| 鎌倉仏教とは |
| 作家 童門 冬二(どうもん・ふゆじ) |
| (2004年『大法輪』4月号より抜粋) |
| ─その時代性と名僧出現の意味─ まるで突然変異のように、鎌倉仏教が盛んに興ったのは、なんといっても当時の時代状況が原因だ。ひとつは、 「末法(まっぽう)到来」 の思想が、かなりいきわたったためだ。とくに、長引く戦乱・自然災害・飢饉・疫病の流行などがつづいて、とくに一般庶民は、 「いよいよこの世も終わりだ」 という感を深めた。しかし、本来こういう民を救うべき僧は、権力者におもねり、権力者個人の息災や延命を、祈りやまじないの類いを駆使することによってあけくれていた。真の宗教心などかけらもない。さらに、政治権力と癒着して、世俗的な争いに沈湎(ちんめん)していた。真に苦しむ者の救済など、まったく頭の中になかったのである。そのために、 「こんなことでは宗教の意義がない」 とまじめに信仰を考える僧たちは、都を離れ諸国を歩きまわって、苦しむ民の救済方法を求めていた。こういう流浪する宗教者を、当時“聖(ひじり)”と呼んだ。聖たちは諸国を流浪しているうちに、 「民衆の生活実態とその苦悩」 を自分のこととして体感した。都にいたときは考えもしないようなことが地方で起っている。そして、それを避ける術(すべ)もなく必死になって取組み、なんとかしてそこから逃れたいとまるでアリ地獄の底で喘(あえぐ)ぐような人びとの姿を聖たちはまざまざとみた。聖たちは、 「これこそ、まさにこの世の地獄だ」 と感じた。そうなるとかつて過ごしてきた、大寺でのくらしや、大寺の管理者たちが貴族と結んでつづけている安逸な生活が、果たしてホトケの心にかなうものかどうかと大きな疑問を持った。地方を歩いている聖たちのこの実感は、やがて空間的に結合し、 「宗教はいまのままであってはならない」 というひとつの意志に凝縮していった。つまり聖たちは、諸国を歩くことによって、 「末法が、現実にどのようにこの国にあらわれているか」 ということを、苦悩の底で喘ぐ民衆のくらしぶりによって知ったのである。そうなると、 ●現実に苦しんでいる民衆をどのようにして救うか ●現在の末世・末法からどのようにして抜け出るか ●末法から抜け出るための心のよりどころをどこにおくか などということが緊急課題になってきた。死に面した貴族の中には、自分の指とホトケの指とを糸で結んで、極楽に導かれたいなどと夢想する者もいた。いま考えてみれば、あんなのは宗教でもなんでもない。貴族の子供じみた夢であり、なんの痛みも感じないロマンにすぎない。その手伝いを僧たちは臆面もなくおこなっている。 「あの状況を叩きこわさなければだめだ」 聖たちはいっせいにそう思った。そして、 「そのためには、政治の中心地である鎌倉にいって、新しい宗教を興すことだ」 と考えた。しかし、鎌倉に興った新興宗教の多くは、必ずしもこの放浪生活の果てに鎌倉にたどり着いた聖たちが興したものではない。むしろ、比叡山で正当な修行をつづけていた高僧たちによって興った。さらに、隣国でモンゴル(元)にほろぼされて、日本に亡命してきた彼の国の高僧たちが興した。地方をめぐる聖たちがキャッチした、日本全国の下積みの民衆たちのいわば、 「心の安心を求めるニーズ(需要・希求)」 は、比叡山の修行僧たちにも正確に伝わっていたのである。修行僧たちは、比叡山の生活をみずから振り返って、 「これでは、真の悟りを開くことはできない。ホトケに近づくことはできない」 と感じていた。 当時、比叡山で修行する僧も、あるいは諸国を流浪する聖たちも共通して感じたのは、 「まじめな民衆の罪障意識」 である。罪障意識というのは、 「自身を罪人と思い、なんらかの形で償いをしたいと願っていること」 である。民衆の罪障意識はシンプルだ。自分の犯した罪の淵源を、 「だれだれのためだ。世の中が悪いからだ」 などと他人のせいや社会のせいにはしない。 「すべて自分が悪いからだ」 と、自身のうちにひそむ悪所を悲しむ。そして、 「この罪の意識から逃れて、なんとかして救われたい」 と、極楽を求めたり、そのために地蔵やホトケに祈ったりする。その素朴な姿は、聖や修行僧の胸を打った。聖や修行僧が感じたのは、 「純粋な民衆が、罪障意識を持つにいたった源は、われわれが伝えた仏教にあるのではないか」 と思う。民衆はホトケの存在を信じるからこそ、自分を罪人だと思うのだ。にもかかわらず、これらの民衆にはまだ、 「救済の道」 が開かれていない。良心的な修行僧や聖たちは、この現象に対し、 「われわれにも責任がある」 と感じた。そうであれば、当然、 「かれらを救わなければならない。また救うのがわれわれの責務だ」 と考える。これが鎌倉仏教が興隆する大きな動機になる。 |
||
![]() |