自ら徹する
禅林寺住職・東京黄檗研究所長 木村 得玄(きむら とくげん)
(2006年『大法輪』 11月号より抜粋)

 
   
  黄檗宗とは
私の所属する宗派は黄檗(おうばく)宗といいます。黄檗宗は1654年(徳川第四代将軍家綱の時代)に中国(当時は明清(みんしん)交替期)から来朝した隠元(いんげん)禅師(いんげん豆の名前のもとになった人)によって開かれた宗派です。
 当時は檀家制度が確立し、新寺建立が禁止されていた時代ですが、隠元禅師は特別に許されて、京都の宇治に黄檗山万福寺(まんぷくじ)を創建しました。この寺院の名前は隠元禅師が住職をしていた中国福建省の黄檗山万福寺と同じです。隠元禅師は中国では臨済宗に属していましたが、黄檗山の名前から臨済宗黄檗派と呼ばれるようになり、明治時代になってから黄檗宗という宗派になりました。黄檗宗では今でも世代を数えるとき臨済正宗と名乗っています。 当時は幕府の宗教政策により、僧侶は教化活動をしなくても寺院の運営がなりたち、住民側も自分の好きな宗派を選ぶこともできませんでした。このため、禅宗の僧侶の中には、禅の真髄をきわめようとして、中国に行って禅を学ぼうとする人もいました。しかし当時は日本人が外国に行くことは禁止されていたので、それを果たすことはできませんでした。ちょうどその頃、隠元禅師が来朝したので、臨済宗や曹洞宗の僧侶たちが多数馳せ参じたのです。それらの人たちのなかには、それぞれの宗派に戻った人もいますが、そのまま黄檗宗の僧侶になった人も多くいました。
 これらの僧たちによって約百年の間に千以上の黄檗寺院が造立されました。もちろん新寺建立禁止の時代ですから、他宗で廃寺同様になっていた寺を再興するというかたちがとられ、そのため、檀家のある寺が少なく、現在もその状況が続いています。
 黄檗宗の宗旨は当時中国で行なわれていた、禅・浄・密融合の仏教をそのまま受け継いでおり、日本では、黄檗宗は念仏禅であるとよく言われます。また黄檗宗の教義を説明するとき、「唯心(ゆいしん)の浄土、己身(こしん)の弥陀」という言葉をよく使います。浄土を西方極楽に求めるのではなく、あくまでも自身の心のなかに求めるという考え方で、これは臨済禅師が言った、「外に向かってもとめてはならない」という禅的な考え方に基づくものです。このようなことから念仏禅と言われるのだと思われます。また、隠元禅師は後水尾法皇の質問に対して次のように答えています。「禅の道は言葉を必要としない。ただ自分自身を投げ出して、無位の真人(しんにん)を体得し、自ら徹し自ら悟って真人とならなければならない。そして大悟徹底(だいごてってい)したならば、生きるも死ぬも自由自在である」と。また、一般信者に対して、「参究するもの、これ誰(た)そ」と説いています。隠元禅師も決して外に向かって求めてはならないと言っているのです。また、黄檗宗は戒を厳しく守るという当時の中国の伝統を受け継いでいます。そのため隠元禅師は、一般信者に対する授戒会を何回も行なっています。

黄檗派の影響と日本僧の活躍
 初期の黄檗派には中国から来朝した中国僧が多くいました。隠元禅師渡来の前後百年くらいの間に約80人の中国僧が来日しています。そして日本の黄檗山万福寺の住職も第十三代まではすべて中国僧が就任しています。隠元禅師の渡来によって、沈滞していた当時の仏教界、特に禅宗には多大の影響を与え、これが刺激となって、臨済宗では多くの優秀な人材を輩出し、曹洞宗では、人材の面だけではなく、儀式等の面にも多くの影響を及ぼしました。また、黄檗派の系譜にならって、宗統復古運動も起きています。
 特に木魚の帯来は影響が大きく、禅宗だけではなく、後には多くの宗派で使われるようになりました。また、黄檗派の影響は宗教的な面だけにとどまらず、書道、絵画、彫刻、建築、食材等、多方面にわたっています。
 臨済宗や曹洞宗から黄檗派になった人も多くいたことは前に述べた通りですが、それらの人たちのなかには、黄檗派の僧となってから、大活躍した人たちがいます。今回はそのうちで、一切経をめぐって活躍した二人の黄檗僧、鉄眼(てつげん)禅師と了翁(りょうおう)禅師を紹介したいと思います。

鉄眼禅師
 鉄眼禅師は肥後(ひご=熊本県)の生まれで、13歳のとき浄土真宗の僧となり、師の西吟とともに京都西本願寺の勧学寮にいましたが、西吟が兄弟子との間に教義論争を起こし、勧学寮が幕府の命令で閉鎖されてしまいました。このため鉄眼禅師は26歳のとき長崎にいた隠元禅師とその弟子木庵(もくあん)禅師に参じて禅宗の僧となり、その後豊後(ぶんご=大分県)の臨済宗の寺に行き、33歳のとき、郷里の近くの臨済宗の寺院の住職になっています。
 この頃、鉄眼禅師は中国から一切経を購入することを思い立ちました。鉄眼禅師は、病人に対する薬にたとえて、「この国もとより仏あり、僧あれども、法薬いまだ全からず」と説いて、一切経の重要性をとなえています。
 また、鉄眼禅師は女性信者のために「かな法語」を著していますが、それを見ると禅の修行を行なうとともに、多くの経典をよんで勉強していることがよくわかります。禅の修行をする上でも、内外の経典の重要性を感じていたものと思います。
 鉄眼禅師は36歳のとき、隠元禅師の弟子即非(そくひ)禅師(中国僧)が小倉に寺院を創建したのを契機に、その寺の役位となり、それ以後は黄檗僧として活躍しました。
 鉄眼禅師は38歳のとき、一切経を中国から購入するよりは、自ら日本で刊行することを決心し、大阪に拠点を設けて、その活動を開始し、四十歳のときには隠元禅師にその決心を打ち明け、黄檗山に版蔵の土地を賜わっています。その後は江戸をはじめ、全国各地をまわって講義を行ない、募金活動に励みました。ただ、鉄眼禅師の講義内容には、自身が浄土真宗の出身でありながら、浄土真宗の僧から非難されることがたびたびあったようです。あるときには「森の法難」と呼ばれる大きな事件も起きています。
 しかし、鉄眼禅師はそれに臆することなく、講義を続け、49歳のときに、一切経の版木を完成し、第一号の一切経を後水尾法皇に献上しました。 このように、鉄眼禅師は一切経開版を決意してから一貫してこの事業に取り組み、全国を走り回って募財し、ついに完成させたのです。鉄眼禅師の生涯はまさに一切経がすべてであると言っても過言ではないでしょう。  しかも、53歳のとき、死を予感して大阪に帰ったところ、大阪ではひどい飢饉が起きていたので、病身をおして救済にあたりました。このため、鉄眼禅師は江戸の商人から二百両を借りて貧民を救済しましたが、借金を申し入れた手紙にはその惨状がつぶさに書かれています。いまその一部を紹介すると次の通りです。

 この様子を見れば、たとえ自分の指をきざみ、骨を折っても施しつづけたいと思います。その様子は言葉には尽くせません。70歳80歳の人もあり、母に手を引かれた幼児もあり、盲人や病人もあり、一年に一度も洗ったことのないような手はうるしを塗ったようになっており、あるいは十日に一度くらいしか食べられないため、腹がはれたようになっている人や、やせて骨と皮だけのような人もあり、地獄のようです。もらう物をつかみとるさまは、まさに餓鬼道のようです。押し合いへしあいで泣き叫ぶ者もあり、前の道は蟻の熊野参りよりも多く、体にはしらみが胡麻のようについており、渡すときに僧の衣も胡麻をふったようにしらみがつき、うるしを塗ったような手が何十本も出るので、その臭いで鼻がまがるほどで、それはたえられないほどです。先日、皆が押しかけ竹垣を押し倒してしまいました。14・5人が折り重なって倒れてしまい、何人かは生き返りましたが、6人は死んでしまいました。いろいろ対策をし、足軽に頼んだりしていますが、さばききれません。人々はただむさぼる心ばかり強く、人の施しさえねたみそしるという状態で、あさましいかぎりです。このような状態なので、お金を貸していただくようお願いします。

 この様子を見れば、たとえ自分の指をきざみ、骨を折っても施しつづけたいと思います。その様子は言葉には尽くせません。70歳80歳の人もあり、母に手を引かれた幼児もあり、盲人や病人もあり、一年に一度も洗ったことのないような手はうるしを塗ったようになっており、あるいは十日に一度くらいしか食べられないため、腹がはれたようになっている人や、やせて骨と皮だけのような人もあり、地獄のようです。もらう物をつかみとるさまは、まさに餓鬼道のようです。押し合いへしあいで泣き叫ぶ者もあり、前の道は蟻の熊野参りよりも多く、体にはしらみが胡麻のようについており、渡すときに僧の衣も胡麻をふったようにしらみがつき、うるしを塗ったような手が何十本も出るので、その臭いで鼻がまがるほどで、それはたえられないほどです。先日、皆が押しかけ竹垣を押し倒してしまいました。14・5人が折り重なって倒れてしまい、何人かは生き返りましたが、6人は死んでしまいました。いろいろ対策をし、足軽に頼んだりしていますが、さばききれません。人々はただむさぼる心ばかり強く、人の施しさえねたみそしるという状態で、あさましいかぎりです。このような状態なので、お金を貸していただくようお願いします。

 このように病身をおして救済にあたりましたが、体の具合がますます悪くなり、一カ月後に大阪でその生涯を閉じています。

了翁禅師
 了翁禅師は、鉄眼禅師と同じ年に、出羽(でわ=秋田県)で生まれています。二歳のとき母がなくなり、そのため隣村の家に養子に行ったのですが、養子先の家族が全部なくなり、七歳で家に戻されました。翌年また伯父に預けられましたが、また伯父母がなくなってしまい、そのため、世上無類の悪児としてきらわれ、12歳のとき曹洞宗の寺へ寺僕として年季奉公に出ることになりました。しかし、その才能を見抜いた斎藤自得(じとく)という人にすすめられて僧侶になることになったのです。
 14歳のとき、平泉の中尊寺を訪ねましたが、一切経が散乱しているのを見て、これをさがしました。しかし、5・6箱しか見つけることができず、了翁禅師はこのことから、一生の間に一切経を集めること、またそれができなかったら、「大般若経」六百巻を写経するという誓願をたてたのです。そして、この一切経を集めるという願いは一生変わりませんでした。
 その後、了翁禅師は各地の臨済宗・曹洞宗の寺院や神社で修行し、25歳のとき、長崎に渡来した隠元禅師に参謁しています。しかし、了翁禅師は間もなく病気になり、故郷に帰って、病気がよくなってから、再び隠元禅師に参じて黄檗僧となりました。隠元禅師が黄檗山に晋山したときにはそれに従いましたが、翌年長崎に行って、その頃来日した即非禅師に参禅しています。その後、自ら男根を切ったり、指を燃やすという荒行をしたりしました。その間も一切経を集めるという大願を果たすため、各地を回って募金を行ないましたが、思うようには集まりませんでした。そうこうしているうちに、男根を切った痛みや燃指のきずがなおらず、耐えられないほどの痛みになやまされました。
 このため、江戸の旗本松平忠久という人の家で療養していたのですが、ある夜、かつて長崎にいた黙子如定(もくすにょじょう)という中国僧が夢に出てきて、万能丸という薬の処方を教えてくれたのです。了翁禅師がこの薬を作って塗ったところ、たちまちきずがよくなったということです。
 了翁禅師は一切経のための募金が思うようにならないので、この薬を売って、一切経購入の費用に当てようと思い立ちました。僧侶が商売をすることにためらいがあったのですが、松平忠久も勧めてくれたので、上野不忍池の側に店を作り、錦袋円(きんたいえん)と名づけて販売しました。 この薬はよく売れて、たちまちのうちに三千両をかせいだといいます。了翁禅師はこの金で天海(てんかい=天海は寛永寺の創立者)版の一切経を購入して、上野の寛永寺に寄附し、後に寛永寺に勧学寮を建てて、あらゆる分野の書物を収蔵して、人々の閲覧に供するという、わが国はじめてのいわゆる公開図書館を開設しています。
 一応の大願を果たした了翁禅師は伊勢(三重県)や京都で、また伊勢参宮の人たちに錦袋円五万五千袋を無料で配りました。ついで、中国から明版一切経一万巻余を購入して黄檗派の寺江戸白金台の瑞聖寺に寄附し、またこれを含めて黄檗山や高野山など全国21の寺院に一切経を経蔵とともに寄附しました。寛永寺と瑞聖寺を除く19カ所の寺に寄附したのは、鉄眼禅師の開版した一切経でした。
 大願を成就した了翁禅師は黄檗山に行って、黄檗山内に天真院を建てて晩年を過ごしましたが、錦袋円で得た利益を寄附し続け、また遺言によって死してもなお寄附を続けていました。了翁禅師は薬のもうけを一切私用に使うことなく、寺院修理や一切経のために使い続け、黄檗山において78歳のとき遷化しています。

自ら徹する
 ここに紹介した鉄眼禅師と了翁禅師の二人は、一切経を広めるという事業に自分の生涯をささげました。この二人は、若い頃に心に決めた目標を、禅の修行中も一時も忘れず、禅僧として立派に大成するとともに、その信念をまげることなく、一生を通じて貫き通したのです。まさに自ら徹し自ら悟って真人となったと言えるでしょう。 当時は、幕府の宗教政策によって、僧侶はそれに従っていさえすれば、一生を何ごともなく過ごせる時代でした。そういうなかにあって、自分の身命を賭(と)して、若い頃に決めた目標に向かって邁進した気迫には圧倒されるものがあります。これらの黄檗僧の生涯の一端を知っていただくことによって、何かを感じとっていただければ幸いであると思います。
 多様化とはげしい変化についていけず、生きがいを見失っている人が増えているといわれる、現代社会のなかにあって、自ら徹し、自分自身の確固たる目標を持って生きて行くことは大切なことであると思います。このことは、「自ら徹し自ら悟って真人となれ」という隠元禅師の教えにも、「外に向かって求めてはならない」という禅の教えにもかなっていると言えるでしょう。皆さんも、自ら徹して、確固たる信念をもって、目標を見失うことなく、規律正しい生活をしていただきたいものと思います。