| 法華経の導きと救い |
| 大正大学名誉教授 渡辺 宝陽 (わたなべ ほうよう) |
| (2003年『大法輪』10月号より抜粋) |
| 一、すべての衆生は仏子である 「今この三界(さんがい)は、皆これわが有(う)なり。そのなかの衆生は、ことごとくこれわが子なり。しかも今このところは、もろもろの患難(げんなん)多し。ただ我れ一人のみ、能(よ)く救護(くご)をなす」 譬喩品(ひゆほん)第三に説かれている有名な経文です。その意味は、「今、凡人(凡夫・ぼんぷ)たちが生きる苦悩と迷いの世界は、すべて皆、仏陀につつまれている世界なのである。だから、迷いの三界に生きる衆生は、皆、仏陀にとってわが子なのである。その上、今、この世界はわずらいが多いのであるが、ただ仏陀のみが、この世界の人びとに救いを示しているのである」 このように、菩薩の導きに目覚めようとする者には、諸仏・諸尊の加護が加えられていることが説かれています。 舎利弗尊者(しゃりほつそんじゃ)は、修行を重ねて阿羅漢(あらかん)の悟りを得た、お弟子のなかで智慧第一のすぐれたお弟子です。しかし、大乗仏典では菩薩の悟りに到達できなかったとして批判されておりました。実はついに阿羅漢を得たということは、通常の認識からすれば相当高い境地への到達を意味することとされるのですが……。 ところが、方便品(ほうべんぽん)第二でいきなり「あなた方は、自分では気が付いていないけれども、ずうっと菩薩としての修行の道を歩みつづけているのだ」と、仏陀釈尊から告げられたのです。そしてさらに譬喩品第三において、舎利弗尊者が修行をつづけて行き、やがて未来世の世界で華光(けこう)如来という仏陀となると保証されるのです。これを〈上根(じょうこん)への授記(じゅき)〉といいます。 次いで、授記品(じゅきほん)第六で声聞(しょうもん)のなかから四人の代表が、それぞれに〈中根の授記作仏(さぶつ)〉を告げられ、さらにその他大勢のお弟子への授記成仏が〈下根(げこん)の授記〉として示されていきます。こうして声聞の悟りに安住していた仏弟子に奮起を促し、菩薩の修行をあきらめずにつづけることによって、仏陀のほんとうのお覚(さと)りへの道を進んでいくことが示されているのです。 二、悪人・女人もかならず成仏を達成する 声聞(しょうもん)とよばれる直弟子たちへの将来成仏の保証の延長上に、〈悪人・女人(にょにん)の成仏〉が語られております。 日本で『法華経』の文化が華やかに開花したのは、平安時代だといえましょう。あの『源氏物語』を書いた紫式部や、『枕草子』を書いた清少納言たちも、比叡山を開いた伝教大師最澄の系譜を受ける僧に導かれて、『法華経』の内容をよく理解していました。救われることができないと決め付けられていた女人の成仏が、『法華経』では保証されていると説かれるところから『法華経』を讃え、必死になってその内容を勉強したのです。 直接には提婆達多品(だいばだったほん)第十二の後半に、わずか八歳の龍女(りゅうにょ)の成仏が説かれ、勧持品(かんじほん)第十三の前半で、お釈迦さまの養母・摩訶波闍波提比丘尼(まかはじゃはだいびくに)と、皇太子シッダルタ時代のお妃・耶輸陀羅(やしゅだら)比丘尼をはじめとする女人に、成仏の保証がなされています。 これらが収録される『法華経』第五巻は非常に尊重され、『平家納経(へいけのうきょう)』をはじめとして、第五巻を写経するときにはよい用紙を用い、多色で書写され、素晴らしい絵が挿入されて、一段と力が込められました。 さらに提婆達多品第十二の前半では、お釈迦さまの従兄弟にあたりながら、最大の悪人の汚名を着る提婆達多の成仏が説かれています。 平安時代の貴族は、こぞって悪人・女人の成仏に導く『法華経』への信仰を厚くしていったのです。このようにして、『法華経』の救いが人びとに幅広く崇敬されたのです。 三、仏陀は永遠の導きの師 これまでの内容は、ほぼ『法華経』前半で展開されています。ところが、『法華経』後半になると、お説法の内容が一変します。従地涌出品(じゅうじゆじゅつぽん)第十五において大地が裂け、地下からガンジス河の沙(すな)の六万倍もの多数を数える立派な菩薩(ぼさつ)たちが出現し、『法華経』を聴聞しているお弟子をはじめ、菩薩や諸天(しょてん・神々)を驚かせました。人は目の前の現実がすべてだと思い込みがちです。そのような認識を一変させるために、仏陀釈尊の前に、久遠(くおん)の最初から導きを受けつづけてきた立派な大菩薩たちが、一度に出現したのです。 こうなったら、これまでの常識であったささやかな仏陀の導きの姿を見なおす必要が出てきます。永遠の時の流れの一齣の出来事だけがすべてではなかったのです。仏陀釈尊は永遠の過去において、すでに立派な久遠の本弟子(ほんでし)を養成していたことが明らかにされます。なぜかといえば、釈尊が出現された時代から見て未来の時代に、仏教の伝道が非常に困難な時に久遠の仏法を伝えることのできる立派なお弟子が必要となるからです。そのような役割を果たすことができるのは、久遠の本弟子のみなのです。 こうして、仏陀はもはや偶然、歴史上に姿を現わしたのではないことが明確になります。久遠の仏陀釈尊という認識として、すべての人びとの救いが明らかにされているのです。禅宗においては道元禅師が『法華経』の心を修行のめざす境地とし、その境地を『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』におよそ二十年あまりをかけて明らかにしました。 仏道修行はきびしく継続しなければなりません。また、その導きの境地は凡夫(凡人)の判断を超えていることを知ります。かくして、ひたすら久遠の仏陀釈尊の導きに素直に従う心で生きるとき、仏道修行者は久遠の昔からの導きを顕彰し、『法華経』のほんとうの救いのなかにあるを知るのです。 (以下、つづく) |
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