スミレの花咲くころ
天台寺門宗管長・総本山三井寺長吏 福家俊明(ふくいえ しゅんみょう)
(2007年『大法輪』 3月号より抜粋)

 
   
  ◇感情を抑えきれない現代人
 現代人は、常日頃から感情の沸点が高い状態で生活している。すぐにキレるのは、子供や若者ばかりではない。大人も同じである。
 ある日、図書館でのこと。突如として男性の大きな怒声が響き渡った。静かな場所であるべき図書館でのこと、館内にいた人々は凍り付き、職員はあわてふためいた。やがて怒声はおさまり、当の人物も落ち着いたようすで館を出て行った。その人物はといえば、壮年の紳士で、いかにも社会常識もあり実直そうな人であった。もめごとの実態は分からないが、どうも受付での言葉のやりとりのトラブルらしい。確かに図書館の受付にも信じられないような職員がいることもあろうが、それにしても、公共の図書館である。書籍を見たり読んだり借りたり、あるいはコピーをとるぐらいのことである。いくら職員の対応が悪くても、何もあそこまで声を荒げなくてもよさそうに思われる。ごくふつうの人が、何故あれほど激昂してしまうのだろうか。
 最近、会社や企業の方からよく聞くのが、お客からの苦情への対応である。企業側に重大な過失があり、それを隠蔽しようとする場合は論外としても、その多くが、窓口や受付での言葉のやりとり、何気ない一言から不快感を受けたという内容だという。ほとんどが言葉の問題なので、企業側では、トラブルを避けるために受付の言葉使いやクレームへの対応の仕方をマニュアル化して防衛する。簡単に言えば、責任を認める言質(げんち)を与えることなく、ひたすら苦情を聞き、お客のガス抜きをすることである。苦情を言う方は、企業の姿勢を糾弾する正論を長々と展開したり、直接関係なくても日頃の不満を吐き出したことで大方はおさまるそうである。苦情を聞く側も言う側も、こうした事態を何かおかしいと感じる人は多い。
 お客と店員といっても、同じ人間同士である。少々の行き違いであれば、その場で話をすればある程度は互いに理解ができるはずである。お客にしても、はじめから争いごとを起こそうと思っているわけではなかろうから、なおかつ、ささいなきっかけで感情が暴発してしまうのは、日頃から小さな感情の齟齬(そご)を自分の中に押さえ込んで、それがストレスとなり、それが蓄積したまま生活を送っているからである。そんな精神状態で、自分が文句を言いやすい立場になったときに、一気に暴発してしまうのである。
 やはり、現代人は、自分の感情を出来るだけコントロールしつつも常にぎりぎりの状態で日常生活を送っていると言わざるを得ない。

◇この世は堪忍地(かんにんじ)
 ならぬ堪忍、するが堪忍、という言葉がある。堪忍とは、相手の自分に対する言葉や行為を完全に許して、それ以後は根に持たないことである。
 しかし、現代人は、ほんとうに堪忍しているのではない。心から相手を許し、きれいさっぱり忘れ去っているのではない。多くのことを我慢しつつ、結構それを根に持ったまま引きずって生きている。
 仏教で「堪忍」という言葉は、娑婆(しゃば)世界、即ちこの世のことを意味している。娑婆という言葉も「忍土(にんど)」と漢訳されるように、この世は苦難に満ちており、それを堪え忍ばなければならない世界であると考えられてきた。ことに、天台では、「堪忍地」と言い、菩薩の十階級の内の最初の段階に配当し、この階級では、心身の一切の苦悩を能(よ)く忍(しの)ぶことができ、それ故にまた歓喜地(かんぎじ)とも呼ばれている。
 しかるに、私たちは、この娑婆世界にあって自らの諸々の煩悩、三毒(さんどく)と言われる貪欲(とんよく)・瞋(いか)り・愚痴(ぐち)を大なり小なり忍受(にんじゅ)し、殺生(せっしょう)、偸盗(ちゅうとう)、邪淫(じゃいん)、妄語(もうご)、悪口(あっく)、両舌(りょうぜつ)などの「身三口四意三(しんさんくしいさん)の十の悪」の娑婆世界に生きている。
 だから、ほんとうに堪忍出来る人は、煩悩や三毒、十悪を完全に断ち切って、すでに菩薩の位に入った人で、およそ凡人には出来ない至難なことなのである。私たちに出来るのは、せいぜい大きな堪忍袋なり堪忍蔵(ぐら)をもって、その緒(お)が切れたり、扉が開かないようにするしかない。
 しかし、現代社会は、私たちの欲望がかつてないほど増大し、それに従って堪えなければならないことも増えてきたというのが実感である。自分の思いや不満、苦情をその場で解決してしまえば良いのだが、欧米人と異なり、私たち日本人は、その都度、言葉に出して当の相手、たとえば会社の上司や夫、妻に伝えるということが結構苦手である。仕事場や家庭でも、つい口に出さずに自分で呑み込んでしまう。現実は、理屈通りにいかない。かくして、私たちの堪忍袋は、常に満タンに近い状態となる。
 こうしたストレス社会への対処療法を商品化したのが、癒しとかヒーリング、リラクゼーションといったものである。こうした商売が流行るのも当たり前で、ますます繁盛するであろう。いわば適当にガス抜きするということで、あくまでも対処療法に過ぎない。根本的な処方箋ではない。
 ともかく、このまま一人一人の欲望が途方もなく増大していけば、その結果として自己と他者、人と人の関係がいっそう崩壊し、どんなに法律や制度を変えようとも、大人同士の問題だけでなく、学校のいじめ、子が親を殺したり、親が子を、あるいは夫が妻を、男性が交際中の女性を虐待するといった問題は、いっこうに無くならないであろう。

◇一衣帯水(いちいたいすい)の「発憤(はっぷん)」の国から
 中国晋代(しんだい)の郭璞(かくはく)(276~324年)の遊仙詩(ゆうせんし)に「六龍、安(な)んぞ頓(とど)む可(べ)き、運流(うんりゅう)して代謝(たいしゃ)する有り、川に臨みて年の邁(ゆ)くを哀しみ、心を撫(う)ちて独り悲托(ひた)するのみ」とある。
 この詩の六龍とは、太陽のことで、中国の神話では、太陽は車に乗り六頭の龍に引かせ羲和(ぎか)が御(ぎょ)したと言われている。「日の車はどうして止めることができようぞ、めぐり流れて時は絶えず移りゆく、川のほとりで昼夜をおかず流れる水に歳月を悲しんでは、私は憂いを払わんと胸うちながら、ただひとり声をあげてなくばかりである」といった意味である。
 人生は短い。この短い時間を娑婆世界で気持ちよく生きるにはどうすればよいのだろうか。かの大詩人・李白(りはく)(701~762年)も 「我を棄てて去る者は昨日の日にして留む可からず、我が心を乱す者は今日の日にして煩憂(はんゆう)多し」と詠んだ。自分を捨てて去った時間、過去(昨日)についてはもはやいかんともし難い。自分の心をかき乱す時間、現在(今日)は憂いにみちている。それは、刀を抜いて川の流れを切っても川は平気で流れ続け、酒を飲んで一時憂いを消してもまた憂いはいくらでも涌いてくる、と続く。そして、李白の出した結論は、「人生世に在りて意に称(かな)わざれば、明朝(みょうちょう)髪を散(さん)じて扁船(へんせん)に弄(ろう)せん」、つまり小舟をこいで世間から離脱してやろうというものであった。
 しかし、これは大詩人の李白にとっても理想であった。李白という人は、有り余る才能を持ちながら高位の官職に就くこともかなわず、その生涯をほとんど放浪の旅を送った。世間の自分への処遇、あるいは運命に対して大いに不満であった。この詩の真骨頂(しんこっちょう)は、不満のエネルギーを一気呵成(かせい)にはき出したところにあり、李白の面目躍如(やくじょ)たるものがある。
 李白の時代にしても現代にしても、この娑婆世界で仕事をし収入を得て、家族を持つ人であれば、そう簡単に世間を捨て去ることはできない。しかし、世間への、あるいは自分への不平不満は無くなることはない。せめて、この鬱屈(うっくつ)の矛先(ほこさき)を自分より弱い者や身近な者に向けることなく、他のものに向けられないだろうか。
 「春宵一刻値千金(しゅんしょういっこくあたいせんきん)」の詩で知られる蘇東坡(そとうば)(1036~1101年)は、生涯幾度も失脚の憂き目にあった。黄州(こうしゅう)(湖北省=こほくしょう)に流罪に処せられたときも、流罪地に至るや「好竹(こうちく)、山に連なり、筍(しゅん)の香(かんば)しきを覚(おぼ)ゆ」と詠んでいる。「すばらしい竹藪(たけやぶ)が近くの山々に広がり、もうタケノコの香りただよって来るみたいだ」(井波律子氏訳)。むしろ流罪地での生活を楽しんでさえいる。蘇東坡という人は、どんな逆境にあっても意気消沈することなく、そこに何らかの楽しみを発見し、余人に迷惑をかけることなく、李白と同様に自らの不遇をエネルギー源として大いなる詩文の世界へと転じた。
 もちろん、誰もが大詩人になれるわけではないが、中国の大詩人たちは、ひとしく世が乱れ、専横(せんおう)を極める君主、腐敗堕落した執政者、汚濁混乱の社会に対し、公憤(こうふん)を発して世を救わんとした「発憤」の人であった。自分の悩み、苦しみ、怒りを世の人々のための怒りへと昇華(しょうか)したのである。現代にあっても、人間の本当の怒り方を教えてくれる一衣帯水の国の詩人たちから学ぶべきことは、多々あるように思われる。
 わが天台寺門宗(じもんしゅう)の開祖、智証大師円珍和尚(ちしょうだいしえんちんかしょう)(814~891年)も「済世利人(さいせりにん)」(世を済(すく)い、人を利せよ)と弟子たちに戒(いまし)めておられるが、その真意も、宗門から一人でも多くの人材、ほんとうの「発憤」の人が出現することを期待してのことであった。

◇スミレのような人に
 ここで、図書館で激昂した人の話にもどると、この人は、おそらく普段はいたって温厚な人なのであろう。図書館という場所柄も当然わきまえておられる人で、よもや自分が感情を暴発させるとは自分でも思っておらず、それが不適切なことであることも理解しているであろう。他の人が同じことをすれば、やはり不快感を持つだろうし、その人に注意さえするかもしれない。
 現代社会は、そんなふつうの人でも感情を抑えられない場面が多い。その度に我慢していると、やがて怒りが溜まって、ささいなきっかけから暴発してしまうことになる。それも得てして身近な人や自分より弱い立場の人に矛先が向けられてしまう。
 こうした悲劇を避けるには、その都度、話し合って解決していくことであるが、これが口で言うほど簡単でない。やはり、根本的な処方箋としては、自らの欲望を少しでも抑え、世の不条理に遇っても、その怒りや鬱屈を逆にエネルギー源として、社会に対する公憤へと転化し、世のため人のために大いに発憤する道しかないように思われる。
 私たちは、つねに悩みや不安のなかで生きている。ましてや時の流れは、とどめようもなく過ぎ去っていく。この世が良いことばかりでないのは、当たり前のことであるが、人生の真実も、またこの当たり前のなかにある。私たちは、様々な欲求を実現するため外の世界で右往左往する。しかし、この求める心さえ変えることができれば、外の景色は一変するはずである。
 夏目漱石に「菫(すみれ)ほどな小さき人に生れたし」という俳句があるが、まさに日本中にスミレの花が一面に咲き乱れるようになれば、現代の日本も美しく変貌するに違いない。