| 作家の遺言 |
| 相模女子大学教授 志村有弘(しむら・くにひろ) |
| (2002年『大法輪』12月号より抜粋) |
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森鴎外……石見人森林太郎として 遺言・遺書には、その人の真実の心が吐露されており、その人が歩んだ人生の総決算というべきものが示されている。 日本近代文学史上、森鴎外ほど後の作家に影響を与えた人物はいないであろう。芥川龍之介は夏目漱石の弟子でありながら、随分と鴎外文学の影響を受けていた。鴎外は、「舞姫」・「雁」・「阿部一族」「高瀬舟」、史伝「渋江抽斎」など、あまたの名作を書き残した文豪である。鴎外は大正十年頃から腎臓病の兆候が現われ、翌十一年に萎縮腎と診断され、肺結核もあり、七月六日、口頭で遺言を語るにいたった。賀古鶴所が筆記した。 余ハ少年ノ時ヨリ老死ニ至ルマデ一切秘密無ク交際シタル友ハ賀古鶴所君ナリコヽニ死ニ臨ンテ賀古 君ノ一筆ヲ煩ハス死ハ一切ヲ打チ切ル重大事件ナリ奈何ナル官憲権力ト雖此ニ反抗スル事ヲ得スト信ス余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス宮内省陸軍皆縁故アレドモ生死別ルヽ瞬間アラユル外形的取扱ヒヲ辞ス森林太郎トシテ死セントス墓ハ森林太郎墓ノ外一字モホル可ラズ書ハ中村不折ニ委託シ宮内省陸軍ノ栄典ハ絶対ニ取リヤメヲ請フ手続ハソレゾレアルベシコレ唯一ノ友人ニ云ヒ残スモノニシテ何人ノ容喙ヲモ許サズ 元来、鴎外は世俗の立身出世など念頭にない人であった。しかし、結果として鴎外は、陸軍に入って陸軍軍医学校長・軍医総監・博物館総長兼図書頭・従二位……等々の地位に就いた。死に臨んで、鴎外は全ての栄誉を捨て、単に「石見人森林太郎」となろうとしたのである。鴎外は、それから三日後の七月九日、六十一歳の生涯を閉じた。東京・三鷹の禅林寺の墓標には中村不折の筆になる「森林太郎墓」の五文字が刻されている。 芥川龍之介……ぼんやりした不安 芥川は短編小説の名手である。彼は生前、ある作家が死んで三十年の月日を経て、読むに足る「十篇の短篇を残したものは大家」、「五篇を残したとしても、名家の列」、「三篇を残したとすれば、それでも兎に角一作家である」と述べている。今、芥川の作品を思い出すままに、「羅生門」「鼻」「芋粥」「地獄変」「藪の中」「六の宮の姫君」「或阿呆の一生」「歯車」「トロツコ」「蜘蛛の糸」「杜子春」……と並べてみると、十篇どころか、次々と名作が思い浮かんでくる。いかに芥川が短編小説の名手であったかがわかろうというもの。 昭和二年七月二十四日、芥川龍之介は、薬物自殺を遂げた。遺書の一つ「或旧友へ送る手記」の中で、自殺の理由について「少くとも僕の場合は唯ぼんやりした不安である。何か僕の将来に対する唯ぼんやりした不安である」と書いていた。芥川が妻の文子宛に書いた遺書は、原稿用紙一枚半ほどのペン書きであった。 一、生かす工夫は絶対に無用。 二、絶命後は小穴君に知らせべし絶命前には小穴君を苦しめ併せて世間を騒がす怖れあり。 三、絶命すまで来客には「暑さあたり」と披露すべし。 四、下島先生と御相談の上、自殺とするも病没とするも可。若し自殺と定まりし時は遺書(菊池宛)を菊池に与 ふべし。然らざれば焼き棄てよ。他の遺書(文子宛)は如何に関らず披見し、出来るだけ遺志に従ふやうに せよ。 五、遺物には小穴君に蓬平の蘭を贈るべし。義敏に松花硯(小硯)を贈るべし。 六、この遺書は朝、読了後直ちに焼棄せよ。 小穴とは芥川の本の装丁をしていた画家の小穴隆一。下島先生は医者の下島勲。菊池は菊池寛。義敏は葛巻義敏。また、芥川は「わが子等に」として、 一、人生は死に至る戦ひなることを忘るべからず。(中略) 四、若しこの人生の戦ひに破れし時には汝等の父の如く自殺せよ。但し汝等の父の如く、他に不幸を及ぼすを 避けよ。(中略) 六、汝等の母を憐憫せよ。然れどもその憐憫の為に汝等の意志を抂ぐべからず。是亦却つて汝等をして後年汝 等の母を幸福ならしむべし。 七、汝等は皆汝等の父の如く神経質なるを免れざるべし。殊にその事実に注意せよ。 ということを子どもたちに書き残している。すさまじい遺言である。「人生が死に至る戦ひである」のはよいとして、もしもこの戦いに敗れたならば、「自殺せよ」というのである。とはいえ、これも一つの愛情の示し方であろう。しかし、「汝等の母を憐憫せよ」という妻への思いやり、父から受け継いだ「神経質」に注意せよとまで言い遺している。 なお、長男比呂志(俳優)と三男也寸志(音楽家)は病没し、次男多加志は戦死した。 種田山頭火……ころり往生 太宰治……グッドバイ 久坂葉子……わがこひびとよ 三島由紀夫……武士ならば |
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