| 人生の一大事 |
| 花園大学名誉教授 財・禅文化研究所長 西村 惠心(にしむら えしん) |
| (2005年『大法輪』12月号より抜粋) |
| 生死事大 禅の専門道場に行くと坐禅堂の入り口に、「生死事大(しょうじじだい)、無常迅速(むじょうじんそく)、時不待人(ときひとをまたず)、謹勿放逸(つつしんでほういつなることなかれ)」と書いた板(はん)が掛けてある。朝夕これを打って人生は短いのだから、怠けず修行に励んで「生死(しょうじ)」の一大事を全(まっと)うせよと鞭策(べんさく)するのである。 悪戦苦闘の挙げ句、遂に「これだ!」というような答えを得て、妙心寺開山のように「慧玄(えげん)が這裡(しゃり)に生死無し」の境に到れば禅僧としては満点。これを禅門では「大事了畢(だいじりょうひつ)」と言って修行の目標としている。 浄土門でもやはり「後生の一大事(ごしょうのいちだいじ)」ということがあると聞く。筆者など浄土門のご信心についてはさっぱり門外漢であるが、これが臨命終(りんみょうじゅう)の際に阿弥陀如来の願船(がんせん)に摂取せられて往生極楽を遂げることであるぐらいのことは想像がつく。罪悪深重(ざいあくじんじゅう)なれば地獄必定(じごくひつじょう)と知る凡夫(ぼんぶ)にただ一つ残された可能性が、弥陀の摂取不捨(せっしゅふしゃ)の誓願によって救われるということであれば、これこそ縋(すが)るべき「後生の一大事」というものであろう。 いずれにせよ生きている者の悲願であるから、結着は生きている内に付けておかねばならず、死んでからでは遅八刻(ちはちこく)である。本題を「人生の一大事」などと大上段に構えたゆえんである。 我が「事」 私のように既に七十の齢を二つも越してしまった人間にとって、仏教書籍や寺のお説教で覚えたことが、果たして「我が一大事」の用に立つかというと、これはどうやら心もとなきしだいである。やはりここまで来ると、自分の一大事は自分で「肯心自許(こうしんじきょ)」できるものでなければ、他人様のお説教では隔靴掻痒(かっかそうよう)ではないかと思うようになった。 折しも遠藤周作の随筆「老いて思うこと」を読んでいたら、英国のタブレット誌に出ていたという次のような話があった。作家のグレアム・グリーンが死の床にある時、自分を見舞ってくれた親友の神父に向かって、「僕は死が近づくにつれて信仰心が薄れていくような気がする」と言ったというのである。当然ながら神父はそれを否定して、「そんなことはないよ、神様は天国でちゃんと君を待っていてくださるのだ。会ったら僕のこともよろしく伝えてくれたまえ」と言ったというのだ。私はこれを読んで目の上の鱗(うろこ)が落ちるような気がしたのである。 グリーンのように熱心に教会に通ってミサに預かったり、お説教を聴いたりしてきた人でも、いよいよ死が目前に迫ってくると、自分は果たして天国へ行って神様に迎えられるかどうかが怪しくなってきたのだから、遠藤の言を借りて言えば、本当の信仰というものは「意識下のことであって、身に付いたものでなければならない」ことになる。 私は八年前に寺の責任を長男に譲ってから、にわかに宗教者として生きてきた自分を問い直す仕儀となったが、どうやら自分のやってきたことは寺の伽藍(がらん)維持や葬式法事などの行事ばっかりで、厳密な意味での「宗教」を我が事としたようには思えないのである。 私はまだ学生であった頃、デンマークの実存思想家キェルケゴールが「自分はいかにして真のキリスト者となるか」と自問したことを知っていらい、つねに我が事として宗教の何たるかを反省することを学業としてきたはずである。しかるに今に至ってなお、人生の指針として選んだ禅の道が自分の「事(じ)」となっていないとすれば、何のための禅の道であったであろうか。我が人生上の一大事はこうして今私の前に屹立(きつりつ)している。 絶対の「生」、絶対の「死」 ところで生きる者にとっての「一大事」は、具体的には「死ぬ」という事であろう。キェルケゴールは死をパートナーとしてダンスをするような生き方を好んだが、禅者たちもまた常に死と向き合うような生き方を日常としたのである。白隠(はくいん)に「死」の大書があるのはその一例であるが、自分でこれを突破した白隠は、門人にも死と対決させたのである。 禅には「生死一如(しょうじいちにょ)」ということがある。あるいは師が弟子に向かって「生死交叉(こうしゃ)の時いかん」などと迫る。うっかりすると分かったような気になる言葉だが、よく考えると分からなくなる。 生死一如とか生死交叉と聞くと、『葉隠(はがくれ)』に似てなかなか格好はいいが、「生」とその否定である「死」が一つのことだとすると大変な矛盾ではないか。しかもこの矛盾に激突して突破しないと、「人生の一大事」の未解決どころか、あの世に行ってもいぜん腰が落ち着かず、また迷いの道を彷徨(さまよ)い歩くことになろう。 そういう過(あやま)ちを起こさせないために、古来の禅者たちは大いに老婆心切(ろうばしんせつ)を発揮せられたのである。例えば唐代の禅者にこういう話頭がある。 ある時道吾(どうご)和尚が弟子の漸源(ぜんげん)を連れて檀家の弔問(ちょうもん)に出かけた。弟子が木棺を叩いて師に、この中は「生か死か」と問う。師は「生とも言わず、死とも言わず」と答える。帰り道、弟子の漸源が、教えてくれなければ打ちのめしますよと言う。それでも師は「打ちたければ打て。言わぬ、言わぬ」と言うばかり。そこでとうとう弟子は師を打ちのめしてしまった。 (『碧巌録(へきがんろく)』五十五則) これはいったいどういうことか。「一大事」の問答であるから、答えは各人で見出すがよいと禅の老師は突っ放すであろう。生と死を相対的に比べるならば、矛盾する生と死が一つになることはあり得ない。しかし禅者が生とか死とか言うときには、それぞれが絶対の「生」であり絶対の「死」として独立無関係である。二つを並べることが迷いの根源だというのである。 宋代の圜悟(えんご)禅師に「生也全機現(せいやぜんきげん)、死也全機現(しやぜんきげん)」(『圜悟録』十七)という語がある。「生きているときは生きるだけ、死んだときは死ぬだけ、いずれも自己の絶対の丸出し」ということで、二つを並べることなど出来ない道理である。道元の『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』生死には、このことをもっと分かりやすく説いてある。 生より死にうつるとこころうるは、これあやまりなり。生はひとときのくらゐにて、すでにさきありのちあり、かるがゆゑに仏法のなかには、生すなはち不生(ふしょう)といふ。滅もひとときのくらゐにて、またさきありのちあり、これによりて滅すなはち不滅といふ。生といふときには、生よりほかにものなく、滅といふときは、滅のほかにものなし。……この生死はすなはち仏の御いのちなり、これをいとひすてんとすれば、すなはち仏の御いのちをうしなはんとするなり。 またしても古人の言葉を持ち出してしまった。自分の「一大事」に結着をつけようというならば、自分の言葉で語らねばならないのだ。そこで私は自分の一大事をこう結着する。 自己とは いったい自分とは何であるか。七十二年の人生とは何であったか。それは一瞬一瞬世界との出会いであった。母と出会った時、そこに「うれしい私」があった。兄弟や友達と出会った時、そこに「賑(にぎ)やかな私」があった。戦中戦後の貧しい時、そこに「悲しい私」があった。妻や子供に出会った時、そこに「幸せな私」があった。 そして今宵はまた仲秋の名月。私が月を眺めているのではない。月がいま「心の澄みきった私」を形成してくれているのだ。供えられたススキの花や秋冥菊(しゅうめいぎく)を私が見ているのではない。それらの花がいま「花のような心の私」をあらしめているのだ。 いったい自己などという「存在」なんぞ、初めからありはしないのだ。この頃になって私はようやくそう確信するようになった。自己は「存在」ではなく「生成」しつづける進行形態なのだ。そしていつか最後の可能性としての「死」と出会う時、私という自己が完成するのだ。「今日ばかり 我が命は 存するなり」(道元)。いま私はそう思って人生の最先端を生きている。 |
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