浄土教は現代を救えるか
浄土真宗本願寺派勧学 中西智海(なかにし・ちかい)
(2004年『大法輪』12月号より抜粋)

 
   
  ◇自然主義・ヒューマニズムの人間観
 現代の状況は、まさに「混とん」としています。政治の面でいえば、自分の国や、自分の党のみが正義であり、相手は悪の枢要(すうよう)であると決めつけ、あげくのはては相手を抹殺するという状況です。また経済の面でも、自分と自国の利益追求のためのテクニックにおぼれて、他国の立場などは考えないという有り様です。社会では子が親を殺し、親が子を殺すというところまできたということです。
 ところで、このような「混とん」の状況を生み出す根源を直視しなければなりません。
 およそ、時代が悪い、社会が悪いといいますが、時代を作り、社会を作り、家庭を作るのは「人間」なのです。ですから、「人間」そのものを正視することから出発しなければならないのであります。
 ところで、現代の人間観を考えようとすると、まぎれもなく近代の人間観を正視するところにさかのぼらなければなりません。
 よくいわれるように、中世は神の支配の時代でありました。それを「神は死んだ」という二ーチェの言葉によって代表されるように近代は、神の権威を捨てて人間の時代、人間こそが権威があるとしたことであります。
 ところで、人間が尊重されねばならないということは大切なことなのですが、人間尊重ということは人間の自我と欲望を尊重するということであってはならないということです。
 今日、よく「人間回復」とか、「人間性の回復」という言葉が目につきます。
 人間性の回復といわれるとき、まず、第一には自然主義(ルソー)的立場のそれであります。すなわち、人間は大人になると汚れてくるが、生まれた赤ん坊の状態になればよい、それが自然であるという。これが人間性の回復だという立場です。
 次には、いわゆるヒューマニズムの立場であります。言葉というものは注意しなければならないものです。ヒユーマニズムというと、いかにも人間愛とか人類愛というようなニュアンスが強調されがちですが、実は「人間主義」「人間中心主義」なのであります。
 このような、自然主義的人間観や、ヒューマニズムのレベルでの人間観で、現代より未来の時代の混とんを克服できるというのでしょうか。改めて、われわれは仏教そしてその仏教の実践的展開としての浄土教にそれを聞き、学ぶことの大切さをおもわずにはおれません。

◇仏教の「正見」―無我の立場からの見方
 仏教の出発点は現実(自身〔主体〕と時代・社会〔世界〕)を正しく見よという、「正見(しょうけん)」にあることはよく知られている通りであります。
 ところで仏教でいう「正見」の「正しい」」とは、もとより科学的に正しいとか、法律的に正しいとか、倫理的に正しいとかという概念ではありません。仏教の「正見」とは「邪見」ということばに対しての概念です。では、その邪見の「邪」とは何かといえば自分中心、自我中心(我執といわれるもの)からの見解(ものの見方、考え方)のことをいうのであります。ですから、正見とは、自我中心、すこしひろげていえば、自分の欲望・本能をものさしとした考え方ではない、いわゆる「無我」の立場からのものの見方・考え方をいうのであります。
 それを「ありのままにみる」(如実知見=にょじつちけん)というのであります。
 自分中心、我執のものさしだけで生きていると、ほんとうの自分が見えないのです。
 あたかも、もし、暗い部屋に24時間、365日住んでいたとしたら、その人は、「ここが暗い」とはいわないでしょう。「暗さ」がわからないのですから。
 その部屋に太陽の光線が帯状になって暗い部屋を照らしたとき、その帯状の光線の中に部屋の小さなゴミが見えてくる。これは大変だというので、掃除をするということになるのです。
 このように暗い所にだけで呼吸をしているものにとっては「暗さ」がわからないのであります。光に照らされて暗さを知る。これと同じょうに、仏の光明のはたらきによって、ごまかせない、いのちと人生のほんとうのすがたを正視する世界を思惟すべきであります。

◇己れの愚かさへの正視
 仏教の正しく見よという「正見」を実践的展開した教えが「浄土教」といわれる仏教であります。
 ですから、浄土教はその時代と人間の実態をごまかさずに正視した歴史であるといわれるのであります。これが「時(時代)・機(人間・衆生)相応の教え」といわれるゆえんであります。
 中国・日本の浄土教の祖師たちは、その時代とその時代の人間の実態を自身にひきあてて思惟し、告白した方々でありました。
 そこには、その時代、その社会を担って生きた人間であることの「愚かさ」「悲しさ」「弱さ」「哀れさ」をごまかさずに告白した世界があります。
 ただ留意しておかねばならないことは、これらの人間の愚かさ、悲しさ、弱さを告げたということを、人間と人生の悲観(論)のことばと受け取られたとしたら、とんでもない間違いであるということであります。
 およそ、浄土教において、人間・衆生を意味する「機」の用法に三種あります。第一は、阿弥陀仏の本願がはたらく相手、それは生きとし生けるもの、すなわち十方衆生のことをいう〔所被(しょび)の機〕の場合。第二には、無量すなわち無限の智慧と慈悲である仏の前で明らかになった、人間・衆生の実態をいう〔性得(しょうとく)の機〕という場合。そして、仏の救いにめざめ、必ず仏に成らせていただく身にさせていただいたもの〔受法(じゅほう)の機〕をいう場合であります。
 従って、浄土教でいう人間の愚かさ、悲しさ、弱さというのは、ただ人間とはつまらない、とるに足らぬもの、どうにもならない、悲観的なものだといったのでは決してなく、どこまでも、完全な仏の前で明らかになった衆生の実態であります。
 つまり、仏のものさしで見えてきた実際のすがたということであります。先ほどの例でいう光に照らされて見えてきた、愚かさ、悲しさ、弱さであります。その意味では光の中での自身の発見というべきであります。これを機(き)〔仏の前で明らかになった衆生〕の深信(じんしん)というのです。「機の深信」は法(ほう=救いのはたらき)の確かさを信ずる「法の深信」と一つ(一具=いちぐ)であるところに意味があるのです。つまり、仏の光明に照らされた自身(衆生)がそのまま仏の光に摂(おさ)め取られて捨てられないと深く信ずる世界がめぐまれるということであります。
 いささか専門語の説明になりましたが、述べておきたいことは、人間回復とか人間性の回復ということは、単なる自然主義の立場や、ヒューマニズム(人間主義・人間中心主義のレベルではなく、仏、すなわち無我の立場から見透かされた人間の実態の正視、すなわち機の深信という次元であり、法(救いのはたらき)の確かさと一体となった心境であるということであります。

 浄土教の人間の正視はまた単なる私事ではないということです。
 親鸞聖人は『歎異抄』で「悪人」のおきかえを「煩悩具足のわれら」とし、『和讃』において「ひさしくしづめるわれらをば弥陀弘誓(ぐぜい)のふねのみぞ のせてかならずわたしける」とうたわれているように、「われら」の地平において告げられているということであります。
 およそ、われが入っていないのに「われら」とはいえないでしょうし、われ一人だけならば「ら」は要らないことになります。そこに「われら」の地平の大切さがうかがえます。
 そのことが、「共に凡夫のみ」ということに通じるでありましょうし、「海、河に網をひき、釣をして、世をわたるものも、野山にししをかり、鳥をとりて、いのちをつぐともがらも、商(あきな)ひをし、田畠をつくりて過ぐるひとも、ただおなじことなり」との生きる姿勢を生み出すことになるのであります。

◇本願の原意に学ぶ
 このような、孤立したものを立てないというのが、仏教の原理でいえば「縁起」の思想であります。縁起とは「因縁生起(いんねんしょうき)」の略語であり、よくいわれるように「此(これ)あれば彼あり、彼あれば此あり、此れ滅すれば彼滅す、彼滅すれば此れ滅す」といわれる道理であります。この「縁起」の実践的展開が浄土教で強調される「本願」の思想なのであります。
 なぜならば、「本願」のもともとの意味は「前から縁起の理の上に置かれている」という言葉でありまして、「われら」は自我中心性がくだかれて、仏といわれるめざめのいのちの完成を果さねばならぬ有り方をしており、仏(如来)とは、必ずわれらの自我中心性をひるがえして、自身と同じ仏に成らせねばならぬと働きどおしのものである、という有り方をしているというのであります。そこには、孤立した、独善的なものを先に立てるという思惟もなければ、関係のない断絶という思考も許されないことを示唆しているのであります。
 このように伺ってみますと、自分や自国、自らの党ばかりが正義であり、相手を認めないという対立の現代の状況、自我中心の思い、自分の欲望の満足が幸福などと思っている現状、相手のいのちを奪うことが己れの権利のように錯覚してしまう現代の中に、自我中心性エゴイズムを根底からみつめ直し、そして、阿弥陀仏の絶対平等の救いにめざめて生きることを教えてくだされた浄土教の真理性を正しく学び、実践してゆくことこそ、現代を救う道であります。今月号の特集で、浄土教の祖師たち、そして法然上人、親鸞聖人の現代へのいのちの言葉を通して学ばせていただきたいと思うことであります。