| 仏教を学ぶということ |
| 花園大学学長 西村恵信 (にしむら えしん) |
| (2003年『大法輪』11月号より抜粋) |
| 一、 「昔、白楽天(はくらくてん)が鳥か道林(ちょうかどうりん)和尚に向かって、「仏法というものはどういうものですか」と尋ねると、「いかなる悪いこともせず、できる限りの善いことを行うことだ」(諸悪莫作(しょあくまくさ)、衆善奉行(しゅぜんぶぎょう))と答えられた。白楽天が「そんなことなら三歳の子供でも知っているじゃありませんか」と言うと、和尚が、「三歳の子供にでも分かることだが、八十歳の老人でさえ実行が難しいということじゃ」と答えられたと伝えます。 つまり釈尊が説かれた仏教というものは、少しも難しいものではなく、誰にでも分かるようなものであるが、その教えを自分のこととして身に受け、毎日の生活の中で実践するとなると一生かかってもなかなかできない、ということであろう。 そもそも仏教というのは、二千五百年も前に仏陀の説かれた教えであるから、その内容は経典やその注釈、あるいは祖師たちの親切な手ほどきを通してでなければ、それを知る術はないのである。しかしそういうものをいくら勉強しても、まるで絵に画いた餅を眺めているようなもので、少しも腹は膨れない。「画餅(がびょう)飢えを充たさず」ということは、これまた分かりきった道理なのだが、凡人には、そのことが身に染みて分からないのだから情けない話である。 それどころか私たちは、少しでも仏教の本を読んだり、偉いお坊さんの話を聴いたりすると、分かったような気になって、結構それなりに満足を感じてしまい、その慢心に酔って人生の真実を見えなくしてしまうこととなり、その結果、仏教を学んだことが、かえって始末の悪いことにさえなる。 なるほど仏教と全く無縁のうちに人生を過ごしてしまう人に比べれば、いく分たりとも仏恩に浴していることは間違いないが、その教えが本当に自分のものとなって身に付いていない限り、何も知らない人とそんなに差はないことになる。そればかりか、若いときからお寺に詣ったり、坐禅を組んだり、仏教の話を聴いたりして過ごしてきた時間が、一体何のためのものであったか分からなくなってしまいかねない。 二、 どうしてそういうことになるのかと言えば、やはり仏教との関わり方に問題があるのではなかろうか。筆者はすでに五十年前、久松真一先生から仏教の学び方に、宗教的学び方と科学的学び方の二つがあることを教えられていた。にもかかわらず先生の教えを知識として知っただけで、いらい仏教を本当に宗教的に学んだのかというと、これまた甚だ心許無いしだいである。 久松先生の言われる二つの学び方は、その動機と方法がまったく異なるわけであるから、当然それによって得られる果実も異質なものとなって現れる。仏教の科学的学び方というものは、もともと知的な関心から始まるものであり、その方法は読書や講話によって仏教に関する知識を外から得ることにある。そういう知識はしかし、誰とでも共有することのできる一般的知識であり、真に自分の生死(しょうじ)にとって固有のものではない。そんなものが自分の死にとって何の役にも立たないことは、余りにも自明のことであろう。そう分かっていてもやはり仏教の勉強は捨てがたいというのが人情であるし、それはそれなりに十分意味のあることに違いない。しかし、真に仏教を学ぶということが、そういう事とはっきり一線を画しているのは事実である。 いつの頃であったか、遠藤周作の随筆「老いて、思うこと」を読んでいて、上に述べた私の感想に確信を与えられたことがある。遠藤は次のように書いていた。
筆者にはこのグリーンの言葉が何となく分かるような気がするのである。グリーンから「老いと共に信仰が失われていく」と聞かされた司祭が、聖職者としてどのように思ったかについては知るよしもない。ただ彼は死に行く友人に向かって「神は今、君を待っている」と言ったというが、司祭としてはそれ以外の言葉は無かったであろう。しかし人の死を看取る司祭にとって、それがどれほど苦しい時間であったことかと筆者は同情する。 三、 ところで、「仏教を宗教的に学ぶ」ということはいかなる事であろうか。久松先生によれば、まず学ぶことの動機が宗教的でなければならないとともに、その方法も宗教的でなくてはならないのである。そうすればその結果は当然宗教的なものになるはずである。そういうことを先生は講義せられたと記憶する。 動機が宗教的ということは、仏教を知識的な関心から学ぶのでなくて、本当に自己の人生にとっての重要な課題として仏教を学ぶことである。その契機となるものは人生や世間の不条理に対する深い懐疑であり、それについて自分で納得のいく解決が得られなければ明日を迎えることさえ出来ないというような、切実な欲求でなければならない。 逆に言えば、普通の人間にはそのような人生と世間についての深い疑いというものは殆んど起こり得ないのであって、宗教は厳密にはそういう疑いに撞着(どうちゃく)したもののためにのみあるもの、と言ってもいいであろう。 したがってその学ぶ方法は、全身全霊を挙げてということになる。そういう学び方を道元は「身学道」と呼んだのである。そしてこういうように学ぶためには、先ず自己の身体を捨てきらなければならないというのが、仏教の宗教的学び方の根本条件である。道元の言葉を借りれば、「仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法(まんぽう)に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心(しんじん)、および他己(たこ)の身心をして脱落せしむるなり。」(『正法眼蔵』現成公案)ということになるであろう。 仏教を宗教的に学ぶということは、このように生死(しょうじ)する自己を一度捨ててしまわなければならないのであるが、この愛しい自己を無きもののようにすることは容易なことではない。だから話として分かっていても、八十歳の老人といえども、これを実践することは至難中の難ということになるのであろう。 四 仏教を学ぶということについて、筆者はいささか大上段に振りかざしてしまった嫌いがある。自分にも出来ないことを、あれこれ言うことじたい無責任なことと恥ずかしく思う。本誌を手にされる読者の方々は、いずれも若いときから真面目に仏教を学ぼうとして人一倍の努力をされてきた人ばかりであろう。それはそれで尊いことであり、それによって自分自身の人生に深みを与えてこられているのは間違いないことと思う。ただやはりもう一度自戒を込めて言うならば、そういう仏教の学びが、単に仏教に関する知識としてではなく、毎日の生活における仏道修行者としてはっきり反映するような学びであって欲しいものと思いたいのである。 「四弘誓願(しぐせいがん)」を心して唱えるならば、先ず「衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)」であるから、それがどれほど多くのものであろうと、一切の苦しむものに安らぎを与えたいと誓うことが仏教を学ぼうとするものの第一条件。そして次に「煩悩無尽誓願断(ぼんのうむじんせいがんだん)、自分の限りない欲望をどうかして根絶してしまいたいと誓う。第三に「法門無量誓願学(ほうもんむりょうせいがんがく)」。学ぶべき仏陀の教えは、一生かかってもとうてい学び尽くせるものではないが、それでも死ねまで学び続けたい。 そして第四に「仏道無上誓願成(ぶつどうむじょうせいがんじょう)」。仏の道は限りなく遠く高いが、死の瞬間までこの道を歩み続けたい。仏教徒としてのそういう誓願をもって仏道を歩み続けること、これがわれわれ凡人にも与えられた「学仏道」の一筋道であろう、と筆老は固く信じて止まない。 |
||||
![]() |