| 「いただきます」の心 |
| 姫路市・龍門寺住職/花園大学元学長 河野 太通(こうの だいつう) |
| (2006年『大法輪』 12月号より抜粋) |
| 精進料理の起源 私たちは毎日何かを食べています。食べなければ生きていけません。しかし、その食べるものは、みな生命あるものでした。土や石ころを食べているわけではありません。他の命を奪わなければ生きていけない。思えば人間のみならず動物は、罪な悲しい存在であります。 弱肉強食のこの世では、あたりまえの事なのだと片付くならば、それは科学の立場の事であって、それで人の心は片付くものではありません。切って私と同じ赤い血の出る、牛や豚や魚の命を奪った心の痛みを、全く感じないわけにはいきません。 人間と他の動植物とを、根本的に平等に見る仏教は、動物のみならず植物の殺生(せっしょう)をも戒(いまし)めますが、上座部(じょうざぶ)の南方仏教では「三種浄肉(さんしゅじょうにく)」ということを言いまして、自分の食用のために殺されるのを見た肉・自分の食用のために殺されたと聞いた肉・自分の食用のために殺されたのではないかと疑わしい肉でなければ、殺生食にはならないとされていまして、殺生を最小限に止めようとするはからいでありましょう。平均体重を超えて肥満な方は、必要以上の殺生をしたことになります。 仏教が中国に伝来されますと、人里離れた静寂な山林に道場を構えて、修道する人々が現れて来ました。南方仏教々団では、僧自身が食事の調理をすること、労働することは、殺生することになりますので、托鉢(たくはつ)でまかなわれましたが、中国では人家が遠く、また積雪のある時もありますので、僧自身が調理し、労働するようになりました。山に入って木を伐り、牛を駆って田を耕す、これも仏作仏行(ぶっさぶつぎょう)として、中国僧院独自の自給自足の修道生活がはじまりました。 およそ、切って赤い血の流れるものを用いず野菜だけを、それも無駄なく用い、生命を尊重した生活をする。これが精進料理の起りです。 子供の頃、仏事のお斎(とき)は勿論でしたが、盆会(ぼんえ)の三日間と、春秋彼岸の中日(ちゅうにち)は、「精進日」と言われて、殺生が慎まれました。この間は魚屋のおやじさんも、天秤棒(てんびんぼう)を荷(にな)って売りには来ませんでした。子供は蝉や蝶々を捕ると叱られるので、赤とんぼの飛ぶのを横目でにらんでいました。日本仏教徒にも、こんな習慣が定着していたのです。 食糧危機が叫ばれ、動物愛護が唱えられている時、天与の資源に感謝し、ものの命の尊さに想いを致し、自分がこの地球社会の一員にふさわしい資格があるのかどうか。せめて、盆会、彼岸会には、精進料理を食べることにしたいものです。 五観(ごかん)の偈(げ) 僧院に発生した精進料理は、単なる食事から、人間だけが懐(いだ)く、充分に精神性を持ったものに高められました。具体的には、禅門で食前に唱えられる「五観の偈」に示されるところです。 一つには、功(こう)の多少を計り、彼の来処(らいしょ)を量る。 (この食物が、この食卓に運ばれるまでには、多くの人々の労苦があったことと、大自然の恵みによるものであることを思って感謝します) まず感謝であります。日本で刑務所より粗末な食事をして、一番感謝しているのは、禅道場の雲水(うんすい)さんたちです。現代では、世界の生産者と、自然の産物に感謝しなければなりません。 二つには、己(おの)れが徳行(とくぎょう)の全欠をはかって、供に応ず。 (日頃のおこないを、ふりかえってみて、この食物をいただくに、ふさわしいおこないができているか、反省していただきます)
二つ目は、自己反省です。中国は唐代の百丈懐海(ひゃくじょうえかい)和尚は、作務(さむ)、即ち肉体労働を大切にされていました。しかし、ご高齢になられたので、お休みいただくように申すのですが、聞き入れてもらえません。そこで弟子たちは作業用具を、かくしてしまいました。これでお休みいただけると思ったのですが、食事をしてもらえません。その理由をお尋ねすると「一日作さざれば、一日食らわず」と。有名な言葉が反って来ました。自分にきびしく、修行にはげまれたのです。 三つには、心を防ぎ、過貪等(とがとんとう)を離るるを宗(しゅう)とす。 (邪(よこしま)な心を起さず、貪(むさぼ)りなどの誤った行為を離れます) 「心を防ぎ」とは、邪な心を起さないこと、過貪等とは、貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち)の誤った行為や、仏道修行のさまたげとなる念、三毒(さんどく)から解放されることが大事なことであります。 四つには、正(まさ)に良薬を事(こと)とするは、形枯(ぎょうこ)を療(りょう)ぜんが為(ため)なり。 (この食物は、大地の生命を宿す良薬であり、わが肉体を養うためにいただきます) 中国には、最も上等な薬は、治療薬でも予防薬でもなく、日常の食事だという考えがあります。 五つには、道行(どうぎょう)を成(じょう)ぜんが為に、当(まさ)にこの食をうくべし。 (この食物を円満な人格の完成のためにいただきます) 最後は人格の完成です。いただいている生命で何をするかが問われなければなりません。一言でいえば、「おかえし」です。他者への奉仕です。 奉仕と精進 私は「自分の生活の一部を割(さ)いて、他に奉仕しよう」と薦(すす)めてきました。他に奉仕することが、自己の人格を陶冶(とうや)することにつながるからです。 仏道修行というと、とかく坐禅したり、滝に打たれたり、回峰行(かいほうぎょう)というような、厳しいものだけを思いがちです。 これも、もちろん自利利他円満行(じりりたえんまんぎょう)にちがいありませんが、日常の生活の中で、対社会的活動としての、自利利他円満行も志さなければなりません。これが、大乗仏教の誓願(せいがん)です。 現在、世界の人口は六十五億といわれておりますが、その内の七人に一人が慢性的な飢えに苦しんでいると国連食糧農業機関が報告しています。その数は八億五千万人。内、約三億人が十五歳未満の子供たちです。 わが国の死亡要因の第一は、ご承知のようにガンでありますが、世界で見ますと栄養不足が第一位であり、三・四秒に一人、一日に二万五千人が飢えに関連する病いで亡くなっています。 昨年、わが国では、「食育基本法」が成立しました。「食育」活動が全国に展開され、「安全安心な食」のための、環境整備や教育を目指した活動が進められているといいます。食に関する驚きや感動を与え、季節の移り変わりを感じさせる旬(しゅん)の素材を生かし、食を通じて得られる楽しさや喜び、元気を伝えたいと識者は説き、現に食を通じての町作りが展開されつつあります。 正しい食事は、食物を通してわが身と心を自ずから統一してくれます。「継続は力なり」といいますが、食事こそ、いやでも継続しなければならない最たるものです。 食事を供する側の「食育」推進の運動と相俟(あいま)って、いのちを継続して頂戴する我々は、「いただきます」の感謝と懺悔の心で世界社会の共生を目指しての精進が、待望されるときであります。 |
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