観音さま 素朴な質問Q&A
明治寺住職 草野 榮應(くさの・えいおう)
(2003年『大法輪』3月号より抜粋)

 
 

◆Q1 観音さまのふるさとは?


 我が寺の本尊は如意輪観世音菩薩ですので、さっそく本堂へ行って、本尊さまに向かい、「ふるさとはどちらですか?」とお尋ねをしてみました。でも、堂内はしーんと静まったまま。「あれ、応えがないなあ」と思っていたのですが、実はそうではなかったのです。
 本尊さまを拝む修法のために、お姿を詳しく説明した「道場観」という寺伝の文章があります。如意輪観音は六臂すなわち六本の腕をお持ちで、それぞれの腕の形として「右の第一の手は思惟の勢をなし、第二の手は如意宝を持し…(略)…左の第一の手は光明山を按じ、第二の手に蓮華を持し……」などということが記されています。
 「光明山を按ず(=押さえている)とは、何だろう」と、長い間わからなかったのですが、仏教大辞典(小学館)を調べているうちに、はっと気付くことがありました。光明山とは観音さまのふるさと、補陀落山の別名であったのです。本尊さまは左手の一本を斜め前方にたおやかに伸ばし、地面を押さえるような形を見せています。本尊さまは、すでにちゃんと答えてくださっていたのです。
 補陀落山とは、はるか南方の海の中の島にそびえる山のことで、サンスクリット名の「ポーターラカ」を音訳したものです。華厳経の記述によれば、そこは聖賢多く宝石に満ちて、きわめて美しく清らかであり、沼や湖沼小川があって華果樹林が遍満している、とまさに理想郷のような描写がなされています。
 ニュースを見れば「右も左も真っ暗闇じゃございませんか」と、どこかで聞いたような言葉を言いたくなるのが、我々の住む娑婆世界(忍土=耐え忍ぶ世界)でありますが、「右を見ても左をみても」本当に光に満ち、聖人だけが住み、花咲く清らかな世界、観音さまはそんなふるさとから、あえてこの娑婆世界を光あふれる清らかな世界にするために、つまり「浄土に変える」ためにお出ましくださったのだと分かった時、思わず手を合わせて「本当にご苦労様でございます」と、申し上げたくなります。

◆Q2 ふだんは
      どこにいるのですか?


 観音さまがどこにいるのか、と問われれば、「そりゃ、本堂にいます」と答えたくなってしまいます。申し上げましたように、我が寺の本尊は観音さまですから。しかし、次のようなことも考えられます。
 私が住持する寺の境内には、百観音の石仏が並んでいるので、いろいろな人の参拝訪問を受けますが、境内へ入ってくるとまずほとんどの方が、「やあ、観音さまがたくさん並んでる」と思うことになります。しかし時には、「お地蔵さんが並んでる」とか、「五百羅漢だ」と口走る声も、けっこう聞こえるんです。
 つまり、石像の並ぶ景色を見て「あ、観音さまだ」と判断できる人は、「観音さま」という概念がその心の中にすでにあり、そのために目の前の光景とそれを一致させることができた訳です。すると、最初から心のなかにある「観音さま」なるものが大切なわけで、「観音さまはどこにいるのですか」という問いに対しては、「あなたの心のなかにおられます」ということが、無理なく言えると思います。それがなければ、たとえ観音さまが眼の前におられても、観音さまとしての意味をなさない訳ですよね。私に言わせれば、観音さまはあなたや私たちのすぐそばにいてくださって、とにかくいつも身近にいてくださる方だと思いたいです。
 一休禅師は、観音さまの居場所を訊ねられて「皆、身にある」と、つまり、自分自身の心の中にいるのだと、おっしゃったそうですね。浮陀洛浄土はたしかに「南」なのですが、それを「皆身に……」と言い換えたそうです。また、観音さまの別名は「観自在菩薩」ですが、それを「観ればおのれに在る菩薩」という見事な言い換えがされています。つまり「皆、身にある菩薩」ですよね。

◆Q3 観音さまは
         男ですか女ですか?


 しばしばこの問いを受けますが、その時はまずこちらから、「あなたは、どちらだとお思いですか」と訊き返します。「たぶん、女性だと思うんですが」という方に対しては、「それなら、観音さまは女性でしょう」とお答えしています。その方は、女性であってほしいと考えているからでしょう。「男性じゃないかと思います」という人には、「それなら、観音さまは男性でしょう」なんて、答えるわけです。つまり、観音さまは男性・女性の次元を超えておられるのだと、私は考えます。
 観音さまというのは、「慈悲」という、救いと慈しみの働きを目指す心が、人に近い形を取って我々の前に示されたものではないかと、思えます。慈と悲は「与楽と抜苦」、つまり「楽を与える」ことと「苦しみを抜き去る」という、尊い救いの実践であり、そしてその心は男と女の次元を越えているわけです。「女の慈悲だけが本物」となったら、世の中はおかしくなります。もちろん、無条件に赤子をいつくしむ母の慈愛の姿を見習うべきですが、母子を共に見守り、大きく包みこむ父親としての慈愛の心、これもまた慈悲であります。
 少年時代のある時、私は虫歯が痛み、半泣きの顔をして歯医者へ駆け込みました。すると、「おお、これは痛いじゃろ……」と言いながら先生はドリルをかけ、膿を出してくれ、たちどころに痛みを取ってくれたので、本当に拝みたい気持ちになりました。それはおじいさんの先生でした。まさに「抜歯与楽」とでも言うのでしょうが、苦を抜かれたことは、同時に楽を与えられたことと同じでした。観音さまが、白衣を着てドリルを手にした歯医者さんの姿を取ってくださったのだとも信じられます。大切なことは、助けてくれた人が男だろうと女だろうと、患者には全く関係ないということです。

◆Q4 「観音」とは
       どんな意味ですか?


 「音を観る」と言っても、オシログラフの画面をみることではありませんね。そして、「聞香」「聞酒」などのように「矛盾する言葉」が並んでいますが、こういうのは、上手なネーミングの仕方にかなっているようですね。
 「観音」は羅什三蔵による訳語「観世音」をつづめた称号となります。古代インドの原語の、アヴァローキテーシュヴァラ(Avalokiteshvara)を意訳しております。
 『一ねん一くみせんせいあのね』(理論社)というこどもの詩集をご存じですか。そのシリーズの『「ふぁあん」「ふぁあん」宿題せんならん』(灰谷健次郎編)の、尾崎豊弘くんの詩「はしりっこ」はとても印象的でした。かけっこをしたらビリになったのだけど、応援していたお母さんから、「笑いながら走ったらふまじめよ」とたしなめられてしまった、でも実のところ彼は、途中からどんどん追い抜かれていったので泣きそうになったのです。でも、眉を下げ、鼻のところに力を入れるようにして、懸命に涙をこらえていたのでした。涙をこらえようとするその顔が、遠目には笑っている顔に見えてしまうことがあるということは、とても衝撃的でした。
 やはり、「見える」ではなく、「観る」でなければならないのですね。そして、涙なき涙、声なき声をこそ、深く直感できること、それでなくては観音さまの慈悲ではないんだと、突きつけられているような気がして、わたしはこの詩を大切に思っております。観音さまもまた、「観音さま!」という声で、その声の主の難儀の状況を察知し、救いの手を伸ばす、その高度にして迅速な判断には、「見える」ではなく「観る」という、直感的なイメージが働いているはずだと思うのです。
 「観音」という名前は慈悲にふさわしい言葉だと思います。「観音」の音とは、「世音」です。


◆Q5 何をしてくれるのですか?

 観音さまが何をしてくれたのかと、過去形となれば、数え切れないたくさんの救いの物語を書かねばならないかも知れません。観音経には、七難三毒の災難からの救いが繰り返し述べられています。改めて観音経を読んでみると、観音さまが人々から「施無畏者」とも呼ばれていることに気付きました。つまり、「畏れ無きを施す者」です。
 観音さまが見せている印相(仏のサイン)の代表的なものは二つあって、ひとつは、与願印、もうひとつは施無畏印です。与願印は開いた手を脇に垂らして、正面に向けています。「願いをかなえる」という意味です。施無畏印は、インディアンの「ハウ!」みたいに、掌を開いて正面へ向けている印ですが、「畏れることなかれ」、つまり「こわがらなくていいよ」、あるいは「だいじょうぶだよ」、そういう意味を伝えています。
 観音経の中に、ドラマチックな描写があります。もしも広い世界のここかしこに「怨賊」が満ちているとして、そこを商人の隊列が高価な商品を擁し、細く険しい断崖の道を進んでいるとします。商人たちは、どんな思いを抱いているか。それこそ恐怖そのものであります。いつ、どこから凶暴な賊徒が出現して、頭上から岩石を落としてくるかもしれない。そんな時に、商人のひとりが皆にこう言います。「おーい、みんな、一心に観音さまの名を唱えよう。そうすれば、だいじょうぶだ、心配いらないよ」。それで皆一心に名号を唱え、そしてめでたく、あの恐怖の場面を無事に通り過ぎることができたのでありました、という一段です。
 施無畏(無畏を施す)とは、大変なご利益ですね。おののくあまり、かえって危険を招いてしまうことを防ぐこともできるし、むやみなエネルギーのロスもなく、冷静に対処することができる。そうやって彼らは恐怖や不安の「落とし穴」に落ちることなく済んだのです。
 現代は不安の時代である、ということが言われています。時代の不安を捉え、読みとることは、まさにその時代を解く鍵ですね。社会の不安という大衆心理学的な問題が生じた時に、いったいどんな哲学や思想がこの不安を拭い去ることができるだろうか問われても、そんなものは簡単には見いだされず、慈悲の実践をおいて他にはない、ということが予想されます。観音信仰は大変古いものですが、今もなお続いているのはなぜかと言えば、それぞれの時代に大きな役割を果たしてきたし、これからも果たし続けてゆくものがあるからではないか、と思います。
 先代の祖母が来し方をしみじみ述懐した時に、こんなことを言いました。「わたしは女ひとり、苦労して観音さまをお護りしてきたと思っていたのだけれど、わたしの方が護られたのだわ……」。これ、いい言葉ですよね。私もまた年老いてから、ある日ぽつりとさりげなく、このようなことを言い残したいと思ったものです。これもまた、「何をしてくれるのか」という問いの答えにはなっていないけれども、「後で気が付けば、護ってくださったのだ」と思えるような護り方をしていただいているのだと、祖母から教わったのでした。