Q&A 仏さまとは
東洋大学教授   菅沼 晃(すがぬま・あきら)
(2004年『大法輪』3月号より抜粋)

 
   
  仏さまとは?
 仏(ほとけ)ということばは、原語ブッダを音訳した仏陀(ぶっだ)のうちの「仏」を訓読(くんどく)したものです。ブッダとは「真理に目ざめた者」「悟りを開いた人」の意味で、日本ではブッダにたいする親しみをこめて「仏さま」とよびます。
 ブッダはシャカ族出身であることからシャカムニ(「シャカ族出身の聖者」の意味)、一般には「お釈迦さま」ともよびます。ブッダは「真如(しんにょ―真理)から来生したもの」の意味で「如来(にょらい)」ともよばれます。
 如来ということばの原意は、自らの修行によって真理に到達しても、そこにとどまっていないで、人々を苦しみから救い安楽を与えるためにこの世に来生したものということです。
 このような考えが基本となり、シャカムニ仏だけではなく、人々を苦しみ救う阿弥陀(あみだ)如来、薬師(やくし)如来、観音菩薩(かんのんぼさつ)、弥勒(みろく)菩薩などの諸仏(如来)諸菩薩、この世の悪(あ)しきものどもを打ち破って仏法を守る不動明王(ふどうみょうおう)、四天王(してんのう)なども、一般に「仏さま」とよばれます。
 また、死んだ人も「仏さま」と言われることがあります。一般に、仏教に帰依していた人が死ねば、仏さまの命と一体となるとの考えから、このように言われるとされます。
 しかし、仏教では煩悩(ぼんのう)とよばれる心のはたらきが消滅した境地を涅槃(ねはん)といいますが、古い考え方に、この身心が残っている間は束縛や不満の心が生じるから完全な涅槃ではなく、身も心も無くなってはじめて本当の涅槃に達する、という説がありました。
 消極的な考え方ではありますが、死ねば煩悩が無くなるとする説には一理あります。死者を「仏さま」とすることには民俗学的な理由があるのでしょうが、その根底にこのような涅槃観があると考えられます。

歴史上のお釈迦さまとその他の仏さまの関係は?
 カピラヴァットゥの王子ゴータマは、ブッダガヤーの菩提樹の下で「悟り」という宗教体験を経てブッダ(覚者)になったのですが、ブッダ入滅後、その偉大な徳を敬慕する人々によってブッダの神格化がおこなわれ、如来といえば信仰の対象としての存在をあらわすようになりました。
 さらにブッダに対する見方(仏陀観―ぶっだかん)がすすむと、ブッダは永遠の理法・真理そのもの(法身―ほっしん)であるとともに、前生からの修行の功徳(くどく)による報身(ほうじん)、衆生(しゅじょう)のさまざまなあり方に応じてブッダとしてあらわれる応身(おうじん)、救済のために種々の姿でこの世にあらわれた化身(けしん)をもつとされるようになりました。
 大乗仏教で信仰される阿弥陀仏、阿?(あしゅく)仏、弥勒(みろく)仏、毘盧遮那(びるしゃな)仏、文殊(もんじゅ)菩薩、普賢(ふげん)菩薩などの諸仏諸菩薩は、仏教の信仰史の上から見れば、ブッダの衆生教化のはたらきを具体化し、より積極的に表現したもの、と言ってよいと思います。
 しかし、教理の上からは、ブッダと諸仏との関係はさまざまに説かれます。たとえばブッダと毘盧遮那仏(大日−だいにち−如来)は表面的には別の姿をしているが、本質的には同じであるとする見方にたいして、大日如来は真理そのもの(法身仏)だがブッダは人間(生身仏−しょうしんぶつ)であるから両者は別体であるとの見方があります。

仏さまと神さまの違いは?
 私たちは日常的に「神さま仏さま」と言って、人間に恵みを与えてくれる存在として神さまも仏さまも同じように扱っています。しかし、神さまと仏さまというとき、その神さまが一神教の神である場合には根本的に異なる点があります。毎年の十二月に行なわれる二つの宗教行事、すなわち成道会(じょうどうえ)とクリスマスが両者の相違を端的に示しています。
 キリスト教においては、イエスは天にいます神の子であり、神は人類の救済のためにその独り子をこの世に遣わした、とされます。そこで、イエスがこの世に生まれ出たということは、天にまします神の人類救済の意志が人間に示されたことを意味することになります。したがってイエスの生誕を祝うクリスマスは、キリスト教の「神さま」の観念をよく表す行事と言えます。
 それにたいして、成道会は人間ゴータマが自らの努力によって悟りを開いたことを記念する行事です。一人の人間であるゴータマが悟りを開いて「仏さま」となったということは、私たちも「仏さま」に導いてもらえれば「仏さま」になれることを意味しています。一神教の「神さま」はもっぱら救いの主、人間は救ってもらう存在であって、人間が「神さま」になることは絶対ありません。このところに、一神教の「神さま」と「仏さま」の根本的な相違があります。
 日本の神道で説く神々の場合は、仏教の諸仏諸菩薩の性格に近いものがあり、私たちが「神さま仏さま」と無区別に言う場合には、一神教の神を言っているのではないと思います。

仏さまには、いつどんなときに会えるの?
 仏さまに会おうとする心からの思いがあれば、だれでも、いつでも仏さまに会うことができる、というのが仏教の基本的な考え方です。たとえば、自分自身の勝手な思いをすべて捨てて、ただ一心に阿弥陀さまを念ずれば、その人の心の中に阿弥陀さまが見えてくると同時に、阿弥陀さまと同じ慈悲の心がはたらき出す、といわれます。
 また、禅の古典『碧巖録(へきがんろく)』に、梁(りょう)の武帝(ぶてい)が達摩(だるま)に初めて会い、「私は寺を建て多くの僧を供養して仏法興隆につくしている。そのことによって、どれほどの功徳が得られるでしょうか」とたずねたところ、達摩は「功徳無し」と答えたという話があります。
 はじめから功徳を期待して行なう布施行は、本当のものではないという意味ですが、つづいて「もし、この〈功徳無し〉の真意がわかれば、お前は達摩に会うことができる」と言っているところが重要です。とらわれのない慈悲行をしているとき、それは仏さまに会っていることだ、と言いかえることもできます。
 この意味からすれば、水に溺れている子供を見て、自分が泳げないことを忘れて思わずとびこんで助けようとするとき、その人は仏さまを見ていることになります。あるいは仏さまになっていると言った方がよいかも知れません。

仏さまは「バチ」を当てる?
 『広辞苑』には「仏罰(ぶつばち)」という語があり、「仏から加えられる罰」とされ、「罰」は「神仏が人の悪行を罰して、こらしめること」と説明されていますが、これはまったく世俗的な言い方であって、仏教にはこのような考え方はないし、仏罰などという語もありません。仏教は、人間の行ないの善悪を判断して賞罰を与える人格神のようなものは認めない、と言った方がよいかも知れません。
 この世に存在するものはすべて直接的な原因(因−いん)と間接的な原因(縁−えん、条件)によって成り立っています(縁起−えんぎ)。因果応報(いんがおうほう)というように、自分が行なった行為(因)の結果(果−か)は、自分自身が受けなければならないのです。善因楽果、悪因悪果というように、楽か苦の結果はその人自身の善か悪の行ないによる、とされるのです。
 ただ、仏弟子となり、教団で定めた戒律を守ることを誓った人が、それを破ることをしてしまったときには戒律で定められた罰を受けなければなりません。この場合も「仏罰」ではなく、戒律のきまりによる罰です。
 日常的に仏教の教えを信じて生活していくなかで、仏教精神に反する行動をしてしまったときには、罰をおそれるのではなく、深く反省し、懺悔(ざんげ)して心を浄(きよ)めて生きていく、これが仏教を信ずるものの生き方です。

「成仏」とは?
 成仏とは文字どおりには仏になることの意味で、歴史的にはゴータマがブッダガヤーで悟りを開いたことをいい、一般には悟りを開くこと、仏教を信じる者がそれぞれ自分自身で無上の悟りを開いてブッダ(覚者、真理に目覚めた人)となることを言います。
 お釈迦さまは悟りを開いたときの心境を「家屋をつくる者よ、いまこそ私は汝(なんじ)の正体をつきとめた。汝の梁(はり)も棟木(むなぎ)もすべて折られ、家の屋根はこわされてしまった。汝はふたたび家屋をつくることはないであろう。私の心は分別の意識をはなれ、すべての束縛から解き放たれた」とうたいました。
 「家屋」とは個体としての人間で、「家屋をつくる者」とは人間をつき動かしている執着の心(妄執−もうしゅう)です。なかでも最も強烈なものは自分自身への執着(我執−がしゅう)ですが、お釈迦さまはその執着心こそ人間を苦しめる正体であることをつきとめ、自分を縛るものから解放されたのです。
 道元が悟りを開いたとき、身心脱落(しんじんだつらく=身も心もすべてのわだかまりが抜け落ちる安らかな境地)と表現したことはよく知られています。実も心もすべての束縛をはなれて自由にはたらく境地が成仏の内容と言ってよいと思います。

「この身すなわち仏なり」とは?
 仏性と成仏についてのさまざまな考え方のなかで、わが国の仏教で最も重要視されたのは、この世とは別の浄土とか死後ではなく、現在のこの肉身のままで悟りを開くことができるという主張です。これは一般に、即身成仏(そくしんじょうぶつ)、現身(げんしん)成仏、現生(げんしょう)成仏ともいわれます。
 即身成仏はとくに真言宗で強調され、「父母から生まれたこの身のままで悟りを実証すること」(父母所生身即証大覚位−ぶもしょしょうしんそくしょうだいかく)などといわれますが、煩悩即涅槃(ぼんのうそくねはん=煩悩がそのまま悟りの縁となること)「生死即(しょうじそく)涅槃」(迷える衆生の現実世界そのものが清浄な涅槃の境地であること)も、「是心是仏(ぜしんぜぶつ−この人間の心がそのまま仏である)、「即心是仏」(現在のこの心がそのまま真理にほかならないということ)も、白隠(はくいん)が『坐禅和讃』のなかで「衆生本来仏なり」(この身すなわち仏なり)と言うのも同じ意味です。
 また、阿弥陀仏も四方の十万億土の遠いかなたにいるのではなく、自分自身の心の現われたものであり、阿弥陀仏も私たち自身の存在にほかならないとの主張がおこなわれました。
 いずれの説も、成仏はきびしく、かつ、無限に長い修行の結果はじめて可能だとする説にたいして、この世で、この身のままで成仏できるとする点において、ブッダの教えの原点に帰った主張と言えると思います。