呪術・まじないと現代社会
早稲田大学講師 正木 晃(まさき あきら)
(2003年『大法輪』4月号より抜粋)

 
 

◆信じる?信じない?


 今の日本で、呪術やまじないが効くと頭から信じる人は少数派であろう。かと言って、頭から否定する人もまた少数派であろう。おそらく大半の日本人は、呪術やまじないが効く可能性をほとんど信じてはいないが、全くのゼロでもないとみなしているのではないか。「ひょっとしたら効くかも」、あるいは「信じてはいないけれど、気にかかる」、これが本音にちがいない。
 考えてみれば、呪術とかまじないというから、話が妙におどろおどろしく迂遠になるのかもしれない。別の表現を用いれば、感触がかなり変わってくる。たとえば、祈願とかジンクスとか縁起かつぎとか・・・・・。
 具体的にいえば、初詣に出かけて何ごとの成就を願う行為も、自家用車に安全祈願のお札を貼る行為も、神社に合格祈願をする行為も、みな呪術やまじないである。宝くじを買うとき特定の番号を選んで買う行為も、結婚式や地鎮祭の日取りを慎重に選ぶ行為も、ことごとく呪術・まじないといっていい。
 極論を吐かせていただけば、人間の思考や行動はそのどこかに呪術やまじないの要素を含んでいる。呪術やまじないの対極にあるものといえば、合理的な思考、客観性をもち再現可能という意味における科学的な思考だが、そういう思考が常に人間の営みのすべてを貫いているわけではない。
 宗教はもとより、政治イデオロギーもその点はさして変わらない。少し前まで世界中を風靡していたマルクス主義と、その基礎にほかならない史的唯物論にしても、そうである。今になって振り返れば、現実に対する客観的な認識とそれに対処する唯一最高の方法という彼らの言い分は、いわば宣伝用のキャッチコピーにすぎなかった。
 彼らは「革命」とか「歴史的必然」とかいう、目もくらむような文言を唱えて、あたかもあらゆる難問が、これさえ奉ずれば一挙に雲散霧消するかのごとく人々に信じ込ませた。しかし、その実態は、願望や恣意がまかりとおるという意味において、呪術やまじないに近かった。よくもまあ、恥ずかしげもなく、「科学的」社会主義と称したものである。

◆『ハリー・ポッター』+『千と千尋の神隠し』

 そして近年、呪術やまじないに類する要素が、減るどころかますます多くなってきているような気がしてならない。
 そういえば、高度成長も末期のころ、「不確実性の時代」というキャッチコピーが流行した。その背景には、科学にせよ政治にせよ、かつて客観性や正義を誇っていたもののイカガワシサに気づいた人々の、まさに不信感があった。バブルがはじけ、経済成長が昔日の夢と化した今、その不信感は「近現代」という時代そのものへの不信感に増殖したように見える。
 『ハリー・ポッター』や『千と千尋の神隠し』が大ヒットしたのも、そういう時流と無縁ではない。
 『ハリー・ポッター』シリーズの場合、たとえばシリーズ第四作にあたる『炎のゴブレット』の初版はなんと二五〇万部以上という。不況不況といわれて久しい出版界の現状を考えれば、とてつもない数字である。
 出版事情に詳しい方から聞いたところによれば、主な購入層は小学校高学年・中学生・高校生と二〇歳代の女性だそうである。関連書籍の出版も凄まじく、二桁はおろか、三桁におよぶという話もある。本を読まないと指摘され、活字文化とは無縁と揶揄される若年層にバカ受けしている。
 『ハリー・ポッター』が舶来の大ヒットとすれば、国産の大ヒットは『千と千尋の神隠し』ということになる。このアニメも空前の興業収益をあげた。しかも、ドイツで最高の映画賞とされる金熊賞を受賞し、アメリカでもきわめて高い評価を得ている。
 なぜ、こんなに『ハリー・ポッター』や『千と千尋の神隠し』がウケルのか。それを考えるには、この両者の共通する要素を見つけ出さなければならない。まず思いつく答えはファンタジーである。
 ファンタジーが支持される理由というと、識者と称する人々から必ずあげられるのが現実からの逃避。若者にとって過酷な、というより退屈で窮屈でつまらない現実から、幻想的で無責任なファンタジーの世界に逃避するというわけだ。たしかに、私もそれは否定しない。
 ただし、それがすべてではない。もう少し深いところで、なにかがうごめいているような気がする。その謎を解く鍵はおそらく、この二つの作品がともに魔法の世界を描いたファンタジーだというところにある。

◆魔法

 魔法をきちんと定義することは難しい。しかし、人間もまた自然の一部であることを前提として、自然との関わりが深く、その自然を操作するために呪術やまじないと切っても切れない関係にある点は認められていいだろう。むろん、無知や迷信もたくさん含まれていて、否定されなければならない点もたくさんある。
 紙幅のつごうゆえに面倒な論証を省いていえば、私たちがその恩恵に浴している近代科学は魔法から生まれた。いいかえれば、神秘への熾烈な関心がはからずも合理主義を生み出したのである。この見解は、科学史の専門家のあいだでは、いまや定説となっている。
 事実、近代天文学の成立に最も寄与したケプラーは占星術師でもあったし、近代物理学に最も貢献したニュートンは錬金術師でもあった。彼らはともに、私たちの眼から見れば、無知や迷信にまみれた魔法としか思えない地平から出発して、いわゆる科学的な法則性を発見し、結果的に魔法を葬り去る役割を演じてしまった。  
 こうして誕生した近代科学は、私たちの日常生活を質量ともに飛躍的に高めてくれた。その恩恵は計り知れない。数百万年におよぶ人類史において、近代科学ほど人類そのものと地球環境に、劇的かつ短時間の変容をもたらしたものはない。
 しかし、その代償もひじょうに大きい。魔法が君臨していた時代にはあれほど親密な関係にあった自然と人間が、ほとんど離婚状態と化してしまった。地球大の環境破壊や戦争の惨禍はいうまでもない。現代日本で不登校・閉じこもり・社会的引きこもりが百二十万人にも達し、欝が蔓延する状況を前にすれば、若者たちが近代科学に拒否反応を示して、魔法に関心を寄せ、呪術やまじないに興味をいだくのも無理からぬところがある。
 いずれにせよ、呪術やまじないなど、近代科学によって長らく封印されてきたその領域に、良くも悪くも憧れる心情が、『ハリー・ポッター』や『千と千尋の神隠し』人気の裏に見え隠れする。

◆精神医学

 呪術やまじないといえば、精神医学にもその傾向は否めない。その最も極端な事例が、日本で人気の高いユングである。
 かつてイギリスの評論家として高名なコリン・ウィルソンが、ユングを評して「地下の大王」と呼んだとおり、ユング心理学はオカルト的な要素に満ちている。したがって、欧米の学問世界では正統な医学とはみなされず、怪しげなオカルトに分類されている。じつはユングがこれほど高い評価を得ているのは、世界中を見わたしても、ほとんど日本くらいしかない。この事実はいったい何を意味するのであろうか。
 もっとも、ユングのみならず、精神医学には呪術やまじないに類する要素が数多く見出せる。いや、それは精神医学に限らない。一般医療においても、プラシーボ効果(偽薬効果)といって、効くはずがない薬でも、医者が患者に効くと信じ込ませることができれば、難病に改善が見られることが少なからずある。
 もちろん、21世紀は「心と脳の時代」とよくいわれるように、近年の脳研究はすさまじいスピードで進んでいる。その結果、心とは脳の働きであり、もっときつくいえば心が脳に局在していることは否定しがたくなってきた。向精神薬を飲めばガラッと気分が変わり、適量を過ぎれば幻覚や幻聴を生じるのも、脳の優位性をものがたる。さらには左側頭葉の特定の部位に電気刺激をあたえれば、強烈な宗教的エクスタシーが生じて、随喜の涙が滂沱とあふれることまでわかっているのである。
 こういう事実は、至って唯物的な領域の話である。長年苦しみぬいてきた鬱症状が、セロトニン系の向精神薬を処方され、たった一週間服用しただけで嘘のように消えたという話は、この唯物的な領域の勝利なのであろう。
 しかし、その一方で、それでも鬱症状が消えず、とどのつまり霊能者のところでお祓いをしてもらって良くなったとか、手かざしなどの霊的な治療をしてもらって良くなったという話も耳にする。
 このあたりが、人間という生命体のふしぎな点である。プラシーボ効果もそうだが、信じるということの力をバカにしてはいけないのであろう。単純な唯物論では、物理的な存在が意識を決定すると考えるが、少なくとも人間の脳では、その逆も大いにあるからだ。つまり、意識が脳に作用して、結果的に物理現象を引き起こす。この問題に関しては、今後の大脳生理学の進展によって解明される可能性が高いから、それに期待しよう。

◆良質の宗教を

 いささか心配なのは、昨今の若者たちがあんがい簡単に呪術やまじないにのめり込んでしまう危険性である。唯物論一辺倒も困るが、かと言って呪術やまじないを無批判に受け入れてしまうのも困る。
 そこで求められてくるのが、良質の宗教である。呪術やまじないを人間性の奥深いところに通じる智恵の一つと正しく認定したうえで、それに過剰に頼らず、より高い心身の次元が存在することを、わかりやすく教えてくれる宗教が絶対に必要なのである。
 本来なら仏教にこそ、その資格があると思うのだが、現行の日本仏教を見ていると、残念ながら、断言しかねる。まずは、日本仏教を構造改革することから始めなければならないかもしれない。