神道と陰陽道
相模女子大学教授  志村 有弘(しむら・くにひろ)
(2002年『大法輪』6月号より抜粋)

 
   
 
安倍家と陰陽道

 安倍晴明(あべの・せいめい)が生きた平安時代、官職の中に神祇(じんぎ)官と陰陽寮(おんみょうりょう)があった。そこの職員はどちらもお祓いや占卜(せんぼく)などを執り行なうのだが、陰陽寮に所属する陰陽師は密教僧に近い色彩を有していたようである。今、人気の陰陽師安倍晴明は、賀茂忠行(ただゆき)・保憲(やすのり)父子に師事し、保憲はわが子光栄(みつよし)に暦道、晴明に天文道を譲り与えた。そのため、陰陽道は賀茂家と安倍家の二流に分かれてゆくことになる。しかも、時代が経つごとに、安倍家が公卿(くぎょう)であるから、賀茂家は安倍家の下に立つという皮肉な事態となる。
 陰陽師は占いや相地(土地の相を見る)の他に人に憑依(ひょうい)した霊を取り除く除霊、貴人の道中の安全を祈って邪気祓いを行う返閇(へんばい)、人間の寿命を延ばす泰山府君の祭、箱に入っている物を透視する覆物(ふくもつ)といった術を行う。特に安倍家は、泰山府君(たいざんふくん)の祭を得意とした。大安・仏滅・赤口・先勝・先負・友引ということがある。友引に葬式は取り行わないし、仏滅に結婚式を挙げる人はいない。これらは今日に生きている陰陽道である。
 悪霊に呪われたとき、それに立ち向かうのが陰陽師であり、密教僧である。但し、相手の霊がどのようなものであるかによって、陰陽師が対処するか、密教僧が対処するか、その選択が難しかったようである。
 宇治関白頼通が若き日、具平(ともひら)親王の霊にとりつかれた事件があった。長和四年(一○一五)十二月のことである。三条天皇は藤原道長とのあいだがらが不穏であったことから、自分の娘を頼通に降嫁させようとした。道長はこの申し出を受け入れた。だが、生真面目な頼通は妻の隆子姫が不憫でならない。噂を聞いて、隆子姫も不機嫌な顔をする。隆子姫は、具平親王の子。頼通が具平親王の霊にとりつかれたのは、このおりのことだ。
 瀕死の頼通の祈祷の験者としては明尊阿闍梨(みょうそんあじゃり)や心誉僧都(しんよそうず)、陰陽師では賀茂光栄、安倍吉平(よしひら)が具平親王の霊を退散させようとしたという。頼通が羅病したとき、吉平と光栄は「御物怪(もののけ)や、又畏(かしこ)き神の気や、人の呪詛(じゅそ)など……」と占ったというが(『栄華物語』)、「神の気」とは神の祟りという意味であろう。道長は「神の祟りであるならば、僧の御修法などしてはならぬ。また、物怪などがいる場合は陰陽師だけに任せてはおれぬ」と言って、泰山府君の祭や祓(はら)えをしきりに行ったという。
 晴明から五代目の子孫の泰親は、占いがピタリピタリと当たるものだから、「指すの神子(みこ)」と称されたほどの人物であり(『平家物語』巻第三「法印問答」)、泰親の子の泰成(従四位下)は、九尾の狐で有名な玉藻前(たまものまえ)を調伏(ちょうぶく)した陰陽師として知られている。玉藻前は鳥羽院を悩ましたが、泰成の祈祷の前についに正体を現わして下野国の那須野へ逃げ去ってしまう。この妖狐は、三浦之介・上総介に退治されたけれど、その怨念は殺生石となって多くの人々に祟り続けたという。

室町から江戸時代の安倍家

 陰陽道は賀茂家と安倍家の職掌で、賀茂家は幸徳井(かでい)と称し、地下人であった。安倍家は土御門家(つちみかど)と称し、中古から堂上となった。堂上・地下という区別は、おおむね土御門家の者が陰陽頭、幸徳井家の者は陰陽助に任じられることになる。土御門家は、陰陽道を主として、天変地妖が起こったときは、勘文を奉り、吉凶を密奏し、禁中で大礼が執り行なわれるさいには、日取りや時取りを前もって土御門家に伝えて勘文を差し出させた。そのほか、身固め、反閇、撫物(なでもの)、祈祷などを命じたという(『諸家家業記』)。
 室町時代の陰陽頭安倍有世も室町将軍と深い関わりを持ちながら天チュウ地府祭などの祈祷を行なっていた。江戸時代になると、幕藩体制の確立とともに、土御門家が陰陽道の世界を完全に支配するようになった。『徳川実紀』によれば、天和三年(一六八三)、幕府は土御門兵部少輔泰福(やすとみ)に諸国陰陽師主管を命じるにいたる。
 江戸時代、民間のあいだに陰陽道が浸透して行くと、土御門家はそれを取り締まるとともに、安倍一族だけで陰陽道を独占しようと考えた。泰福は明暦元年(一六五五・承応二年〈一六五三〉とも)に生まれ、享保二年(一七一七)に死去したが、霊元天皇・東山天皇・中御門天皇が即位したおりに天チュウ地府祭を勤行し、徳川家継・吉宗の将軍宣下時にやはり天*地府祭を勤行するなど、天皇家・将軍家と密着した形で陰陽道の実権を掌握して行った。天*地府祭とは、冥官を祭る儀式である。そうして泰福は安倍晴明の名を巧みに利用しながら土御門家の権威づけをはかり、陰陽道を中核とした神道である土御門神道(天社神道)を創設した。つまり、陰陽道を神道としたのである。


京都魔界マップ

 陰陽師のような鬼や怨霊を祓う者が必要なのは、当時、邪悪な鬼が出没したからだ。京都及び近郊の地で、魔界といわれる場所を紹介したい。

1一条戻橋(もどりばし)(上京区堀川下之町)……一条堀川にある橋。当時とほとんど位置が変わっていないという。晴明館に近い所に位置し、晴明神社にも近い。平安時代、浄蔵(じょうぞう)がこの橋の上で、死んだ父三善清行(みよし・きよゆき)のためにしばし祈祷をすると蘇生したので、戻橋という名前がついたという(撰集抄)。晴明は式神という鬼神を使役していたが、妻が怖がるため、橋の下に隠し置き、用事のあるときはここから取り出して使っていたという(源平盛衰記)。ここは、源頼光四天王の一人の渡辺綱が鬼女に襲われ、切腹した千利久の木像がさらされ、応仁の乱のときはとのあたりは激戦地となった所である。

2一神泉苑(しんせんえん)(中京区門前町)……平安京造営のときに、桓武天皇が設けた苑地。常に清泉が涌き出ていることから神泉苑と名づけられた。旱魃(かんばつ)のおりに東寺の空海と西寺(さいじ)の守敏(しゅびん)が雨乞い祈祷を行った。また、日本最初の御霊会(ごりょうえ)を行った場所でもある。御霊とは、不遇な死に方をした人の霊をいう。

3一鵺(ぬえ)池(中京区主税町)……源頼政が鵺を退治したあと、矢じりを洗った池と伝えられる。鵺とは仁平の頃(一一五一〜四)、近衛天皇をおびえさせた、頭が猿、胴体が狸、手足が虎、尻尾が蛇という妖怪。二条城近くの児童公園の中にあり、ここは、平安時代、御所の一角であった。池のすぐそばに鵺を祀る鵺大明神と称する小さな祠がある。

4一六道(ろくどう)の辻(東山区西轆轤町)……昔、葬式の時はこの六道の辻から出発して墓所である鳥辺野(とりべの)へ向かった。あたり一帯は六波羅(ろくはら)といわれ、平安時代末期には平家一門の家屋敷が立ち並ぶのだが、「六波羅」とは「六原」とも書き、「六」は霊魂の古語であるといい、お六さんといえば死体のことだ。「轆轤(ろくろ)町」というのは髑髏町が訛ったものと解する説もある。

5一六道珍皇寺(東山区小松町)……墓所として有名な鳥辺野の入り口にあたるところから盆には六道参りと呼ばれる迎え鐘で精霊迎えが行われる。境内には、小野篁が閻魔庁で裁判を手伝うために冥府に通ったという井戸(死の井戸)が残っており、境内には篁(たかむら)と閻魔の木像が安置されている。近くに江戸時代から続く幽霊飴を売る店がある。

(以下略)