道元禅師――その思想と宗教のキーワード
駒澤短期大学助教授  角田 泰隆(つのだ・たいりゅう)
(2002年『大法輪』2月号より抜粋)

 
 
 
只管打坐(しかんたざ)


 道元禅師といえば、「只管打坐」。というくらい、よく知られた言葉である。「只管」とは、"ひたすら""いちずに"ということ、「打坐」の打とは接頭語で動作・行為をする意であり、坐とは坐禅のこと、よって打坐とは坐禅をすること。つまり、ひたすら坐禅をすること、これが「只管打坐」である。
 鎌倉仏教の祖師たちは、あらゆる人々を救う立場から、それぞれ、誰にでも行うことが出来る実践を説いた。親鸞聖人は念仏を、日蓮聖人は題目を、そして道元禅師は坐禅を人々に勧めた。念仏や題目にくらべ、坐禅は特別な人だけが出来る修行法のように思われがちであるが、道元禅師にとって坐禅は、「この行、能く衆機を兼ね、上中下根ひとしく修し得べき法なり」(『正法眼蔵随聞記(しょうぼうげんぞうずいもんき)』)と示されるように、生まれつきの能力の区別なく、みなが修行することのできる修行法であった。
 この「只管打坐」は道元禅師独自の教えではない。道元禅師の師である如浄禅師(にょじょうぜんじ)が、「いろいろな修行があるが、ただ坐禅すればよい」と教えており、道元禅師はこの教えを継承しているのである。理屈ではない、「ただ坐禅すればよい」、それが道元禅師が確信した仏の道であった。
 「真実一路」という言葉があるが、最近ではほとんど言われなくなった。ひとすじに真実を求めて生きていくこと。自分がこうだと思った道をひとすじに歩んでいくこと。そのような生き方をする人が少なくなったからである。
 仏教の世界でも、時代に流されず教祖や宗祖の教えを実践して生きることを大切とする人々と、時代に応じて、人々の需要に応じて仏教も変わっていかなくてはいけないと革新を志す人々がいる。どちらが正しい、ということではない。おそらくそのどちらも大切だと思われる。しかし、いずれの道を生きるにしても、真剣に懸命に生きることが大切だと思われる。その真剣さ、懸命さが、仏教の世界でも失われつつある。
 「真実一路」の生き方によって、自分の考えや生き方を曲げず、それによって周囲の人に害を及ぼすようであってはならないが、良い意味で"芯のある"生き方、一生懸命な生き方が、これからの時代、必要であろう。それぞれが、それぞれの考えをしっかりと持ち、また、他人の考えや立場も尊重し、いま何をすべきかを考え、そのことに自信を持って生きること。他人の言葉に振り回されたり、惑わされたりすることなく、ひとすじに正しいと思う道に向かって生きること。そのような生き方を、道元禅師の只管打坐の生き方から学びたい。

無所得無所悟(むしょとくむしょご)

 無所得・無所求(むしょぐ)・無所悟とは、「何かを獲得しようとしない」「何かを求めようとしない」「悟りを得ようと思わない」ということである。これもやはり道元禅師の代表的な教えであり、道元禅師ほど、この無所得・無所求・無所悟を強調した方はいない。
 ところで、「あなたは、なぜ働くのですか?」と質問されたら、何と答えるだろうか。多くの人が、「収入を得るためです」と答えるかもしれない。そう、収入は必要である。収入がなければ、必要な衣食住を確保することもできないし、自分や家族を養うこともできない。自分たちが生活をするために、どうしても働かなくてはならない。
 道元禅師は、「獲得しようと思うな」「求めようと思うな」と言うが、決して「何も獲得するな」「何も求めるな」というのではなく、あまり打算的になってはいけない、報酬のことばかり考えてはいけないということを言っているのである。
 最初から損得勘定をすると、「働く」という行為が金儲けの手段となってしまって、「働く」という行為が汚れてしまう。「働く」ということは「生きる」ことであり、この「生きる」ということの他に人生はないのであるから、それを、食べる為とか、よいものを着る為とか、よい住みかに寝る為とか、そういう違うことの「為」にしてしまわないで、「働く」ということを大切にするということなのである。
 「食べる」ことも、「寝る」ことも、「働く」ことも、皆な日常生活のかげがえのない「生きる」というあり方であって、「働く」ことを、「食べる」ことや「寝る」ことの手段としてはいけないというのである。いかなる仕事にせよ、何か違うことを目的として、その手段にしてしまってはいけないのである。
 道元禅師の「無所得・無所求・無所悟」とは、「何かを獲得しようとしない」「何かを求めようとしない」「悟りを得ようと思わない」ということであるが、「何か」を「求めない」ということは、"今""ここ""このこと"を大切にするということでもある。