| 仏教が与えてくれるもの |
| 駒澤短期大学教授 角田 泰隆(つのだたいりゅう) |
| (2004年『大法輪』7月号より抜粋) |
| ○宗教を信じますか? 学生たちに「何か信仰している宗教はありますか?」と尋ねると、ごく希に「仏教です」とか「キリスト教です」とか「神道です」などと、はっきり答える学生もいますが、多くの学生は「特に信仰する宗教はありません」とか「私は宗教を信じません」とか「無宗教です」と答えます。あるいは、「私は宗教には関係ありません」とか「私には宗教は必要ありません」と、きっぱり言う学生もいます。 人々の幸せや平和を願うはずの宗教が、互いに対立し争って戦争を繰り返したり、人々を悩みから救済してくれるはずの宗教が、人々の苦悩につけ込んで、多額の布施をだまし取って、かえって人々を苦しめたり、あるいは「救済」の名のもとに無差別殺戮を行う宗教まで現れれば、宗教に対して「信じません」「関係ありません」「必要ありません」と言って警戒心を抱くことは無理もないことなのかもしれません。 しかしながら、宗教、ことに仏教とは何かといえば、つまり本来仏教とは何かといえば、それは、もっと根元的な、「信じる・信じない」「関係ある・関係ない」「必要・不必要」といった次元の問題ではなく、現実世界のあり方の洞察、よりよい生き方の探求なのです。 そこで私は大学で学生たちに仏教を教えるにあたって、「仏教を信じますか?」という質問を投げかけ、そして、この質問が、実は質問として成り立たないことを以下のようにお話するのです。 ○仏教の三つ様相 その前に、仏教の三つの様相について整理しておきます。それは、「仏法」と「仏教」と「仏道」です(一般には、これらをまとめて「仏教」と言っているのであろうと思います)。 「仏法」とは、仏教の開祖釈尊が、現実世界のあり方を深く洞察することによって明らかにされた【真理・真実】で、時代や地域によって変わることのない法則です。「諸行無常」や「縁起」などがそれに当たります。 「仏教」とは、そのような現実世界を【よりよく生きるための教え】であり、その基本的法則です。「四諦八正道説(したいはっしょうどう)」「中道(ちゅうどう)」などがそれに当たります。 「仏道」とは、時代や地域によって異なりうる仏教的生き方であり、「仏法」や「仏教」を基本として、その時代、その地域に存在した修行者が行うべき【仏教の具体的実践の道】です。法然上人・親鸞聖人の「念仏」や道元禅師の「坐禅」がそれに当たります。 ○ 現実世界の あり方の洞察……仏法 さて、まず、「仏法」の「法」とは、梵語のダルマ(dharma)の意訳であり、いろいろな意味がありますが、「宇宙の真理」「宇宙の法則」と言ってもよいでしょう。 真理というと堅苦しいのですが、簡単に言えば、時代によって変わることのない事実、場所によって変わることのない事実ということです。「水が流れる」ということを例に取ってみれば、この地球上においては、通常(もちろん例外はありますが)水は高いところから低いところへ流れます。今から約2500年前の釈尊の時代も現在もそれは変わることはありません。インドにおいても日本においても、これは場所によって変わらない事実です。 釈尊は、そのような、時代(時間)や場所(空間)によって変わることのない、この現実世界の真理・真実を、しっかりと見つめ、きちんと教えられたのです。 例えば「諸行無常」という教えがあります。その意味は、あらゆるものごとは常住不変ではない。移り変わりゆくものであるということです。 今、我々の現前にあるすべてのものごとは、因縁和合(いんねんわごう=原因があり、それにいろいろな縁〈条件〉が和合すること)によって生起(しょうき)している「現象」であり、ある時、ある条件のもとに象(かたち)を現しているのであって、ほかのものと関わらず存在し、それ自体でいつまでも変わらずに存在し続けるものではありません。 ところで、「法」として説かれた教えの代表が「縁起」という教えです。「縁起」とは、時間的な見方をすれば、あらゆる物事には原因があり、それに種々の条件が加わって結果を生じるということであり、その結果がまた原因や条件となって、さらなる結果を生みだしてゆくというように、現実の世界はいろいろな物事が複雑に絡み合って、移り変わってゆくということです。いわゆる「因果の法則」です。 また「縁起」ということを、空間的に論じますと、世界はつながりあって存在しているということになります。いわゆる「共生の法則」です。動物と植物、花と蝶、アリとアブラムシなど、お互いがお互いを必要として存在しています。 思えば、これらは「あたりまえ」のことですが、このあたりまえのことをきちんと見きわめるところから、仏教は出発したのです。「仏教」は、敢えて、頑張って信仰しなければならないような特別な教えではありません。 ○よりよい生き方の探求 ……仏教 このような真理に目覚めたとき、自ずと生き方が変わってきます。「因果の法則」をしっかりとわきまえることにより、日常生活の一つひとつの行いを大切にし、正しく生きようという思いが生じます。「共生の法則」を知ることにより、自分と他人、自分と環境を対立して見ることなく、自分と同様に他人を思いやり、自分と同様にあらゆる物を大切にしようとする思いが生じます。そこに具体的な、いろいろな仏教的な実践が生まれてきたとも言えます。 また、仏教が最も重要な課題としたのが、生(しょう)・老・病・死の苦しみからの解放でした。誰もが避けることのできないこれらの苦しみを、どのように克服したらいいのか、釈尊は自ら悩み苦しみ、遂にこれを解決し、そして人々を苦しみから救おうとしました。 結果的に仏教は、自分(の肉体)に対する執著や、これらの苦しみの対極にある渇愛(かつあい=激しい欲望)に苦しみの原因があり、まずこれらを離れ、そして、生・老・病・死をありのままに受け入れることによって、苦しみを克服する道を教えたのです。 さて、仏教が説く「四諦説(したい)」は、さまざまな人生問題の解決方法を示したもので、苦諦(苦という現状)集諦(じったい=その原因)道諦(苦の解決方法)滅諦(理想的なあり方)を説いています。いわば問題解決の論理的基本マニュアルです。 そして、「八正道(はっしょうどう)」という八つの実践を説いています。簡単に言えば、将来的・全体的な見通しを立てて(正見=はっしょうどう)、自分の立場を考えて(正思惟)行動し、常に思いやりのある言葉で人に接し(正語)、悪事を作(な)さず(正業=しょうごう)、規則正しい生活の中で(正命=しょうみょう)、世のため人のためになることに努力し(正精進)、常にはっきりした意識をもって生きること(正念)。そして、そのような生き方の基本には自分自身を静かに見つめる時間を持つ(正定=しょうじょう)ということになります。いわば、よりよく生きるための実践的基本マニュアルです。 ○いま、ここを生きる ……仏道 さて、これらの論理的基本マニュアルと実践的基本マニュアルに従って、いま、ここを生きる、それが「仏道」ということになります。 仏教の教祖釈尊も、それを代々伝えてきた祖師も、そして伝教大師(でんぎょうだいし)、弘法大師はじめ、鎌倉仏教の祖師たちも、みなその場所その時代を真剣に生きられた方々です。具体的な生き方が違い、指導方法が違っても、それぞれ「仏法」「仏教」を基本として、それぞれの「仏道」を生きられました。 世界は今、平和・環境問題、教育・人権問題をはじめ、多くの問題を抱えています。この時代を、いかに生きてゆくか、それを考え、実践するのは、いま、ここを生きる私たちです。 ○仏教が与えてくれるもの 以上、述べたように、仏教が与えてくれるもの、それは「仏法」という現実世界の真理・真実のあり方です。それは「信じようが、信じまいが」事実であり、「関係あるとか、関係ないとか」「必要だとか、必要ないとか」、そういうものではありません。まず、仏教は、真理・真実を私たちに言葉によって明らかに説き、表現し、私たちに与えてくれています。 そして同時に、「仏教」という、現実世界をよりよく生きてゆくための基本的な理念・法則・智慧を示してくれています。 これら「仏法」「仏教」を基本とし、拠り所として、私たちがそれぞれの地域でそれぞれの時代を生きてゆく、それが「仏道」です。これは与えられるものではなく、自ら切り開き、歩んでゆくものでしょう。 現代日本では、仏教と言えば、「先祖供養」「葬式仏教」「現世利益(げんぜりやく)」ということが中心になってしまいました。これも仏教の歴史における必然的変貌であり、このように変貌することによって仏教は日本において現代まで生き延びてきたのかも知れません。しかし、真実の修行者は常に「仏法」「仏教」を基本として確かな「仏道」を生きることを、いつの時代でも、決して見失ってはならないでしょう。 |
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