| 空海の言いたかったこと |
| 真言宗智山派管長 宮坂 宥勝(みやさか ゆうしょう) |
| (2004年『大法輪』5月号より抜粋) |
| 空海密教 万能の天才空海は、普遍的多元主義の密教を説いた。その眼差(まなざし)は複眼的である。そこには曼荼羅の世界が無限に展開している。 まさしく曼荼羅の人は、空海の存在それ自体であるといってよいであろう。 その空海が最も言いたかったことは何かという問い掛けは、はなはだむずかしいといわなければならない。それは一つには密教とは何かということが常に前提となっているからである。 筆者は空海の真言密教を、とくに空海密教とよぶことにしている。 歴史的にみると、インド大乗仏教が最も発展した段階すなわち紀元六世紀頃より体系化された密教が組織的に成立した。したがって、密教は釈尊の初期仏教から部派仏教、そして大乗仏教とくに華厳(けごん)、般若(はんにゃ)の諸経典、唯識(ゆいしき)・中観(ちゅうがん)の二大哲学学派の仏教哲学を基礎としている。 『大日経』の訳者として知られる善無畏(ぜんむい)(六三七―七三五)は、密教を「横には一切の仏教を統合する」(横統一切仏教)といった。 この綜合仏教という視点からすれば、空海密教は大乗仏教のみならず全仏教の根本的立場に通底しているといってよいであろう。 以上を踏まえながら、筆者は、(一)人間存在、(二)世界観(もしくは宇宙観)の問題を取りあげて空海密教にアプローチすることを試みたい。 成仏と衆生救済を求めて 唐から帰国した空海は大同元年(八〇六)十月二十二日と記(しるし)した『請来(しょうらい)目録』を判官高階真人遠成(はんがんたかしなのまひととうなり)に托した。この年十二月、遠成は上京し平城帝(へいぜいてい)に帰朝報告したとき、この『請来目録』を献上している。目録には最初に上奏文を添えてある。その中に、次のようにある。 「この法(=真言密教)はすなはち諸仏の肝心(かんじん)、成仏(じょうぶつ)の径路(けいろ)なり。国においては城郭(じょうかく)たり。人においては膏腴(こうゆ)たり」と。 *膏腴。地味がよく肥えていること。すなわち人びとのためになり利益をもたらすこと。 これを要するに、真言密教は(一)即身成仏、(二)鎮国安民の教えとその実践をめざすものだ、というのである。 (一)は現世でこの肉身のままで宗教的な至高の自覚を得ること、(二)は国が乱れないように治め、人心を安らかにすること、である。そして、これは大乗仏教の根幹である自覚覚他(じかくかくた=自らの覚りを実現するとともに他を覚りの世界に導くこと)、もしくは自利利他(じりりた=自らを利し他を利すること)にほかならない。 『請来目録』の巻尾にも「釈尊の教えは広大無辺であるが、これを一口でいえば(自利利他の)二利である」と説く。 同じく目録には空海の二人の恩師の遺言を記(しる)す。空海の密教の恩師恵果(けいか=七四六―八〇五)は「早く郷国に帰りてもって国家に奉(たてまつ)り、天下に流布(るふ)して蒼生(そうせい=人びと)の福を増せ。しかればすなはち四海泰(やす)く、万民楽しまん云々(うんぬん)」と。 もう一人は西北インド出身でサンスクリット語やインドの諸学問を学んだ般若(はんにゃ)三蔵の遺言である。「伏(ふ)して願はくは縁をかの国(=日本)に結んで元々(げんげん=人びと)を抜済(ばっさい)せんことを」と。 三蔵は全インドを遍歴して中国(唐)までも来た。あなたの国へもゆきたいが、すでに老齢でかなわないからと空海に伝え、その代りに『大方広仏華厳経』四十巻、『大乗理趣六波羅蜜多経(ろくはらみつきょう)』十巻、『守護国界主経(しゅごこっかいしゅきょう)』、サンスクリット原典三本などを贈った。 いずれにしても、ここで注目すべきは二人とも異口同音に密教を日本に伝えて人びとの福を増し、もしくは人びとを救済するように、といっていることである。 弘仁七年(八一六)七月、空海は四十三歳にして高野山の開創に着手する。その目的は二つある。一つは国家(鎮国安民)のため、一つは修禅の一院を建立し、「国の宝、民の梁(はし=橋)」になる人材を養成するためであった。 ここに、さきの二人の恩師の遺言が開創の理念として明確に打ち出されているといえよう。 人権を超える人間の根元的意義 空海の主著『秘密曼荼羅十住心論(ひみつまんだらじゅうじゅうしんろん)』には最後に「秘密荘厳住心(ひみつしょうごんじゅうろん)」を説く。われわれの心の究極は何かということである。秘密荘厳住心とは、けっきょく、「自心の源底を覚知し、実の如く自身の数量を証悟する」ことである。 そして、これはそれぞれ胎蔵(たいぞう)曼荼羅と金剛界曼荼羅の世界である、と説く。このように曼荼羅の世界は自分自身の心と体とに存在する。無慮無数の仏菩薩(ぶつぼさつ)などの諸尊の集合図として表現される曼荼羅。それは絶対の宗教的実在である法身(ほっしん)大日如来が諸尊のすがたをとって無限に展開している。もちろん大日は全智なるもの(一切智者)である。そして、この宗教的実在は人間存在の心身そのものとして自覚されるのでなければならない。それは人間存在を超越し、かつ人間存在に内在するものなのである(如来秘密と衆生自秘)。 一般の大乗仏教(顕教=けんぎょう)では仏性(ぶっしょう)論を説くだけにとどまっている。仏性(buddhata buddhatva )は覚りを得る可能性のことであり、単に覚りを得たもの(=仏)をやどしているという意味である。だが、密教は仏性論を一歩すすめて成仏論を説く。成仏(adhisambodhi, 現等覚、成正覚)はわが内なる仏を開顕すること、成仏を実現することである。この点を正面きって打ち出したのが、空海の「即身成仏」であった。 今日、われわれが至高にして絶対なるものとする人権は、自由と平等を基本原理とする。そして、それは人が生まれながらにして持っている権利だとされる。そして個人が一定の利益を主張し、それを享受することを法律が賦与している。いずれにせよ、人権は人間の権利であり利益なのである。だから、逸脱すれば自由は放縦に転化し平等は個別尊重を無視した、のっぺら棒な悪平等に堕すことをわれわれは十分に自誡する必要がある。 こうした人権より遙かに根源的な人間存在の絶対的な保障が成仏である。仏は他に存するのではなく、「わが内なる仏」であることを人間の至高なる絶対的自覚とすること。この崇高な宗教的理念は何ものにも替えがたく、人間存在の尊厳性と「いのち」あるものの「いのち」への畏敬の念を抱かせる。再言するが、それは個人が一定の利益を主張し、それを享受するのを法的に賦与している「人権」の観念とは異次元のものである。仏はあらゆる智慧の中の智慧(一切智々)すなわち絶対智としての自覚の当体そのものである。この自覚はいわく言い難いが、唯一なる「いのち」そのものの確証といってよい。 それはもちろん、個人にとっての一定の利益、つまり利害損得でもなければ、法的に外部から賦与されているものでもない。 このような人間存在の究極性、根源性は唯一絶対の神のみの存在を説く一神教の諸宗教とは全く異なる。筆者はこれを宗教学でいう多神教とはいわず、一神教の啓示宗教に対して、自覚宗教と命名している。 空海のエコロジー思想 空海密教にはディープ・エコロジーの思想が散りばめられている。たとえば、「草木すら成仏するのだから、人びとがどうして成仏しないことがあろうか」(『吽字義(うんじぎ)』)、あるいは「永遠に変らない大日の光によって、人びとを救済したまえ。地・水・火・風・空・識という粗大な原質より構成されている人びと、否(いな)、宇宙存在、(中略)空飛ぶ鳥、地にもぐる虫、水を泳ぐ魚、林に遊ぶ動物、すべて生きとし生けるもの、ことごとくのものによってわがいのちは生かされている。だから、あらゆるもの、あらゆる存在はともに覚りの世界に入るであろう」(『性霊集補闕(ほけつ)抄』巻第八、「高野山万灯会の願文」)と。 草木も成仏するという「草木成仏」は、のちには「草木国土悉皆成仏(そうもくこくどしっかいじょうぶつ)」(草木も国土も悉く皆成仏する)という命題で表わすようになる。 このような万物の生命の一体観は、人間が被造物として劣位にある自然を自由に支配したり破壊し改変する権利があると説く一神教とは違い、極めてコスミカル(宇宙論的)である。 「仏(=大日)のはたらきは国土にあまねく、 宇宙空間は荘厳な浄土をつくっている。 山は筆となり大海は墨の池である。 天地宇宙は経典の真理に満ちた箱である。(中略) 大宇宙も歩き廻るのにはせまく、 河や海の水もひと呑みするに足りない。 寿命は始めもなければ終りもなく、 生きる年に限りなどあろうか。 その光はこの全宇宙に満ちわたっている。」 (『性霊集』巻第一、「山に遊んで仙を慕ふ」並びに序) これは宇宙生命を歌った大叙事詩である。 高野山に修禅の一院を建立するために、この山を開創した契機は、空海が少年の日に、偶然、この土地を発見したことにある。そして、ここを入定(にゅうじょう)の聖地に定めた。入定は永遠の宗教的瞑想に入ることを意味する。 承和二年(八三五)三月十五日の『遺告(ゆいごう)』によると、天長九年(八三二)十一月十二日よりすべての穀類を断ち入定の準備をととのえた。そして「吾れ永く山に帰らん」と言い残して、承和二年三月二十一日寅の尅=こく(午前四時頃)に入定することを予告する。それは空海が万物の成仏を説いた、その万物が存在する自然への永劫回帰、すなわち永遠の成仏であった。 * * * 空海は「仏身すなわちこれ衆生身(生きとし生けるものの身体)、衆生身すなわちこれ仏身である。不同にして同、不異にして異である」(『即身成仏義』)と。生きとし生けるもの、ありとしあらゆるものに仏身をみた空海密教は汎神論(pan-theism)ならざる汎仏論(pan-buddhism)である。それは端的にいって曼荼羅世界として表現され、諸宗教の共存同和の理想型でもある。 鎮国安民について具体例をあげなかった。が、アメリカの世界的な科学史学者G・サートンは九世紀の人類の歴史における最大の科学者として空海を挙げる。その理由は、わが国最大の人工貯水池である満濃池(まんのういけ)の築堤と最初の庶民学校である綜藝種智院(しゅげいしゅちいん)の創設にある。この二つの事蹟を指摘しただけで十分であろう。 |
||
![]() |