「観音さま」ってどんな方?
西国第6番・壷阪寺(南法華寺)住職  常盤 勝範(ときわ・しょうはん)
(2002年『大法輪』3月号より抜粋)

 
   
 
●苦しみを癒す仏さま

 「かんのんさま」と覚えやすい音が境内に響き、お参りする人をお迎えします。「ご本尊の仏さまは何ですか」という問いかけに「かんのんさまですよ」とお答えすると、お母さんに連れられた小さいお子さんも「かんのんさま」とかわいらしい声で応じてくれます。私たちの心に自然と覚えられている仏さまのひとつなのでしょう。覚えやすい音と言葉だけに、その意味は深く大きいものがあるように思います。
 「観音さま」、音を観る仏さま。普通、音を聞くといいますが、一体この仏さまは私達に何を教示しようとしているのでしょうか。
 壷阪寺(つぼさかでら)の観音さまは、眼病に霊験があるとされ古くから眼の観音さまとしての信仰を集めています。その信仰を実践するため、壷阪寺では眼のご不自由なお年寄りのための施設、養護盲老人ホーム慈母園を開設させて頂いています。入園なされているお年寄りの経歴も様々で、生まれつき目の不自由な方、中途で、交通事故や疾病等により失明した方、と一言で眼が不自由といっても失明している年数により、色々とご苦労が違うようです。
 その中で、中途で失明されたお年寄りが言われた言葉は、「色を触りたいなぁ、色の匂いを感じたいなぁ」というものでした。「色をさわる」そんなことはできません。私達、晴眼の者は色を見て識別します。失明した方は何十年前の色の記憶を辿りながら、色を想像します。しかし、記憶が薄れていくと色を忘れてしまいます。色のない世界、その世界は思い浮かびません。その苦しみが先ほどの言葉になるのです。
 生まれつき失明した方に色の説明をする時は、食べ物に置き換えて説明したりします。例えば、赤色でしたら、リンゴの色。黄色の場合、バナナの色といった具合になります。このような工夫をしても色のない世界、色がなくなっていく世界に、その身を置かざるを得ないようになります。その苦しみが先ほどの言葉になり、言い表しようのない孤独感を感じられます。
 それを癒すために、私達は何をすべきなのでしょうか。答えは容易には見つけだせません。失明した人達が持っている苦しみを想像し、察しながら正に、苦しみの音・言葉を聞き分け見つけだし、癒していかねばなりません。しかし、なかなかその苦しみの音を見つけ出すことはできません。
 相手の立場になって考えなさい、とよく言われます。色が失われていく世界、色のない世界を、どのようにして想像すればよいのでしょうか。眼帯をすればいいじゃないか、と言われる方もいます。一週間程度しても、それは失明された方の苦しみを理解できないでしょう。では、どうすればいいのでしょうか。
 それは、眼が見えている今の自分に感謝する心を身につけることではないでしょうか。私達は、当たり前だ、あるいは普通だ、と思っていることが、失われた時の悲しみの心は計り知れません。眼が見えることが当たり前だと思っている時は、眼のご不自由な人を見ても可哀相だと思うだけで、その人の苦しみに自ら飛び込み、その苦しみを理解しようとする気持ちは起こらないでしょう。常に、眼が見えている自分に感謝することを忘れたければ、眼のご不自由な方に、自然に接することができるのではないでしょうか。

●感謝し拝み合う心

 観音経の偈文に「観音妙智力 能救世間苦(かんのんみょうちりき のうぐせけんく」という一節があり、観音妙智の力、よく世界の苦を救う、ということが示されています。人の苦しみを救って下さる観音さまの由縁がこの一節からわかりますが、この観音さまの妙智力は、私達の心に隠されてはいるが、常に備わっているのです。
 眼のご不自由な方に、お話をする機会が多い私達ですが、当然失礼なことも言ったりして、叱られることも多いのですが、時には笑って頂いたり、眼が見えているような気がする、とおっしゃって頂くこともあります。盲老人ホームでは、時には自分の孫のような寮母さんに手を引かれて、観音参りに行かれます。若いですから少し手を引く速度が速いときもあります。見ているほうもヒヤヒヤするのですが、寮母さんはお年寄りの手のぬくもりから手を引かさせて頂いている感謝の気持ちを頂き、お年寄りは寮母さんにこんな年寄りを引いて下さってありがとう、という感謝の気持ちを送っているようです。正に、お互いに拝み合う心、そこには一方だけが信号を送っている姿ではなく、お互いが尊敬し合っている場が生まれているのです。
 壷阪寺には壷坂観音霊験記のお話が伝わっております。嫉妬した盲目の夫、沢市がある日、妻お里の献身を知り、自分の不甲斐ない心を改め、お里を伴い参籠し、自らの命を捨て、お里にこれ以上の迷惑をかけまいと決心します。そんな沢市と沢市に永遠の愛を自分の命と共に捧げようとしたお里、その二人を見た観音さまが二人の命を助け、沢市の目を開くという奇跡を呼び起こしました。
 観音霊験記ですので、観音さまの霊験が目を引くのですが、観音さまはすぐに夫婦の側に現われてはおりません。二人が互いの苦労を認め合い、そして、互いに感謝し拝み合った時に現われておられます。互いに認め合う、感謝する心が生まれた時、即ち一緒に苦しみ、喜ぶ、対立のない世界が生まれた時、現われる仏が観音さまではないかと思います。そのような世界を慈悲の世界と一言われ、観音さまが慈悲の仏と言われる由縁です。

●慈悲行の難しさ

 では、観音さまが説く慈悲の世界とは一体どんなものでしょうか。他者に利益と安楽を与えるいつくしみの心を意味する「慈」と、他者の苦に同情し、これを抜済しようとする思いやりの心を意味する「悲」と記述でき、また、この「慈悲」の行が、大乗仏教の最大の徳目と言われます。他者の苦を観つけだし、加えてそれに楽を与える難しさを感じることが、慈悲の世界に足を踏み入れることのできる資質の一つであります。
 盲老人の福祉をさせて頂いておりますと、目の見えない苦しみは百人百様であることを教えて下さいます。そこに一種類の施物を与えても、後の九十九人の苦しみを取り除くことはできませんので、色々なことを考えて与えなければいけません。たとえ、その施物が正しくとも施す側の心が、「してやった」「こうしてやった」「これでいいだろう」、という盲老人の人達に対する強者の理論と安易な気持ちでは、その施物の効能は薄れるばかりだと思います。施物を受ける盲老人の方々も、大きなお世話だと思っていたら、その効能は薄いでしょう。
 即ち、施す者、受ける者、施す物すべてが、慈悲の修行にその身を置いているという気持ちが必要です。現実には色々なご奉仕をさせて頂いても、施しをさせて頂いて、受けた方がありがとう、と言ってもらいたいとか、その施した物、施した方が、受ける者にとっては迷惑であっても、自分に対し反省せずにいることが多いのです。
 例えば、私たちは、インドにてご奉仕させて頂いておりますが、インドの田舎の小学校に大量の日本製のノートブックを持ちこみ、小学生に分け与え、自身のインドの貧しさに対する強者の理論と安易な気持ちで与えたことを喜びました。その後、受けた小学生も喜んだが、帰宅して家にて親に取り上げられ、現金化されたという事実を聞きました。小学生の落胆した顔はもちろん、当時の現地の家庭状況を考えると無理もなく、そのような分析もせずに、彼らにとって高価な日本製のノートを与えたことを、反省しなければならないのです。
 あの時、私自身の心に間違った慈悲の世界をつくりあげ、施した良い報いを見ようとした自分があったのです。このように、先を見よう、何かを期待しようとする心がある限り、慈悲の世界は存在しません。

●布施行と巡礼の意義

 大乗仏教において、菩薩に課せられたる六種の実践徳目を六波羅蜜(ろくはらみつ)といいます。その最初に布施(ふせ)という徳目があります。布施行を修する時に、施す老も、施される老も、施物も、空であり、執着の心を離れてなされるべきとされています。正に、慈悲の世界においても強調されていることであります。執着の心を持つな、とよく言われます。しかし、何かを施した時、人情としてありがとう、と言って欲しいなあ、と思ってしまいます。そういう期待をするということが、すでに間違った見方をしているということです。
 私の学生時代は、理系の学問を勉強しておりました。作物の遺伝についての研究でしたので、顕微鏡など色々な機器を使って観察しました。担当の教官は「人の生活には土日曜を組み込むことができるが、作物には休日は一日もないぞ」と言って、怠けがちな学生であった私を指導して下さいました。その時、事物を観察することの初歩を教えて頂きました。
 その経験からも、期待した結果ではない結果を見つけ、その原因を探究していくことは、執着せずに行なっていく慈悲の世界にも相通じるものがあるような気がします。そして、観察という文字をみれば、観音さまと同じ「観」を使います。このことから考えても、観音さまは、お互いが拝み合い尊敬し合い、執着の離れた世界を創出しようと精進する時、お互いの言葉と行ないを長い間、注意深く観られ、同時にその世界が成就した時、私達の心に現われてくるのではないかと思います。言い換えれば、私達が自分の心の中で観音さまの説かれた心を育てていかねば、観音さまは現われないのです。
 壷坂観音霊験記では、夫・沢市のため、妻・お里は千日間、山道を通って壷阪観音に詣ったとされています。お里と沢市の慈悲の世界が創り出され、お互いの心に観音の心が芽生えるまで千日間、と解釈してもいいのではないかと思います。心の底から人を拝み合う世界を創る難しさを、千日という数字で観音さまは教えて下さり、その世界を創るため、巡礼という長い道程の道場が開設されているのです。巡礼の間は、巡礼できる自分に感謝することが、巡礼の第・一の徳目でしょう。それが身につくにつれて、他人を敬う気持ちが備わると思います。巡礼は、慈悲の世界の道場です。   合掌