| 親鸞の生涯 |
| 東京・報恩寺住職 坂東 性純(ばんどう しょうじゅん) |
| (2003年『大法輪』5月号より抜粋) |
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親鸞聖人は、現在では浄土真宗の開祖とされていますが、宗派を開こうという意図は一度ももたれなかったようです。自分が出遇(であ)ったお師匠さん、法然上人の教えを自分も喜び、その喜びを縁のある人に伝える、それを一生の仕事とされたのが親鸞聖人でした。その教えに感動した人たちが、浄土真宗という流れを自然に形成して親鸞という人を開祖に仰いだ、そういうことだと思います。
親鸞聖人は日本の仏教史上では坊さんでありながら、家庭をもって在家人として一生、法を聞き続けたというお方で、その流れを汲む浄土真宗は家庭をもつ人々のための宗派というふうになっています。その点が最近まで出家主義をずっと貫いてこられた浄土真宗以外の宗派とは、大いに違うところです。 ◇出家、比叡山での修行の果てに 親鸞聖人は、藤原氏の流れを汲む日野氏という貴族の末流に生まれて、家庭の事情で九歳の時に出家。得度の時の戒師は青蓮院(しょうれんいん)の慈円僧正(じえんそうじょう)であったと言われております。 得度して、比叡山で天台僧として修行されます。しかし、なかなか安心が得られずに二十年ほど経ったころ、四十歳先輩に当たる法然という人が比叡山を降りて、京都の吉水で僧俗の区別無しに救われるという教えを説き、念仏を中心とする新しい宗派を立てたということを聞き及びます。 そこで親鸞は、聖徳太子の創建といわれる京都の六角堂に百日参籠(さんろう)し、九十五日目の暁に観世音菩薩の夢の告げを受けて、法然上人のところへ参ろうと決心するのです。これが聖人の生涯で最初の大きな転換点であったと思います。あの夢のお告げは、在家のままでも救われるという法然上人の教えが確かであるということの確信を若き親鸞に与えたようです。 親鸞聖人が奥さんを迎えられることに関しては、法然上人が勧められたという伝説も生まれましたが、事実ははっきりしません。流罪になられたころから家庭生活に入られて、亡くなるまで家庭人として過ごされるのです。 ◇法然上人の教え一筋に 親鸞聖人ほど幸せな坊さんは無かったと思います。なぜかと言いますと、お師匠さんが説いていることに従ったなら、念仏を称えたら、最後はこういう人間になれるという結果をいつも、目の前に見ていたからです。まったく疑いを挟む余地がない。 たとえば念仏がひとたび法然上人の口からもれ出ると、とても有難い響きがして周りじゅうを包んでしまう。悩みをかかえた老若男女、上下貴賎を問わず、みんな法然上人の説法を聞いて、非常に感動して喜びにあふれて帰って行く。そんな姿を毎日、六年間、見ていたわけです。だから二十九歳で親鸞は出発できたのです。 しかし、それに対して目の前の方が立派であればあるほど、自分のみじめさ、小ささが痛感された。法然上人の真似をして念仏を自分が称えてみても全然、有難くも何ともない。これはどうしてだろうという大きな疑問が出発点において与えられた。 家永三郎先生は、「念仏は親鸞にとって躓(つまず)きの石である」と言われました。法然上人の教えを聞いて念仏の教えを受け入れたならば、もう親鸞聖人までくれば、念仏なんか捨ててしまってもよかったんじゃないか。なぜ念仏にこだわったかと。しかし確かに「躓きの石」であったからこそ、その大きな公案、深刻な疑問があればこそ、一生涯念仏とは何かを求め続けたのだと思います。 ◇『教行信証』 その疑問が心の奥底に残って、お聖教(しょうぎょう)を開いても、インド・中国・日本の多くの方々の念仏に関する証言に出遇うたびに、ショックを受けた。 この人たちは、こんなに感動して喜び、念仏に生涯を捧げた。のみならず、多くの人々を念仏の教え一つで教え導いた。「どうしてだろう」、「こんな早い時期に念仏の教えに出遇って、こういう美しい言葉を残している、素晴らしい、わしは知らなかった」というので、夢中になって書き写す。そのメモが膨大な量にたまった。それを項目ごとに分類してなったのが後の『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』六巻です。 だから『教行信証』の各巻の初めには、「愚禿(ぐとく)親鸞集」となっています。これは編集者だということです。著者ではない。「お念仏には、こんな深い意味があって、多くの人々を深く感動させたんですよ」「これは私に新しい視野を開いてくれた尊い言葉なんです」と言って人々に、念仏を受け取って生きた人たちの喜びの言葉を伝えようとしたのが『教行信証』だと思います。その草稿本は五十二歳の時、一応完成します。 ◇越後へ流罪、そして関東へ 多くの人々から慕われた法然上人は、南都北嶺、奈良と比叡山の旧仏教界から「念仏さえ称えれば救われるというなら、自分たちがやっていることは無駄だというのか」と、非常に厳しい批判を浴びたあげく流罪ということになりました。法然上人は四国へ、親鸞聖人は越後へと流されます。聖人は三十五歳でした。 この背景には、女官が法然の弟子の誘いで出家したことに対する後鳥羽(ごとば)上皇の個人的な怒りがあり、裁判にもかけずに、死刑や流罪が決められてしまったのです。これに対して親鸞聖人は『教行信証』の後序に「主上臣下、法に背(そむ)き義に違(い)し」と書いて、正義が失われたことを慨嘆されています。 その後流罪は許されますが、京都には帰らず、関東へ赴きます。 なぜ関東へ行かれたかというと、奥さんである恵信尼(えしんに)のお父さんが九条家の在地管理人だった関係で、関東の九条家の荘園を転々としたと言われています。法然上人も四国へ流された時、九条家の庇護があって、その領地に行かれたということがありました。 またある方々は、親鸞聖人は法然さんのお弟子さんの先輩を訪ね歩いて、お世話になったとも言われます。確かに当時、関東には法然上人のお弟子さんが幾人もいて、中でも栃木の宇都宮頼綱(よりつな)は慈円や藤原定家などとつながりのある、そうそうたる歌人であり文化人でした。だから、そういう所へ行かれないはずはなかったでしょう。 ◇三願転入、絶対他力のハタラキ 親鸞聖人の信仰の歩みについて三つの大きな段階、三願転入(さんがんてんにゅう)ということが、文章として『教行信証』の中に詳しく出ています。 三願というのは阿弥陀如来の前身である法蔵菩薩が誓ったという四十八願の内の第十八・十九・二十願ですが、第十九願は道徳的な善いことをし、いろんな行をして助かるという道が十九願です。これが一般仏教の道です。親鸞聖人にとっては比叡山時代の様々な修行の道です。 第二十願はあれこれやってみたけれども、ダメだったと言って、あらゆる行から見離されて念仏に頼る。しかしその念仏は自力の念仏で、長い時間、大きな声で、人より回数を多く称えた方が効果があるだろうという気持が混じり、また念仏を手段・方法の一つとして見ている。 この二十願の境地を支える自力のはからいの深い自覚が第十八願、それが本当の回心(えしん)、絶対他力の回心です。 聖人は四十二歳の時、関東への途上、佐貫(さぬき)という所で、苦悩の衆生を救おうと、三部経を千部読誦(どくじゅ)しようとしたが、四、五日でやめてしまう。なぜか。絶対他力の念仏に頼らず、自力で衆生を救えると思う心、二十願の残滓(ざんし)があったことが分かって、愕然としたのです。 仏さましか衆生を救うことができないのに、わしが救ってやろうという思いが残っていた。これは浅ましい限りであったと。この回心が、二十願から十八願へ徹底したところだと思います。 そういう翻(ひるがえ)りがあった人が尽くす自力の行は全部、他力のハタラキを帯びた行になります。その行は不思議なハタラキを及ぼします。 たとえば嫉妬(しっと)のあまり親鸞聖人を殺そうとしてやって来た板敷山(いたじきやま)の山伏弁円(べんねん)を回心(えしん)せしめたものは、聖人の身から発散する仏の雰囲気、それが教化したのです。その時の聖人は「あいつを教えてやろう、導いてやろう、救ってやろう」という気持ちは全然もたなかった。教える者なしに相手が変わってしまった。 関東の地で草庵にこもっていても多くの人が門前市をなしたと言われています。あれはなぜかというと、教えないで教えておられたからです。ちょっと会って話しても、悩みをかかえて来た人の心が非常に明るくなった、軽くなった。これは親鸞聖人の人格から放射されていた念仏のかもし出す雰囲気が、つまり仏さんが、まわりの人を教え導いていたからでしょう。 佐貫での自我に死にきった体験、その体験の持主がすることは、すべて人を救うんです。自我が徹底的にゼロに近くなればなるほど、そういうすごい力が発揮されるようです。 拙寺の応接間に鈴木大拙先生の筆になる「Man's extremity is God's opportunity」という額がかかっています。「人間の行き詰まりが神様のお出ましになる機会である」という意味で、西洋の格言ですが、これはあらゆる宗教のエッセンスです。 また親鸞聖人は説く人ではなくて、聞く人だったと思います。縁がある所へ出掛けて行って、じっと聞いてあげる。八割は聞き手で、自分の思いを二割話した。それくらいじゃなかったかと思うのです。それが強大な教化力を発揮したのでしょう。 ◇京都での晩年 親鸞聖人は還暦過ぎに京都へ帰られました。『教行信証』の完成、推敲、著作のためと一般に言われます。たくさんの挙げられる理由の中で、これが最大の意味をもっているということは確かでしょうが、それに匹敵する重い理由に、私は恩師法然上人のお徳の顕彰と、聖徳太子への報恩感謝の形を残したい、ということがあったと思います。 聖徳太子に対する報恩の気持は和讃(わさん)で表現しました。約五百首作った和讃の内、二百首は太子がテーマです。和讃の製作は中心が太子への報恩感謝の表現でした。 法然上人に対しては『西方指南抄(さいほうしなんしょう)』です。『教行信証』と同じくらいのボリュウムがあるその厚い中味は、親鸞聖人が集録した法然上人の言行録です。教えの記録、あるいはその教えが多くの人々にどういう影響を及ぼしたかの証言です。法然上人の説法を聴聞した人たちが、一人でも多く残っている間に、それらを聞き、形に残したいという思いが、帰洛を促したのではないでしょうか。 ですから都では弟さんのお寺にひっそりと籠もっていたわけではなく、昔の友達やいろんな人を訪ねたり、八方手を尽くして法然上人の言行録の資料を集めておられたと思います。若かりし時に集めたものも含めて、それらを二十八章に分け、八十四、五歳の時に書写しています。 その間に時々、関東のお弟子さんが訪ねてこられた。『歎異抄』の中に「各々(おのおの)十余カ国の境を越えて」とありますように。 七十六歳の時、綿密な構想の下に『浄土和讃』『高僧和讃』ができあがります。八十三歳に著された『愚禿鈔(ぐとくしょう)』は、上下巻の冒頭に「賢者の信を聞きて、愚禿が心を顕す。賢者の信は、内は賢にして外は愚なり。愚禿が心は、内は愚にして外は賢なり」とあります。それは法然上人に照らされた私が、いかに小さいか、愚か者にすぎないか、私は阿弥陀さまの教えを聞くばかり、という聖人の生涯を貫く宗教的な姿勢が表わされています。 八十四歳の時に長男を義絶せねばならないという事件が起こりました。そして自己のいたらなさ、罪深さといったような深刻な、晩年の最大の精神的な苦悶に陥り、そして心の中からあふれ出て来た法の喜びと罪深さの懺悔を綴ったのが『正像末和讃(しょうぞうまつわさん)』です。 「自然法爾(じねんほうに)」の法語は、八十六歳の聖人が関東からやって来た弟子の顕智(けんち)に説いたもので、はからいのない境地を示しています。これは何もしないことではなく、よしあしのはからいに縛(しば)られないアットホームな心境のことです。それは、すべておまかせ、人の側ではからいを用いないという道元禅師の『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』「生死(しょうじ)」の巻の内容と本当にピタリの照合ぶりで驚きます。 ともあれ、親鸞聖人は一二六二年、九十歳で亡くなりますが、その生涯は、若き日に法然上人という方に出遇って、念仏の教えに導かれ続けた幸運な一生だったと思います。常に仏の世界と心を通わせつつ娑婆を生きよ――この教えに生きた生涯でした。 親鸞聖人年譜
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