| 良寛の逸話 |
| 大阪・蓮光寺前住職 森 正隆(もり・しょうりゅう) |
| (2002年『大法輪』11月号より抜粋) |
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(……前略……) 9. 盆踊りオール・ナイト 毎年、お盆の頃ともなると、村中総出で集って来て、文字通りオール・ナイトで盆踊りを踊りまくるのである。もう乗りに乗りまくって踊り明かすのだ。厳しい日々の労働から解放されての無礼講。特に雪深い越後では肌もあらわに奔放に踊れるのは夏の宵のひとときだけ。手の舞い、足の舞い留まるところしらずとは、こういうことなんであろうか。 わが良寛さまも、この盆踊りが好きで好きでたまらず、遥か彼方の鎮守の森からドンドコ太鼓の音でも聞こえようものなら、もう居ても立ってもおれないで、村人達の踊る輪の中へ入って行かれた。 その日は、手拭被って坊主頭をかくし、娘子の身ぶり手ぶり腰つきよろしく踊られた。それを見つけた村の若衆、それと知って良寛さまのお傍に近づき、 “これ見たかや、なんと上品な娘子がいるもんだてェ、一体、何処の娘子だいねェ!” この囁きを聞かれた良寛さま、もうウハウハうれしうなっちまって、 “おらが踊り出せばサ、村の衆がおったまげちまって、何処の娘子だいねッてサ” 半年近い冬ごもりのエネルギーが爆発、此処を先途と踊り狂ったと。 先に掲げた良寛さまの戯歌一首、 どむなおとこにどむすのはおり、 きせてみたれば、なおどむだ。 今なお歌い継がれているとのこと。 また良寛さまの発句に、次のようなのが残っている。 手拭で年をかくすや盆踊り いざさらば暑さを忘れ盆踊り また和歌には 風は清し月はさやけしいざ共に 踊り明かさん老のなごりに 君歌へわれ立舞わむぬばたまの 今宵の月にいねらるべしや どちらかといえば、一人コトコト手習いをしている方が好きなんだといわれる良寛さまではあるが、一方では「今宵の月にいねらるべしや」こんなすばらしい月夜の晩に、寝てなんぞおれるもんかい──こんな一面も同時にもっておられたところ、これまた何ともいえないうれしい横顔といえよう。懐かしいお人だネ。 10. 禁じられた遊び 良寛さまがお出かけになる先の村々に、大勢の子供達が待っていた。そこではいつも、手毬つき、ハジキ、かくれんぼ……は毎度のことながら、どうやらそればかりでなく、時には、チトきわどい遊びもなさったとか。そんな記録をめくろう。 きわどいって、ズバリ申して“葬式ごっこ!?” 野辺の道端に長々と横たわられた良寛さまはピクリとも動かず、どうやら呼吸もしていなさらぬを見て、子供達はあっちこっちから草や木の葉を集めて来て、良寛さまの上に覆いかぶせる。 お顔も体もすっぽり草や葉っぱに隠れたのを見届けると、それなりの「一件落着」というべきなのか!? 悪童連はやんややんやの喝采をしてはやし立てる。それでも和尚さま、ピクリとも動かぬ。葬式ごっこの主役とは、さてもさてもしんどいものでありまするナ!? [後日譚]一人の悪賢い子供が思いついた。今度、良寛さまが死んだふりをなさったら、本当に息ができんように鼻をつまんでやろう──と考えた。そして、いよいよその時がやって来た。お顔を覆っている草や木の葉を払いのけ、思いっきり高いお鼻を力いっぱい二本の指でつまんだ。 死者? のぐるりを取り巻いていた子供達、最初は手を打ってはしやいではいたが、だんだん時が経つにつれ、ウンどもスンともいわない良寛さまが心配になってきて、恐る恐るそのお顔を見つめるために寄り集って来た。いくら息の長い和尚さまでも限界がある。とうとう辛抱たまらず、“プハァーッ”とばかり、大声を立てて生き? かえられた。 そのお姿を見た悪童達、またまた手を打って大はしゃぎ。頭から胴から木の葉っぱ、草だらけの良寛さま、そのお姿を見て子供達、何とも早や申し訳なく思うたんであろう。みんなで良寛さまを起こして、木の葉や草を払い落としてさし上げた。 金色の大きなお陽さまが、遠くの森に沈みかけ、辺り一面黄金世界。 “良寛さまァ、明日もまたお天気だいネ、また、おら達と遊んでおくらっしゃいネ” 11. 蛆虫、田虫に蚤、虱 良寛さまは、国上山の五合庵にて一人自炊生活。厳しい禅ので修行をされた方だから、食事の準備ぐらいはお手のもの。ところが、材料が充分にあるでなし、ギリギリの素材を利用して作られるもんだから、万事不足がち──と考えるのは現代の我々の考え方。ご当人にしてみれば、そんなこと百も承知、覚悟の上。 ただ、食物を保存せねばならない。長雨続きとか、雪の降る日は托鉢もままならぬ。特に冬期は大変だったろう。晩秋も十一月ともなれば暗雲低く垂れこめ、冷たいみぞれがびしょびしょ降り続き、それがやがて雪に変わる。明けて春四月の声を聞くふもと頃までは、麓の村まで降りることは難儀だったろう。ということは半年近くは閉じこもりの越冬隊? 生活。 日常生活での食物記録の中には醤油の実というのが出ているが、これは俗にいうもろみのこと。囲炉裏の隅に小さな壷を置いて、食べ残したものは全てその中に入れておかれた。保存の唯一の知恵だったんだろうか。そして、夏の暑い盛りでも、これを取り出して食べられた。 たまたま人が訪れて来たれば、その壷からこれを取り出して、 “お前さんなじだネ(どうです)一つ食べてみらっしゃいや” とすすめられたとか。客人、それを見ただけで辞易し、ご辞退申し上げた。当のご本人は何食わぬ顔にて平然とその名状し難き食物を食べておられた。そして一言、 “蛆がわいたたって、こうして椀に盛ればサ、ひとりでに出ていくてがねェ、別に何てェこたァねェてばねェ──” 「唯足ルヲ知ル」絶対ギリギリの食生活だったことがよく偲べる。 拙僧は国上の五合庵へ前後十回ほどお詣りしでいる。最初は昭和十一年夏八月半ば。庵の前に佇んで、何とも早や、お粗末な淋しい一軒家やなァ……と。もっとも、良寛さまのことは、絵本に登場なさる不思議なお坊さま程度の知識しかなく、そのお方が江戸末期に間違いなくこの辺りにいられたとの確認ができた。 その後、成人して、昭和五十年頃、一人で訪れた折のこと、フト妙なことに気がついた。お笑い召さるナ。この五合庵には風呂がない。さてとなると、これは一体どういうことになるのかいナ? と庵の縁側に一人腰をおろして思索してみる。庵の後ろの崖からチョロチョロ湧き出る岩清水で冷水摩擦かナ? それとも山腹にある国上寺の庫裏のお風呂へもらい風呂かナ? 愚にもつかぬことながら、ちょいと気懸かりになる。別にどうでもよいことながら、長い歳月の日々のことを思うと、どうも、どうでもよいこと、ではなくなってきたようだ。 ところである日のこと、良寛さまのお手紙の記録に関する書物を見ていた際、次の一文が目についた。 いんきんたむし再発致候間 万能功一具 御恵投被下候 七月九日 守静老 良寛 ほんの小さな紙切れにこの文書を書きつけ、傍に貝殻の絵が画き添えてある。昔は軟膏薬を貝殻に入れたもの。“これ、この絵のものを貰って来て下され──”と、ご丁寧にメッセンジャーに示してござる。使いの少年、それが何の役目か知らぬままに、大切な書付をひしとかき抱いて、坂道を飛ぶように駆け降りて、地蔵堂のお医者めがけて一目散。 守静老とは、地蔵堂の大庄屋富取武左ヱ門の分家のお医老さま北川守静先生のこと。筆を走らせば簡単ながら、これはとても、ひとっ走りの距離でないことは確かである。 痒いついでと申せば不見識との謗りを免れぬかも知れぬが、有名なる次の一首、 蚤虱音をたてて鳴く虫ならば わが懐は武蔵野の原 風雅なお方の手にかかりますれば、蚤でも虱でも何でもみんな三十一文字になってしまうのだから、これまた只々畏れ入るばかり……。 たとえ噛まれようと、血を吸われようと、可哀そうで殺せないのだ、だからそいつらがもし音を出して鳴く虫だったら、良寛さまの懐の中は武蔵野田園交響楽の大演奏会になるであろうとの思召しか? (後略) |
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