はやわかり日本仏教
東洋大学教授 菅沼 晃(すがぬま・あきら)
(2004年『大法輪』11月号より抜粋)

 
   
  ◇仏教伝来
 西暦前5世紀のころ、インドのガンガー中流域で興(おこ)った仏教は、インド最初の統一王朝であるマウリヤ王朝第三代アショーカ王(阿育王=あいいくおお、前268─232在)やクシャーナ王朝のカニシュカ王(紀元後2世紀)によって、インド全域に広められた。しかし、アショーカ王やカニシュカ王の場合、王が一方的に仏教を民衆に押し付けたのではない。インドでは一般民衆のあいだに信仰が広まり、支配者はこれに従うのが普通だったからである。仏教を受け入れるかどうかは、原則的に民衆の側の意向によるのであって、支配者の意思だけではない。この点、中国・チベット・モンゴル・日本の場合は逆であり、一般民衆の信仰の前に、支配者側の仏教受容の意志決定があった。
 さて、一般に、インドからスリランカに伝わり、東南アジア全域に普及した仏教を「南伝(なんでん)仏教」、ガンガーを中心とした西北インドからパミール高原を越えて西域諸国を経由し、中国に伝わった仏教を「北伝(ほくでん)仏教」という。朝鮮半島を経て日本に伝来したのは、言うまでもなく北伝の大乗仏教である。
 日本に初めて仏教が伝えられたのは、欽明(きんめい)天皇の時代(西暦538年、あるいは552年)、百済(くだら)の聖明(せいめい)王から欽明天皇に仏像や経典が贈られたのが、「公伝(こうでん)」とされる。これは百済から倭国(わこく)に正式の外交ルートによって伝えられたもので、実際はそれ以前に、中国・朝鮮の文化とともに「渡来人(とらいじん)」によって伝えられていて、信仰は個人の自由にまかされていたと推定される。
 しかし、欽明天皇が国家として仏教を正式に受け入れるかどうかを豪族たちに諮(はか)ったとき、大臣(おおおみ)の蘇我稲目(そがいなめ)は「中国や朝鮮の人々が信仰している仏教をどうして日本人が信仰してはいけないのか」と主張し、大連(おおむらじ)の物部尾輿(もののべおこし)は「日本古来の神々の怒りをまねく」と言って反対したという。この仏教受容の是非論の背景には二大豪族の政治上の勢力争いがあった。ついで、用明(ようめい)天皇が即位して仏教信仰を表明すると、再び両豪族の間に争いがおこり、ついに崇仏派の蘇我氏が排仏派の物部氏を滅(ほろぼ)し(587年)、ここに仏教はまず支配階級のあいだに広まることとなった。
 推古(すいこ)天皇2年(594)には、「仏教は優れた教えであるから国民はこぞって信仰せよ」という「三宝興隆(さんぽうこうりゅう)の詔(みことのり)」が発布された。このとき、はじめて、特定の宗教(仏教)が天皇の名で「興隆」を命じられたのである。インドのアショーカ王やカニシュカ王の場合と対照的である。
 このように初期の仏教受容は政治的な関係のなかで行われたが、仏教の教えの本質を理解したうえで、逆にそれを政治に生かそうとする人物が登場する。叔母に当たる女帝推古天皇の摂政(せっしょう)となった聖徳太子である。聖徳太子の事跡については確実な資料がなく、また後に「太子信仰」が広まったために、正確な史実は不明であっていまなおさまざまな議論があるが、一般には儒教や仏教の教えを中心にした「十七条憲法」を制定し、四天王(してんのう)寺、斑鳩(いかるが)寺(法隆寺)などを建て、大乗仏教の三つの経典に註釈(『三経義疏(さんきょうぎしょ)』)を書いた人物として知られている。いずれにせよ、太子が仏教受容に重要な役割を果たしたことは事実であり、仏教初伝からおよそ一世紀のあいだに、この異国の宗教は皇室や貴族層のあいだに広まり、定着することとなった。

◇奈良・平安仏教から鎌倉新仏教へ
 初伝以来、天皇や貴族層に広まった仏教は大化改新を経て律令(りつりょう)体制が確立されると、豪族よりも宮廷に移って「国家仏教」としての性格をつよめていった。それは、聖武(しょうむ)天皇による全国規模の国分寺〔(こくぶんじ)僧寺(そうじ)尼寺(にじ)〕の建立に象徴される。仏教寺院の側からすれば、「鎮護国家(ちんごこっか)」こそ、第一のつとめだったのである。
 奈良時代(710─784)には、中国諸宗派の伝来によって、三論(さんろん)宗、成実(じょうじつ)宗、法相(ほっそう)宗、倶舎(くしゃ)宗、律(りつ)宗、華厳(けごん)宗の「南都六宗(なんとろくしゅう)」が成立、国家によって公認された。奈良仏教も鎮護国家の役割りをになうものであったが、聖武天皇の発願(743)で東大寺に造立された大仏は国家の威勢を示すだけではなく、悪霊や邪神によると信じられていた災害・疫病などを退散させ、民衆に安泰をもたらしたいという願いがこめられていた点が重要である。
 この時代、僧尼は「僧尼令(そうにりょう)」によって規制を受け、出家するのにも朝廷の許可が必要であった。「僧尼令」による「官僧」にたいして、それによらない「私度僧(しどそう)」とよばれる人々があり、行基(ぎょうき)によって代表される。行基は大仏建立に当たっては民間の募金活動(知識結=ちしきゆい)を行い、全国を行脚(あんぎゃ)して各地に橋を架け、井戸を掘り、病気を治したりして布教と社会救済活動につとめた。日本仏教には救済理論をくみ立てて布教に当たるだけではなく、直接的に社会問題や福祉問題にとりくもうとする人々の流れがあり、それは行基に始まったと言ってよいであろう。
 平安時代の仏教は最澄(さいちょう)と空海(くうかい)によって新しい息吹きが吹きこまれた。伝教大師最澄は中国(唐=とう)に留学して天台宗を究(きわ)め、同時に禅、密教、戒律をも学び、帰国後は比叡山にこれら四宗を一体とした天台法華宗を創立した。弘法大師空海も唐に留学し、恵果(けいか)から真言密教を学んで帰国し、高野山に金剛峯寺(こんごうぶじ)、京都に東寺(とうじ)を建て、真言宗を開いた。これらの寺々は鎮護国家の根本道場とされ、空海が新たに伝えた加持祈祷は民衆に迎えられたが、奈良仏教が国家仏教であったのにたいして、平安仏教は貴族仏教の色がつよく、本当の意味の民衆救済を説く仏教はつぎの鎌倉時代に成立する。
 平安時代の中ごろから鎌倉時代のはじめにかけて、大雨・洪水・冷気・旱魃(かんばつ)などの天災地変が多く、人々は凶作・飢饉・疫病などに苦しんだ。しかし、政治も既成の仏教々団も末法(まっぽう)到来を感じて救いを求める人々の願いをかなえる力を失っていた。しかし、人々は苦しみの世からの最後の救いを仏教に求めつづけた。そして、ついに人々の切なる願いにこたえる新しい宗教が生まれた。それは、これまでの古代仏教を批判し、民衆に新しい生き方を教える、まったく新しい仏教であった。
 この新しい仏教運動は念仏と題目と禅であり、これらは互いに影響しあいながら、政治的に新たに抬頭した武士階級の支持をも得て、新しい時代の新しい仏教として発展することになったのである。ここに、仏教は皇室や貴族などの支配階級だけのものではなくなり、加持祈祷などの呪術性を離れて本当の意味での宗教性をとりもどし、民衆の一人一人の救済を目指すものとなったのである。この時代の仏教は「鎌倉仏教」とも、あるいは、その革新性から「鎌倉新仏教」とよばれ、個性豊かな祖師たちがさまざまな宗派を開くという形で展開した。
 阿弥陀仏(あみだぶつ)の救いをひたすら信じて南無(なむ)阿弥陀仏と称えれば、だれでも救われると主張して、念仏を唯一の救いとして説いたのが、浄土宗の祖となった法然(ほうねん)、浄土真宗を開いた親鸞(しんらん)、時宗の開祖一遍(いっぺん)であった。また、日蓮(にちれん)は南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)という題目を唱えることによって、個人も国家も救われると主張して日蓮宗を開いた。さらに、一切の経典や文字による教説は悟りという月を指さす指にすぎず、重要なのはブッダの悟りの心そのものをつかみとることだ、と主張する禅が日本に伝えられたのもこの頃である。臨済宗の禅は栄西(えいさい)・円爾弁円(えんにべんねん)などによって、曹洞宗系の禅は道元(どうげん)によって、中国の宋(そう)より伝えられ、新勢力として政治の中心となった武士階級の人々の心をつかんで定着していった。この時代には宋が元(げん)に追われて南方に移ったことによって、蘭溪道隆(らんけいどうりゅう)・無学祖元(むがくそげん)などの中国僧の渡来があり、禅寺だけではなく、一般の日常生活にも影響を与えた。
 これらの鎌倉新仏教の特色として、従来よりそれぞれの宗派が、多くの仏教の教えのなかから一つの教え(一経典・一仏)や修行を選びとって(選択=せんちゃく)、もっぱらその行を行い(専修=せんじゅ)、その行は日常生活のなかでだれでもが容易に実修できるものであって(易行=いぎょう)、貴族・武士・農民の一人一人を同じように救済の対象としたことがあげられている。「選択」と言っても、親鸞や道元・日蓮自身は大小にわたる経典のすべてを読み、それにもとづく独自の宗教体験の結果として一経典を選びとって教えのよりどころとしたのであり、ここに日本独自の救済理論を持つ仏教が生まれたことになるのである。現在の日本仏教はその延長線上にあると言ってよいであろう。

◇日本人の生活と仏教
 中国大陸から朝鮮半島を経て仏教が伝えられて以来、仏教が本来的に持っている寛容・融和の性格と、外来のものを別け隔てなく受け入れる日本人の柔軟な性格が相俟(あいま)って、日本独特の文化・風俗・習慣がつくられた。それは社会的な面から民衆の日常生活にまでおよんでいる。なかでも仏教寺院が人間の死にかかわる葬式に従事するようになったことが重要である。古代においては、東大寺や興福寺などの官立寺院の僧たちは死穢(しえ=古代においては死は穢(けが)れであり、忌(い)むべきものと定められていた)を避ける義務があって葬式に従事することができず、葬送を行うようになったのは鎌倉時代からである。さらに徳川幕府の宗教政策によって寺院が死者の記録を管理することが義務づけられてからは、仏教寺院と葬式は切り離せないものとなったのである。
 彼岸会(ひがんえ)や盂蘭盆(うらぼん)・花祭りなどは日本古来の祖霊信仰と習合して、春夏秋冬にわたる日本人の日常生活の節目となる重要な行事となった。また、室町時代から江戸時代にかけて武道・茶道・芸能・絵画・彫刻・音楽・文学・建築・造園などに大きな影響を与え、日本独自の芸術や文化をつくりあげる原動力となった点を忘れてはならないであろう。

◇現在の仏教とその展望
 江戸時代、仏教寺院は幕藩体制のもとで、封建支配の末端機構に組みこまれ、宗門改(しゅうもんあらた)めや寺請(てらう)け制度によって人々の信仰を統制する役割をになわされていた。幕府はそれぞれの寺院に寺領を与えて経済的に安定させる反面、本山と末寺の支配服従関係、寺院と檀家の関係を制度化してすべての人々をいずれかの寺院に結びつけた。寺院は幕府によって手厚い保護を受け、僧侶は公的な身分を保証されて高僧や学僧が多く出て各宗の教義(宗学=しゅうがく)が整えられた。
 しかし、維新直後の明治元年(1868)「王政復古の大号令」についで「神仏判然令」(神仏分離令)が出され、明治政府によって神仏分離政策が断行されると、日本全国で「排仏毀釈(はいぶつきしゃく)」がおこなわれて、仏教寺院は仏教伝来以来かってなかったほどの大打撃を受けることになった。
 各地で吹き荒れた排仏毀釈の嵐は数年でおさまり、やがてさまざまな仏教復興運動がはじめられた。明治初期の文明開化と対応して仏教の近代化を計ろうとする真宗系の人々による復興運動から明治三十年代の新仏教運動にいたるまで、復古運動ではなくて近代国家にふさわしい宗教を目指し、近代国家の市民としての信仰の確立を目的とするものであったことに注目すべきであろう。排仏毀釈という名の仏教弾圧は不幸なできごとではあったが、これは旧態依然とした仏教を近代社会に合致させ、近代市民社会の心のよりどころとなる宗教に生まれ変わらせるための絶好のチャンスでもあった。
 太平洋戦争が始まると、仏教界は挙国一致・大政翼賛(たいせいよくさん)の戦時体制に組みこまれたが、日本の無条件降伏という形で戦争が終結したとき、さらなる試練が待ちうけていた。それは敗戦によって従来の価値観がいっきょにくずれ去り、よりどころを失った人々にどのような心の支えを与えられるか、ということであった。人々が生きる目標を失っていた混乱の時期に、さまざまな宗教が登場して道を説くなかで、宗派仏教の側から迷える人々を精神的に導くためのまとまった行動をおこすことは、ついになかったと言ってよいであろう。
 日本仏教は宗派を中心とした仏教であり、自力聖道門(じりきしょうどうもん)といわれる禅宗から易行道(いぎょうどう)と称される浄土系の宗派まで、実に多くの宗と派が存在していて、それぞれ個性的な宗教活動を展開している。人間の性格は千差万別であるから、原則的には私たちは自分の機根や好みに合った宗派・信仰を選びとることができるのである。
 仏教という宗教はもともとこのようなものであり、ブッダの説法も応病与薬(おうびょうよやく)が基本であって、マニュアル通りの教えを信者に押しつけることは決してなかったと思われる。
 この点から言えば、日本仏教は仏教本来の姿を再現したものと言えようが、対外的活動の面から言えば宗派単位の発言、行動には限度があり、カトリック教徒を代表するローマ法皇の発言に比べれば、宗派単位のそれは世界的影響力において余りにも小ないと言わざるを得ないであろう。
 1056年、インドのアンベードカルが仏教に集団改宗したときの理由の一つに、「世界の仏教徒との連帯」があげられているが(具体的には日本の仏教徒による経済援助をも期待していたのかも知れない)、私たちは日本の仏教徒はインドのネオ・ブッディストとどのようにして連帯したらよいのであろうか。タリバーンによってバーミヤンの大仏が破壊されたときも、残念なことに、日本の仏教徒全体の名で抗議の声明を出すことはできなかった。
 今、日本仏教は新たな試練の場にある。生命倫理や平和の問題に、仏教がどう答えるかがきびしく問われているからである。個々の宗派や個人ではなく、日本の仏教徒の統一見解が出せれば、大きな力となり、社会を動かすことができる。それには統一的な組織が必要である。日本の仏教徒の総意で、世界の紛争地に出向き、「何があっても殺すな!」と訴えかけることができないものであろうか。