| 仏教とボランティア |
| 全国青少年教化協議会 神 仁(じん・ひとし) |
| (2001年『大法輪』12月号より抜粋) |
……(前略)…… ◆縁起観に基づく仏教ボランティア さて、少しだけ仏教ボランティアについて理念的な面からお話しておきましょう。あまり役には立たないかもしれませんが――。 お釈迦さまが悟った真理の内容の中心は、「縁起」であったと言われています。これは原始仏典の中に見られる「縁起を観るものは法(真理)を観る、法を観るものは縁起を観る」という言葉からも明らかです。私はこの縁起を「時間的にも空間的にも、すべてのものごとは互いにつながっていること」と説明しています。時間的なつながりとは、私たちの命、この人生は、無数のご先祖の存在があってここにあるのだということです。空間的なつながりとは、今この一瞬一瞬を生きるさまざまな人や動物、自然の存在があってこそ私たちの存在があり得るのだということです。 この縁起について、十年ほど前にアメリカのラブロックという科学者が、「カオス理論」という説を発表してうまく説明してくれました。「カオス」とは「混沌」のことです。彼は混沌としたこの宇宙にも、その存在の生成と消滅をつかさどる一定の法則が必ずあるのだということを提示したのです。 たとえば、中国のある場所で一匹の蝶が羽をばたつかさせたとすると、やがてそれが原因となってアメリカにハリケーンをもたらすといったものです。これはバタフライ理論とも呼ばれているのですが、普通では考えられないことです。これは、蝶の動きという直接原因(因)が、風などのさまざまな間接原因(縁)の作用を受けることにより、ハリケーンという想像だにしない結果(果)を生ずるのだということです。 言いかえるならば、アジアのどこかで起きた個人間の小さな喧嘩が、やがて第三次世界大戦にもなりうるのだということ、アフリカの一人の子どもの飢えが、世界的な飢餓につながることもありうるのだということになります。とても仏教的な考え方だと私は思っています。 お釈迦さまが布教の旅に出た大きな理由がここにあります。縁起という真理に則れば一人でもこの世で苦しむ人がいれば、お釈迦さまも自身も必ず苦しいはずです。この世のすべての存在は、お互いにつながり合って存在しているのですから当然のことですね。ならば、生ある限りその理想に向けて突き進むのが仏や菩薩ではないでしょうか。 そこには「縁起観」に基づき「同事」の立場に立った、「慈悲」の現われとしての「利他行」があります。それが、仏教的なボランタリズムの真髄だと私は思っています。 「慈悲」については皆さんも良くご存知だと思いますが、「他に喜びを与え(与楽)、苦しみを取り除く(抜苦)こころ」のことです。「同事」とは、菩薩が人々を救うために行う「四摂事(四摂法)」という実践方法の中の一つで、他の人と同じ立場に身を置くことです。 この同事について道元禅師は次のように語っています。 「同事というは、不違なり。自にも不違なり、他にも不違なり。たとえば、人間の如来は人間に同ぜるがごとし。人界に同ずるをもて知りぬ、同余界なるべし。同事を知るとき、自他一如なり」(『正法眼蔵』四摂法) 同事の立場に身を置くということは、すなわち自分と他人が一つになるということです。分け隔てがなくなるということです。これを道元禅師は「自他一如」という言葉で表現しているのです。「自他一如」となったときには、「利他即自利、自利即利他」の関係が生じます。つまり、他の人の喜びが、そのまま自分の喜びとなるのです。それをこの現実の社会の中で実践していくのが、「同事行」としての仏教的なボ ランティア活動だと思います。 ちょっと難しくなってしまいましたね。 知識はそのままでは智慧には変わることはないのですが、実践の中で智慧を生む助けになることもありますので、一応「そんなものかぁ」と頭の隅に置いておいてください。 ◆生き方としてのボランティア
さて、最後にボランティア活動というものを、現代社会の中での仏教者の生き方に絡めてお話ししておきたいと思います。 今からおよそ七年前、阪神淡路大震災が起こりました。五千人近くの犠牲者と数十万人という被災者がでました。そこには、多くの若者をはじめとする百万人ともいわれるボランティアが、「自分にも何かできるのではないか」と駆けつけました。後にこの年は「ボランティア元年」と呼ばれるようになります。 その二ヶ月後、地下鉄サリン事件が起こります。宗教に名を借りた人為的なテロ行為でした。日本のみならず世界中が震撼しました。その実行犯の多くは、やはり若者でした。松本智津夫が説く「ポア」という救済の方法を信じ、多数の尊い人命を奪ってしまったのです。 命を救うために阪神に駆けつけた若者たち、真理を求めてオウムに入りながらも結果的に人の命を奪うことになってしまった若者たち、この二者の違いは何だったのでしょうか? 私はこうに思います。ほんのわずかな「慈悲」「利他」のこころの有無が、彼らの運命を大きく変えることになったのではないかと――。「行」という観点から、現代社会の中での仏教者の実践を考えた時、私は四つのポイントがあると思っています。それは「祈り」「瞑想」「同事行(ボランティア活動)」「持戒」です。「祈り」を通じて私たちは、仏や大自然とのつながりを実感することができます。「瞑想」を通じて本当の自分とのつながりを実感することができます。「同事行」を通じて他者とのつながりを実感することができます。「持戒」はその三つを支える肥やし、エネルギーです。 オウムへ行った若者たちは、道場の中で戒を守り、祈り、瞑想をして日々を暮らしていました。それだけでも確かに立派な修行かもしれません。しかし、他者を思いやる「慈悲」や「利他」のこころが、そこには欠けていたのではないでしょうか。自利行に徹する中で次第に慢心が生じ、他者を自分よりも低い存在だと思い、その命を軽んずるところまで至ってしまったのではないかと考えています。 もし彼らの中に、あるいは教義の中に、「慈悲」や「利他」の精神があり、「同事行」を行っていたとしたら、結果はまったく違うものとなっていたでしょう。ひょっとすると、時代を担う宗教界の牽引役にもなれたかもしれません。このことからも、私は現代を生きる仏教者に、ボランティア活動の重要性を強く訴えておきたいと思います。 数年前にお亡くなりになったインド思想の大家である中村元先生が、次のようなことを語っています。 「宗教による社会活動の要請されることが、今日ほど痛切な時代はない。それにもかかわらずかかる活動は決して充分に具現されていない。仏教では慈悲の理想は説くけれども、それを具体的にいかに実践すべきかということについて、仏教教団あるいは仏教学は適切な指示を与えてくれない。これは今の仏教の致命的な弱点である」(「慈悲の精神」) 同事行としてのボランティア活動は、縁起するこの世界の中で、私たちが他者とのつながりを観じ、共生していくことを可能にする大きな術となります。それは、少子高齢化社会を迎えつつある日本、経済優先のグローバル化の波に襲われている世界全体にとっても欠くべからざるものと言えるでしょう。 |
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