| 「明鏡」を喪失した現代人 |
| 立正大学教授 北川前肇(きたがわ・ぜんちょう) |
| (2003年『大法輪』2月号より抜粋) |
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◆日蓮聖人の生き方 日蓮聖人(一二二二〜八二)の生き方をたずねてみますと、私の心に強く響いてくるものがあります。それは、自己自身の心のあり方はもちろんのこと、自己の生き方や、私たちが関わっている人間のいとなみとしての歴史や自然現象にいたるまで、つねに「明鏡」に「引きあてる」あるいは「照らしてみる」という行為がなされていることであります。聖人が、人間のいとなみのみならず、国土にまでそれを広げて照射するという行為は、根本的には聖人が天台法華宗において修行され、とくに大きな影響を受けられているのが天台大師の『摩訶止観』で、そこには「止」と「観」との両者、すなわち主客が一体化される究極の帰着点がみられます。そのような実践修行のあり方が、聖人の種々の認識方法にも大きく影響しているとも考えられます。 それはともかく、聖人が自己が生きている末法の時代や、現実の事象や、さらには自己受難の問題、ついには心のありよう(観心の世界)までも絶対規範ともいうべき「明鏡」に照らされていることは、いったい今日の私たちにどのような問題を投げかけているかを少しく考えてみたいと思います。 ◆『立正安国論』の執筆 日蓮聖人の代表的著作を一冊あげるとすれば、おそらく多くの人たちも『立正安国論』を想起されることと思います。私も間違いなくこの一冊をあげることにためらいはありません。 しかし、では『立正安国論』はどのような立場で、何を目的として執筆されたのか、という問いを設けたといたしますと、容易に解答できないところであり、また見解の分かれるところでもあります。そこで、あらためて日蓮聖人が『立正安国論』を執筆された意図をたずねてみますと、聖人が法華経至上主義の立場を宣言された建長五(一二五三)年の「立教開宗」から四年後、正嘉元(一二五七)年八月二十三日午後九時頃、鎌倉を中心として関東地方を大地震が襲います。これによって多くの人たちが被害をうけることになります。 しかし、この大地震にとどまらず、聖人の記述によりますと、正嘉二年八月一日の大風、同三年の大飢饉、さらに大疫病等がつづき、ついに「万民すでに大半に超えて死を招き了りぬ」(昭和定本・四二一頁)というありさまでした。 鴨長明は『方丈記』において、養和の飢饉(一一八一〜二年)のありさま、また元暦二(一一八五)年七月九日の大地震を活写していますが、これらの災害がいかに多くの人を死に至らしめたか知ることができます。 これらの災難によって、日蓮聖人当時でも同様に、最も大きな不幸を受けたのは、一般庶民であったのです。 打ちつづく災害に対して、為政者として杜会的責任ある北条幕府は、災難をはらうための種々の祈祷を、仏教界のみならず神道界にも申しつけました。もちろん、幕府は徳政をおこなうことも忘れてはいません。これらの具体的なありさまは、『立正安国論』第一段の旅客の言葉の中に描写されています。 しかし、ここで問題となるのは、これらの現実におこなわれる種々の祈祷に対する結果、つまり祈祷の効験が見られない、ことであります。なぜなら、仏陀の教えは、私たち凡夫がその教えをもととして、さとりへの道を歩むことであり、その結果さとり、あるいは成仏へ至るものと考えることができます。そのように、自己を全面的に投げ出して帰依するにあたいする仏法でありながら、何等のしるし(徴)が見られないということは、そもそも仏法は帰依するにあたいしない、という仏教否定につながることにもなるからです。 そこで、日蓮聖人は立教開宗までの歩みの中で、釈尊の一切経の中から真実の教えを求めるという方法とは異なり、仏教ははたして末法の人々の帰依にあたいするのか、あるいは仏法は末法の人々を救える教えであるのかという根本問題を抱いて、あらためて駿河国岩本(静岡県富士市)の実相寺の一切経蔵に入られて、真剣に釈尊への問いかけをされたのです。 そこでついに、聖人は一切経という「明鏡」をもととして、攘災の祈祷のしるしがなく、のみならず、かえって災害が増加することの道理と経文の証拠を得られることになります。つまり、国土の災難興起の原因のみならず、それによってもたらされる人々の不幸の原因、さらには祈りの無効性までも、聖人は一切経に照らし出して、その原因を探求されていることが知られるのです。そしてついに聖人は、人々の不幸に眼を覆うことができず、私的勘文を著されたのであります。これが『立正安国論』にほかなりません。 そのことから、『立正安国論』は災難興起の道理と災難興起の経文が記され、さらに災難対治の方法と、それにもとづく理想の世界等が、旅客と主人との対話、すなわち戯曲形式によって描かれることになるのです。 ◆法難とその経証 ところで、日蓮聖人はこの『立正安国論』を自己および弟子檀越の範囲内にとどめられることなく、「勘文」として前執権北条時頼に奏進されることになります。もちろん、一巻の「勘文」を執筆すること、そしてそれを幕府への諫暁を目的として呈上されることには、大きな飛躍が求められます。また、大いなる勇気と決断とを必要としています。おそらくそこには聖人に、逡巡があったものと拝察されますが、ついに文応元(一二六○)年七月十六日に、『立正安国論』を手渡されることになります。 そこで聖人のこの決断をうながしたものは何かをたずねてみますと、『涅槃経』の一文が注目されます。すなわち、釈尊の仏法が破られようとしているときに、これを放置していた場合、それは仏法に対する敵であるというのです。「仏法中怨」という表記です。 そこで聖人は、この文に自己の生き方を照らし、真の仏弟子は身命をかけて仏法を破る人を指弾するとの文にもとづき、その生き方を選取されるのです。もちろん、聖人は『立正安国論』の建白は必然的に受難が興起することを予想されていたと思われます。すでに清澄寺での「立教開宗」後、地頭東条景信の抑圧によって、聖人および兄弟子二人が清澄寺を退出されていたのです。 そのことから推察しても、官位を持たない聖人が幕府を諫暁することは、「死」を覚悟すべきことであったと思われます。その予想どおり、文応元年八月には草庵が襲われ、そのために難を下総にのがれ、翌弘長元年五月、聖人は伊豆へと流罪になるのです。 また、弘長三年流罪赦免後、故郷安房国を訪問された折、宿怨を晴らそうとする地頭東条景信の襲撃に遭遇され、弟子が即死し、聖人もまた頭にきずを受け左の手を折られるという危機に直面されました。 さらに、文永八(一二七一)年九月十二日、幕府は再び聖人を逮捕し、密かに龍口の刑場において頸を斬ろうといたしますが、それがかなわず、ついに十月佐渡へ配流の身となられるのです。 このように、聖人は種々の迫害を受けられるのでありますが、その場合も、法華経の「明鏡」に自己の受難を照射され、「法華経の行者」として、あるいは、「久遠の釈尊の使い」としての自己をそこに見出されていることが知られます。 これほどまでに、聖人の行動が法華経、あるいは涅槃経等にもとづいていることは、聖人は釈尊の教法に対して、絶対的帰依を寄せられていたことを意味するのです。 ◆宗教的罪をもつ自己 ところで、日蓮聖人が自己の生き方を経文に照射された場合、「法華経の行者」としての自覚を深められると同時に、一方では自己が今までに犯してきた宗教的罪を自覚されるにいたるのです。それは、法華経という「明鏡」には、三千塵点劫や五百億塵点劫という遥かむかしから釈尊は私たちを導いてきてくださっているというのです。しかし、声聞の弟子たちが法華経の前半において未来成仏の予言(授記)を受けていることは、その中途において法華経に背き、法華経の仏種を喪失してきたと解釈されるのです。 しかもこの教説を聖人は、仏弟子たちの問題とされることなく、自已自身の生き方として受け取られるのです。つまり、自分も過去世において、釈尊に背いた罪を犯してきたのであって、末法の今、さまざまな法難をうけているのは、この証左であるとされるのです。 そのためには、いかなる迫害に遭遇しようとも不退転の信仰を貫徹することを『開目抄』において確認されることになります。 ◆明鏡を喪失している私たち このように、日蓮聖人の歩まれた道の一端をたずねてみますと、生き方の根底に絶対的規範とも言うべき「明鏡」があることを知るのです。そのように考えるとき、仏教の中に生きようとしている現代の私たちは、現代のさまざまな価値観に左右され、ついには「明鏡」を喪失し、そのために自己がいかなる自己であるかを見失っているのではないかと、猛省させられるのです。 |
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