| いのちをいただく |
| 高幡不動尊金剛寺貫主 川澄祐勝(かわすみ ゆうしょう) |
| (2007年『大法輪』 6月号より抜粋) |
| 師僧の昼餉(ひるげ) 寺の食事というとすぐ精進(しょうじん)料理が頭に浮かびます。精進(ヴィーリヤ)は本来、俗縁を絶って潔斎(けっさい)し懸命に仏道を学ぶことを意味することばです。精進料理とは雑念を去り身辺を潔(きよ)らかにして一心に仏道を学ぶ僧侶達に供(きょう)する食事として考案された料理のことで、米麦・野菜・海藻(かいそう)など植物性のものだけで作られ動物性のものは一切使われていません。現在各地の寺でいただく精進料理は品数も多く、寺によっては10品も12品もあり、まるで高級料理のようになっているところもありますが、最近の健康志向もあり静かなブームにもなっているようです。 先年、私共の寺の江戸時代の古文書の中から講中(こうちゅう)接待用の精進料理の献立が出てまいりました。それによりますと茶飯と味噌汁・香のものを入れて七品、大変粗末なものですが、それでも当時の人達にとっては素晴しいご馳走で人々は年1回、または春秋の参拝をとても楽しみにしていたようです。 明治以降、寺でも幾分の肉や魚をいただくようになりましたが、今でも行(ぎょう)中の僧侶の食事は厳密な精進料理に決められていて、動物性のものは一切使われていません。 私は埼玉県秩父の農家の次男で、大学卒業後縁あって高幡山(たかはたさん)に弟子入りしましたが、寺は精進料理というイメージでしたので週2~3回でも魚の干物などがいただけることが驚きでもあり、また嬉しくもありました。 小僧生活の第一歩は掃除と師僧にお仕えすることです。毎日昼の膳(ぜん)を師僧の部屋にお運びしておりましたが、食事のあと私達がお下げする師僧の膳には米一粒はもちろんのこと、正油(しょうゆ)一滴も残っておりませんでした。 膳の片付けは師僧の指示があってからにするのが慣(なら)いになっていましたが、ある日緊急に裁断をいただきたいことがあって部屋の障子を開けますと、部屋中に煙が漂っていました。何の煙だろうと思って火鉢の方を見ると、五徳(ごとく)の上に秋刀魚(さんま)の骨がのせてあり、それがこんがりと焼けてかすかな煙を出しているのです。私の視線に気付いた師僧は「おい、秋刀魚の骨はうまいぞ、食べるか」と言って芸術的ともいえるほどきれいに残された骨の部分を私に渡し、ご自分は頭の部分を残さず食べて仕舞われました。 私も子供の頃から食べものの有難さを両親から繰り返し教えられていましたので、食べものは一切残さない習慣を身につけていましたが、鰯(いわし)の頭はともかく、かなり大きい秋刀魚の頭は猫の食べものだと思っておりましたので食べたことはありませんでした。驚いている私の目の前で師僧は秋刀魚の載(の)っていた皿に茶をそそぎ、その茶を御飯茶碗にうつして一気に飲んで仕舞われました。膳がきれいになると「おい、これを下げてくれ」といって私の方に膳をよこされましたが、私は膳を下げながら皿に一滴の正油も残さない師匠の徹底した食生活にあらためて感嘆させられました。 当時師僧は真言宗智山(ちさん)派の管長でもございましたので全国各地を巡錫(じゅんしゃく)されることも多く、行く先々で随分なご接待を受けておられたと思われますが、自坊での生活は簡素そのもので、最晩年に至るまでこの質素な食生活を変えることはありませんでした。 しかし90歳を過ぎる頃から幾分食事の量も少なくなりましたので、大膳部(だいぜんぶ)の係が心配して師僧のお好きなものを少しずつ何種類も膳にのせて出してくれるようになりました。 その膳部を見た師僧は「豪勢だなー」と喜んで食べ始められましたが、一時間近くたっても膳を下げろと言われません。見兼ねた私が「間もなくお客様が見えますので膳をお下げしても宜(よろ)しいでしょうか」とお尋ねしましたところ、師僧は膳を指さして「まだ少し残っているじゃあないか」と言って下げさせてくれませんでした。何回かそんなやりとりがあった後、私が「残りは私が夕食にいただきますから」と申しますと、師僧は「そうか食べてくれるか」と満面に笑みを浮かべて膳を下げさせてくれました。これは食べものを粗末にしてはいけないという僧侶としての心構えと料理を作ってくれた人への心遣いだったと思います。師僧は平成元年に満94歳でお亡くなりになりましたが、最晩年に至るまでこのような心配りのできる方でした。 大自然への感謝 食は動物の個体維持・種の繁栄には絶対に欠かせないものですので、動物達は食の確保に毎日命をかけていると言っても過言ではありません。この食の重要性は、文明を極度に発達させた人間にとっても他の動物達と何ら変ることはないはずですが、近年余りにも豊かな食生活に馴れきっている現代人は健全な食生活こそが健全な心身を育てることなどすっかり忘れているように思えてなりません。 私は年中多忙でテレビを見る時間はほとんどありませんが、先日たまたま垣間(かいま)見たNHK総合テレビの画面に愕然(がくぜん)とさせられました。その画面には学校給食で出た魚に骨が入っていたことに抗議する母親の姿が映されていました。 あまり詳しい説明等はありませんでしたが、骨が入っていたために給食をきちんと食べられなかった子供の話を聞いた母親が「子供の安全を守るべき学校が、小骨のある魚などを給食のおかずに出すとは何事ですか。もし喉(のど)に骨が刺さったらどうしますか、学校が責任をとってくれますか」というような抗議であろうことはおおよそ想像がつきましたが、同時にこれは見過ごすことの出来ない大変な間違いであると感じました。給食の魚に小骨が入っていて危険だと抗議するPTAの母親、それに対し明確に返答できない学校側、どちらも給食の意義・食生活の重要性に対する認識が足りないのではないでしょうか。 魚から爬虫類・鳥類・哺乳類に至るまで脊椎(せきつい)動物には骨があります。骨があるからこそ形があり個体を維持することが出来るので、骨があるのが当り前のことなのです。 四方を海に囲まれた島国の日本人は昔から海洋資源を充分に活用する文化を築いてきましたが、それらの海洋資源中特に魚については自分達で噛(か)み砕けない骨や、喉に刺さるような危険な小骨はそれぞれの手で丹念に取り除いて食べるものだということを、どこの家庭でも教えていました。私も小学生の頃から魚の骨は自分でとって食べる習慣を身につけていました。魚は骨を除きながら食べるものだということを教え、実践させることこそが、家庭教育であり学校給食ではないでしょうか。 魚の小骨のことを例にとりましたが、様々な食べものの正しい食べ方を学ばせ、社会に通用する常識ある人間を育てることこそが今話題になっている「食育」そのものだと私は考えています。 平成17年6月10日に国会で「食育基本法」が成立しましたが、その目的は「食育によって国民が生涯にわたって健全な心身を培(つちか)い豊かな人間性を育(はぐく)むことにある」とされています。「食育」ということばは明治時代から散見されるそうですが、フリー百科事典ウィキペディアには「食育とは様々な経験を通じて食に関する知識と食を選択する力を習得し、健全な食生活を実践することができる人間を育てることである。食育基本法においては、生きるための基本的な知識であり、知識の教育・道徳教育・体育教育の基礎となるべきものと位置づけられている。単なる料理教育ではなく、食に対する心構え、栄養や伝統的な食文化についての総合的な教育である」と記されています。 これらは食育に対する要点を簡略に表現したものですが、この食育教育の概要を読んで私がまず気づいたのはこの記述に私達に食糧を恵んでくれる大自然に対する感謝の心が感じられないことです。私達がいただく食べもののすべてがこの地球上の動植物の懸命な生の営みによってもたらされるもの、命そのものでありその貴重な命をいただいて私達の心身が維持されていることへの感謝の心が抜け去っていることです。 この動植物の命の営みの尊さを、平安時代の名僧恵心僧都源信(えしんそうずげんしん)はその著『往生要集(おうじょうようしゅう)』の中で「魚の子長(ちょう)じがたく、菴樹熟(おんじゅじゅく)すは少なし」と端的に述べられています。 ご承知の通り魚は厖大(ぼうだい)な数の卵を産みますので無数の稚魚(ちぎょ)が孵(かえ)りますが、それらの稚魚が立派な成魚となるのは数えるほどなのです。 また菴樹(マンゴー)はすべての枝に花をいっぱいに咲かせますが、それらの花から立派なマンゴーとして結実するのは極めて限られた数だけです。 この様に自然の恩恵によって生かされていることを学んだ私達日本人は昔から食事の前に合掌して「いただきます」と唱え、食後にはまた合掌して「ごちそうさまでした」と唱えて感謝の気持を表してきました。 これは私達人間がいただくもののすべてが動植物の命そのものをいただいていることへの感謝と、それらの食べものが私達の家庭に届くまでのあらゆる人々の労苦に対する感謝の気持ちにほかなりません。 食育基本法が成立したことは一定の評価が出来ますが、この感謝の気持が抜けていることが残念でなりません。 五観(ごかん)の偈(げ) 私達僧侶は食事の前に必ず五観の偈をお唱えしますが、その偈文(げもん)は次の通りです。(読み下しは真言宗智山派の作法集による) 一(はじめには)、巧(こう)の多少(たしょう)を計(はか)り彼(か)の来処(らいしょ)を量(はか)るべし 二(ふたつには)、己(おの)が徳行(とくこう)の全(ぜん)か、欠(けつ)か、多(た)か減(げん)かを忖(はか)れ 三 (みつには)、心(こころ)を防(ふせ)ぎ過(か)を顕(あらわ)すは三毒(さんどく)に過(す)ぎず 四 (よつには)、正(まさ)しく良薬(りょうやく)を事(こと)とし形苦(ぎょうこ)を済(すく)はんことを取(と)れ 五 (いつには)、道業(どうぎょう)を成(じょう)ぜんが為(ため)なり、世報(せほう)は意(い)に非(あら)ず となっています。この五観の偈の意味を略記しますと次のようになります。 一は、我々の食物となってくれる動植物や、これらの食物を私達が食べられるようにして下さった多くの人々に感謝をしていただきます。 二は、己(おのれ)がこの食物をいただくような徳があるかどうかを反省してからいただきます。 三は、つつしんでこの食物をいただき必要以上に多く求めるようなことは致しません。 四は、飢えを防ぎ自分の体を健康に維持してゆくための食事ですから、良薬をいただくように丁寧(ていねい)にいただきます。 五は、釈尊の教えをしっかりと学び、立派な人間となるための食事であることを決して忘れないようにしていただきます。 私達が現在住んでいる地球の生産力には自ずと限界があります。この生産力とは命の再生産力と言ってもよいでしょう。従って自然の動植物はもちろん、人間が編み出した食べものの生産方式、農業や漁業、牧畜等にも限界があるのは当然のことです。 その一方で20世紀後半からの世界人口の急激な増加、途上国を含めた各国の消費動向の変化や拡大、その他の要因によって数十年後には世界的な食糧危機の到来が必至との見方も強まっています。 そのような食糧事情にもかかわらず現在日本の食糧自給率は40%そこそこ、世界で最も自給率の低い国の一つになっています。60%は各国からの輸入に頼っていますが、それにしては毎日各家庭や食糧関連産業から出される食物関係の廃棄物は厖大で、それらを上手に生かせばアフリカの飢餓に苦しむ人々一千万人以上を救えるほどだと言われています。日本人は古来食べられるものを捨てることはもったいないことで、恥かしいことの第一にあげて生活して来た民族です。 現在日本は世界でも最も豊かな国の一つに数えられていますが、いかに収入が多くリッチな生活をしていてもこの日本人の世界に誇る美徳は失いたくないものです。 五観の偈は僧侶の食事作法として決められたものですが、その心は日本民族の食に対する心「いただきます」「ごちそうさまでした」と何ら異なることはありません。 註.五観の偈には動植物のいのちをいただくことへの感謝の心が明記されておりませんが、私は第一項の「……彼の来処を量るべし」の一語が大自然との係わりを示していると理解しています。 |
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