| 正信偈のこころ |
| 築地本願寺輪番 中西 智海 (なかにし ちかい) |
| (2003年『大法輪』12月号より抜粋) |
| 今の時代は「生きる」ことに行きづまりを感じている現状がみられます。「生きるのがいやになった」とか「人間関係に疲れた」という言葉がよく聞かれます。ですから、また反面「癒(いや)し」ということばが広く大きくなるとも言えるようです。 ところで、生きるのが「いや」になった、とか、人間関係に「疲れた」という言葉には「人は何のために生まれてきたのか」という根源的な問いをおおいかくしているといえないでしょうか。従ってそこからは「いのちの感動」「まことのよろこび」が見出せなくなるということになるのであります。 さて、親鸞聖人(しんらんしょうにん)の「正信偈(しょうしんげ)」は、いのちの感動、生のよろこびを高らかにうたいあげた詩であります。元来、詩の生命は感動であるといわれておりますが、まさに「正信偈」の偈は詩歌という意味なのです。 × × その「正信偈」を、浄土真宗では、朝、目が覚めたら唱和するならわしがあります。広島の安芸門徒(あきもんと)などは今でも常朝といいまして、毎日、朝、まずお寺へ行って「正信偈」を唱和して一日が始まるという生活をされています。また、私は、ブラジルにご縁をいただいたとき、日系人の人たちが、三世のポルトガル語しか知らない孫たちと一緒に「きみょう、むりょう、じゅにょらい――」と唱えておられるのを見、聞きいたしました。その感動は今も身に沁みております。 × × このように日常の生活の中に沁み込んだ、「正信偈」を読むという習慣は、実は浄土真宗中興の蓮如(れんにょ)上人の時から始められたのです。 蓮如上人は、親鸞聖人の『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』の中からこの「正信偈」を抜き出され、和讃とともに南無阿弥陀仏の念仏をそえて「正信念佛偈和讃」という『日常勤行(ごんぎょう)聖典』を刊行されたのでした。そして、人びとに、この讃歌、詩は、お坊さんだけではなく、みんな在家のものも、朝、目がさめたら、声を出して唱和してほしい、とすすめられてからなのであります。 そのならわしが今日まで伝えられています。先日、東京でも、「私は今も亡き母の正信偈の声のひびきはおぼえております」と話してくださった人がありました。 × × さて、「正信偈」とは意訳では「しんじんのうた」となっております。そのこころは正しい信心とほとばしる念仏の感動のうたとでもいうべきものであります。 まず、はじめに (訓読) 無量寿如来に帰命し 不可思議光に南無したてまつる (意訳) ひかりといのち きわみなき 阿弥陀ほとけを 仰(あお)がなん とうたわれています。 ここでは、大いなる、はかりなきまことに遇(あ)って、それをよりどころに生きるいのちの感動をまず述懐されてあります。 およそ、人間とは、何がなければ生きられないかと尋ねるとき、どのような答えがかえってくるのでしょうか。 それは人は生きるためには衣・食・住がなければ生きられないというでしょう。しかし、それは生存のレベルでのことでしょう。人間とは物や金だけでは生きられない、いわば実存のレベルとしての問題があるといわれます。そこで人間とは理性をもった生きものであるとか、人間だけが笑いをもった生きものであるとか、また人間は社会的動物であるとかという人間定義の跡がみられます。 しかし、私は、人間とは「ほんとう」「真実」にふれることなくては生きられない生きものであると言ってみたいのであります。 いかがでしょうか、ほんものに出会って気持ちの悪くなる人がいるでしょうか。逆に、ほんものと思っていたものがにせものであったときほど、失望することがありませんか。その意味で、人間とは「真実、まこと」に出会わずには生きられない生きものであるといえるのではないでしょうか。 その意味で人間は知性の面から(学問)真理を追求し、感情の面から(芸術)美を追求し、意志の面から(倫理)善を追求し、そしていのちそのもの(生死・しょうじ)を解決する宗教の次元をきわめたといえましょう。 その生死を貫き通す「まこと」生も死も包みこむ、大いなるもの、計りなきもの、すなわちアミタ(計りうるものではない)=阿弥陀仏に出会い、それを拝むことのできるいのちが成立したことを、とことんよろこばれた親鸞聖人の感動はすばらしいものでありました。そして、今、その感動のことばを今の私たちが声を出して唱和するいのちとは、ほんとうに不思議であるといわざるをえません。 ところで先に人間はまことを感じなければ生きられないと言いましたが、実は人間とは自身と人生のほんとうのすがた(実相)を知りつくしてくれるもの、はたらきすなわち「智慧」がなければ生きられない面と、いのちと人生をひるがえして包み込む無我の愛、すなわち「慈悲」がなければ生きられないという、いのちの仕組みをもっているというべきでしょう。 そのようないのちと人生の仕組みのあるところ、大いなる光(智慧)と計り知れないいのち(慈悲)の阿弥陀がなければ生きられないというあり方をしているのであります。 いいかえれば、大いなる光(智慧)と計り知れないいのち(慈悲)は、すべてのものを生かしきるためにはたらきどおしであるということであります。まさに「真実とは真実ならざるものを見い出して、真実に転じかえなすはたらきとなる」ということであります。 そのはたらきを本願といわれるのであります。 川に沿って 岸がある 私に沿って 本願がある 川のための岸 私のための本願 という言葉に出会いました。 × × さて「正信偈」は、久遠のまことの仏が、因の位に降って、十方衆生といわれるすべてのものをわれと同じ、光明(智恵)無量・寿命(慈悲)無量の仏に成らせねば、阿弥陀仏とはいえないと誓われた本願のいわれを重大な出来事として告げられています。 すべてのものを自分と同じ仏にさせるということで無上殊勝の願といわれ、一般仏教で善行を修するものは悟りをひらくと説かれるのに対し、苦・悪もろともにすべてを救うといわれることで希有(けう)の大弘誓(だいぐせい)、いわゆる超世の願を建てられたといわれるのであります。 思えば、このような、超世の願とは、誰のためのものでありましょうか。五劫(ごこう)の思惟(しゆい)と説かれる永き思惟とは誰のためなのでしょうか。 親鸞聖人は「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」と述懐されています。 「親鸞一人」という領解、〈このような親鸞を救う弥陀の本願〉であるということは、十方衆生もれなく救う本願ということの真実性を証明するということでありました。いいかえればこのような親鸞がすくわれる道は、五濁(ごじょく)の世のすべてのものが必ず救われてゆく道であることとも連動して、よろこばれた言葉であるということです。 × × その無上殊勝の願は願に止まることなく、願のとおりに救うことのできる救いの法が成就されていなければなりません。それが「本願成就の名号」、「ちかいの御な」といわれる、すなわち南無阿弥陀仏なのであります。「となえやすき、たもちやすき名号を案」じられて、衆生が発せねばならぬ願も行もすべで仏のもとで成就して、その全ての徳をめぐんで(廻施)、すべきのものを我と同じ仏に成らせるといわれるのであります。「となえやすき、たもちやすき」とは十方衆生、ひとりも捨てきれないという慈悲の極限をいいあてているといわなければなりません。 × × さて、浄土真宗は何に救われてゆくのでしょうか。それは絵像の絵ではないでしょう。木像の木ではないでしょう。まさに「本願、名号のいわれ」に救われてゆくというべきであります。 その意味で「正信偈」は浄土三部経、なかでも本願・名号のいわれを説かれた大経のこころにうなずかれ(依経段)、それをその時代と人間の素質を見抜いて本願・名号のいわれを釈し、すすめてくだされた七人の高僧の発揮点を適正に示して、ほめたたえられているのであります。 おもえば、親鸞聖人のよろこびの感動は、一つには、いのち(生死)の真のよりどころとなる「まこと」すなわち阿弥陀仏の本願・名号に出会えたこと、二つには、ほんとうに出会うということは信ぜしめられることであり、その信心歓喜の境地、そして三つには、確かに仏と共に歩み、仏に成るのに決定した境位(正定聚不退・しょうじょうじゅふたい)のよろこびの感動であり、四つにはその境位につくものの常行大悲の行動などとなること、五つには、一生、凡夫であることをごまかさない念仏の智慧によってのりこえる人生を歩むことのできるよろこびの感動であったということだということであります。 このような、よろこびの感動の詩を、日常生活のただ中で、拝読しつつ、同じようなよろこびの感動の人生を歩むことを語り合いたいものであります。 |
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