルシャナ仏の世界を説いているお経なのです。ですから、そこには、大小であれ多少であれ長短であれ、物事をすべて「無限」という極限にまで突きつめてみるという世界観が透徹しているのです。ここでいう極限とは、拡大だけを意図しているのではありません。 たとえば、あなたが飛行機に乗って窓の外を見る。離陸すると地上の高層ビルも付近の山や川もどんどん小さくなっていきますね。あなたは飛行機という手段を使ってはいますが、あなたの視点から言えば、あなたはどんどんと巨大な人間になっていき、一方、一家々やビルのなかにいる人間は針の穴ほど小さくなっていく。極徴に縮小しているのです。このように『華厳経』のなかでは、今ふうに言えば、マクロの世界とミクロの世界が渾然一体となって描かれているのです。 ●小が大であり、一つがすべてである 僧 『華厳経』には、ビルシャナ仏は一切世界に遍満しているとか、その一身をもって一切世界を覆い、一身のなかに一切世界の一切の仏たちが収まったとか、お釈迦さんの一つひとつの毛孔に一切世界の徴塵数にひとしい仏国土が入り、過去未来にわたる一切世界の消減と生成とをあらわされたとか、不思議な言葉がよく出てきます。なるほど、よく考えてみれば、星々のきらめく宇宙には、どんな消減と生成があるのでしょう。またわたしどもの身体を成り立たせている数限りない細胞のなかには、どんな世界が展開しているのでしょう。不思議なことがいっぱいです。ただどちらの世界にも、宇宙の真理がはたらいているのではないでしょうか。 しかも注意していただきたいことは、「一切の徴塵の中に一切の法界を見る」とか「一世界は即ちこれ無量無辺世界、無量無辺世界はこれ一世界」とか、「きわめて長い時間がきわめて短い時間である」とかいったお経の言葉です。華厳思想を象徴する言葉の一つとして「一即一切、一切即一(いちそくいっさい いっさいそくいち)」ということが言われますが、これはこうした極限化という、ものの見方をまとめたものです。 この極限への視点は、わたしどもに二つの事柄を教えてくれています。まずその一つは、具体的な事物や事象はむろんのこと、時間も含めて、あらゆるものが孤立した存在ではなく、他のすべての存在と限りなくつながっており、さらには全体としても係わり合っているのだ、ということです。むろんこれには、実体ととらえられるものは何一つとして存在しないという透徹した見方が根底にあってのことですが。 自分一個の人間は、決して一人では生きていけませんね。多くの人々、多くの事物、多くの動植物のお蔭で、まさにあらゆる存在や事象のお蔭で生きていけるということでしょう。そう考えると、この有機的なつながりは単に静態的な意味においてだけでなく、動態的にも言えるでしょう。要するに、個々のものは、全体として互いにはたらきあってもいるのです。 (……後略……) |
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