科学の進歩と人類の進化―二十一世紀を開く密教の心―
高野山大学客員教授 山崎泰廣(やまさき・たいこう)
(2005年『大法輪』2月号より抜粋)

 
   
  ◇科学は善悪「無記(むき)」である
 人は誰れもが幸せを求めて生きている、と一般には信じられているように思われる。もしそうであれば、人は年齢を重ねるごとに、人類は世紀を加えるに従って、理想の楽園へと着実に進んでいかなければならない。
 幸せへの熱い願いが、二十世紀には特に科学技術の異常な発達をもたらし、日常生活・交通・情報等を便利に、豊かにしてきた。理想の楽園も手の届きそうなところまできたかに見えたが、その期待も僅(わず)か一世紀を経ずして、行く先が不透明になった。何故であろうか。それにはさまざまな理由が考えられようが、最も根本的な原因は、科学の急速な進歩に相応して、人類が進化しなかったからではないだろうか。
 科学は人類にとって益か害なのか、よく論議されるところであるが、科学それ自身は善でも悪でもない。仏教術語でいえば「無記(むき)」なのである。科学を人類の利益とするか害悪とするかは、ひとえに人間の側にかかっている。この急速に進歩した科学技術を、そして科学製品を、入類が利益のために使いこなすには、科学の進歩に相応した人類に進化しなければならない。
◇心静かに真実を観 (み)
 「ある日、大池に舟を浮べて多くの人が乗り楽しんでいた。その時富豪の人が瑠璃(るり)の宝石を池の中に落としてしまった。人々はこれを取ろうとし、競って池に飛び込み、水底をかき回して宝石を探し、各々はこれが宝石だと思って水上に浮かんで確認して見ると、それらは皆石塊(いしころ)であった。しかし一人の知者は、じっと舟上でこれを見ていたが、やがて濁りが澄んでくるのを待って、静かに水中に入り、宝石を得た」と。
 これは『涅槃経(ねはんきょう)』に説かれた比喩を『大日経疏(だいにちきょうしょ)』が引用した箇所である。古典の物語ではあるが、改めて現代社会の批判にも通ずる恰好の比喩である。
◇人類は地球の孤児か
 世は読書離れ、と言われて久しいが、巷(ちまた)の書店には新刊書が溢れている。しかしその多くは即効的・即物的・技術的な内容のもので、哲学的・本質的・宇宙視野的な本など、心を清澄(せいちょう)にして思索するような種類の本は少なくなってきた。
 巨大科学は自然浄化の枠を越え、自然を破壊し、生態系を乱し、人間の生理・心理を無機質化しつつあるが、その基本は、物質は人類の欲望を満たすために、ただ利用する対象であるとする考えが中心となって自然との対立、そして自然との断絶が始まった。
 人間は自然の一部分であり、自然の中にあって自.然との温かい心の交流が実現している時、正常な人間性が保たれる。しかしコンクリートの道路と建築・冷暖房・自動車・ウォークマン・携帯電話等で自然と断絶し、宇宙時代といわれながら月齢(げつれい)も知らず、四季の日々の微妙な変化や旬(しゅん)の食事も分からなくなって自然の孤児となり、その道を集団自殺しようとするかの如く、黙々と進みつつある。
◇自然との交流を保つ
 科学は人類の知恵が生み出した傑作である。その利便性と物の豊かさを我々に与えてくれた。誠に有難い恩恵を受けている。しかしそれに即して、その裏面には必ずマイナスの要素が寄り添っていることを自覚していなければならない。
 コンクリートは寒暖の差が多く、降雨と蒸発という自然の循環を遮(さえぎ)る。冷暖房は外気との切断と体温調整機能の低下、車は歩くという人間の基本的運動を奪い、ウォークマンは風景との交流を断ち、携帯電話は忍耐力と思索能力を退化させる、という要因をもっている。科学の発達による現代生活は人間の生理・心理の両面から自然と断絶している、という事実を熟知した上で、それを補うために、意識して今まで以上に行動しなければならない。
 科学は二つに分析するところにその基本がある。それ故にその研究の集積が巨大な科学の発達となった。しかし人間は身体と精神の二つを合わせたものではなく、身心一如(しんじんいちにょ)の存在である。また自然は、人間の欲求に利用するだけの対象ではなく、人間は自然との不二(ふに)、交流の中で、初めて正常な人間性を保つことが出来る。まず、このような個としての自覚が必要である。
◇つながり合う命
 不正をしない誠実な人格、自己の属する企業や国家・宗教のために全身心を投げうって尽くす人物は理想の人間像であった。このような人物が少なくなりつつあることは残念である。しかし二十一世紀には、さらなる要素をもった人物が必要となってきたのである。
 自己の属する企業・国家・宗教の発展・拡張のために相手を敵視し、破滅させてもよいという発想は、グローバル化されつつある現代においては修正されなければならない。しかし自の発展と他との調和・共栄は二律背反の如くに思われ、誠に難しい問題である。
 自社・自国・自宗教のためのみの発展を願うという意識は、すべての存在は大いなる一つの命に生かされている、というつながりを切断するものであり、地球という一つの生命体からは、その生態維持のための自浄作用・復元力によって、いずれは排除される運命をたどるものと思われる。
◇宇宙に視座をもつ
 ガリレオやコペルニクスが地動説を唱えた時、西洋諸国やある宗教は、大いに驚いた。そして現代は地動説が常識となっているようである。しかし二十一世紀は、この地動説も過去の偏見としなければならない。無限大の宇宙は、どこでも中心と成り得るのではないか。
 地球の引力圏を脱し.て見れば、東西南北・上下・軽重・昼夜24時間という固定観念を超えた世界が出現する。広大な宇宙の整然とした秩序たらしめる「至高なる宇宙的生命」“Sublime Cosmic Being”と名づくべきか。真言密教はこれを人格と見て「大日如来」と名づけている。キリスト教の「神」も、イスラム教の「アッラー」の神も同じ本体ではないか。
◇虚空(こくう)体験
 弘法大師空海は、若き日四国香川県太龍嶽(たいりゅうがたけ)の山中で、また高知県の室戸岬(むろとみさき)で、虚空・大宇宙のスケールをもち、明星を権化(ごんげ)とする虚空蔵(こくうぞう)菩薩の求聞持法(ぐもんじほう)を修し、遂に大宇宙の偉大なる人格と一体となる体験をした。この虚空蔵菩薩の本体こそ大日如来である。それは、宇宙に存在するあらゆるものは、大きな一つの命につながって生かされている、という宗教体験であった。
 企業も国家も宗教も、そして自己自身も、この一つの命につながっている。これをそれぞれに切断し、対立するところから争いと不幸が始まったのである。
◇宗教の究極人格
 『大日経』には、宇宙は無始無終(むしむしゅう)、有無未分(うむみぶん)のある時、「ア」の一音が発せられ、その一音が多くの母音・子音を生み出し、展開しながら物質化して多くの天体が生まれ、その中に生命を発現する動植物が発生したと説かれている。その発想は現代の天体物理学と共通するものがある。まさに宇宙は一つの「ア」の命、大日如来につながり、生かされているのである。その表現はどのようであれ、究極に達した各々の教祖・宗祖の聖者は、この宇宙的人格を体得されたと推察するのである。
 教祖・宗祖は、その宗教的性格・時代・地域の相違によって、その表現は異なっているが、この宇宙人格につながっている、と考えられるのである。二十一世紀の人類にとって、この意識がまず重要な要素となるのではないか。
◇五本の指
 五本の手の指は、その形・長さ・働きは各々異なっている。各指の優劣はどのような基準によって決められるのであろうか。一本一本、他とかけがえのない個性ある働きをする。しかしそれに優劣をつけて各指が別体の働きをすると、いかがであろうか。また同じ指にしてしまえばどうであろうか。各々の指は、各々が孤立しているのではなく、一つの血流・一つの命が流れているのである。それ故にいったん事が起った時は、握ること、細工をする時など五本すべてがそれぞれの個性を発揮しながら、一つの事をなし遂げるのである。
 全体としての普徳(ふとく)を具(そな)えた大日如来は、一人一人の衆生(しゅじょう)の願いに応(こた)えて阿弥陀如来となり、あるいは観世音(かんぜおん)菩薩や不動明王として具現する。一即多・多即一、一神教的多神教である。それぞれの尊格は、その本質において大日如来としての普遍性を具えた個性を持つ。伝統ある各宗教は普遍的個性“Universal Personality”としての宗教ではないだろうか。
 異なった宗教を敵視し、征服して一色に塗り変えようとする行動は、大生命体を切断することである。異宗教である故に反目し争うという次元を脱することが、人類の宗教的進化である。
◇世界平和サミット
 西紀2000年8月28日から31日まで、二ーユーヨーク国連本部において、コフィ・A・アナン事務総長のもとに“The Millennium World Peace Summit of Rellgious and Spiritual Leaders”(宗教者・精神的指導者による、ミレニアム世界平和サミット)で会議の結果九条の実践公約が決議された。
第一条……肉体的・精神的・文化的・感情的に、個人および特定の宗教あるいは宗教団体を傷つけるいかなる行動も糾弾する。特に「宗教の名において」犯される暴力行為を糾弾する。
第二条……世界の文化・宗教の多様性を認め、敬意を払い、この多様性を守り広めていくことを約束する。
等の九ケ条が文章化され、決議された。日本のマスコミでは、この重要な会議について、ほとんど報道されなかったようであるので、ここで記しておくことにした。そして各宗教・各宗団の英文出版物を国連図書館へ寄贈することの依頼があり、拙著“SHINGON ―― Japanese Esoteric Buddhism ――”(『真言-日本の密教』 Shambhala, Boston & London, 1988)も図書館に収蔵された。
 二十一世紀の進化した人類とは「自然と交流し、宇宙と心を通わせ、全宇宙は一つの命につながり生かされている、という意識によって、自己の主体性が確立した人格」ということになるのではないか。
◇宇宙の心を生きる「阿字観(あじかん)瞑想」
 至高なる宇宙大生命とのつながりを体得する方法は、各宗教によっていろいろあると思われる。ここでは、真言密教に古くから伝えられている「阿字観瞑想」は、近年広く宗派を越えて一般在家の方々にも開放されているので、拙著『阿字観瞑想入門』(春秋杜、2004年)によって紹介したい。
 先に述べたように、宇宙は無始無終、有無未分のある時「ア」の一音が発せられ、そこから天体や森羅万象(しんらばんしょう)が形を顕(あら)わした。「ア」の一音は天地宇宙の本源の音であると同時に、天地宇宙の様々な形として現象している。
現象世界の変化に一喜一憂する視点から、心を自心の本源の「ア」に立ち戻らせて、宇宙に周遍(しゅうへん)しているこの「ア」の音を心静かに発声して宇宙と呼吸を通わせていると、次第に宇宙と心も響き合ってくる。これが「阿息観(あそくかん)」である。次に自身の本来清らかな心を直径40セソチメートルほどの月輪(がちりん)によって象徴し、その中に阿字と蓮華を描いた掛軸を本尊とし、この月輪を胸中に観じ、順次少しずつ広げていって遂に自身が宇宙大となり、宇宙との一体観を観ずるのである。これが「阿字観瞑想」である。
 視界は拡がり、地球への、そして人類への愛情が湧き、ゆるぎない人生観と透徹した先見の眼が開けてくる。
 各々の個人、そして現代の各々の分野の人達が、,宇宙意識でつながりを深め、それぞれの国土・文化の普遍的個性を存分に発揮する時、二十一世紀の未来は、実に明るい頼もしい世界となるであろう。まさに二十一世紀の進化した「ネオ人類」の誕生である。
                                 合掌