柳宗悦と妙好人
相模女子大学教授 志村 有弘(しむら くにひろ)
(2006年『大法輪』7月号より抜粋)

 
   
  ◇宗教への関心
 柳宗悦(やなぎ むねよし)(一八八九~一九六一)は、近代日本が産んだ偉大な文化人であった。柳の優れた幅広い文化活動の中で特筆すべきは民芸運動であるが、鋭い直感による自然美の発見は、他の人の追随を許さぬものがあった。
 柳の仕事のうち、民芸・工芸運動と共に注目されるのは、宗教研究である。大学では心理学を専攻したけれど、キリスト教・仏教には早くから関心を抱いており、木喰(もくじき)上人の仏像にも強い関心を示していた。
 大正十二年に木喰上人の木彫仏を見て、木喰の研究を始め、そして昭和二十六年から『大法輪』に連載した『南無阿弥陀仏』が大法輪閣より刊行されたのは昭和三十年。昭和三十五年には春秋社から『柳宗悦・宗教選集』全五巻が刊行されるにいたる。

◇仏教回帰
 柳は最初、キリスト教に強い関心を示した。キリスト教は仏教や儒教よりも「新しい」ものとして、「魅力」があった。そしてキリスト教真理を追究していったとき、最も引きつけられたのは中世期の神秘思想であった。その神秘思想家の中で最も柳の心を打ったのは、十四世紀の神学者エックハルトであったが、エックハルトを読んでゆくと、しばしば「無」とか「空」という文字が現われてくる。
 柳は、老子が「無為」を説き、仏説は「空」を随所に引いていることに気づいた。つまり、エックハルトは、柳を東洋に振り向かせる機縁となった。爾来、柳は東洋の古典を耽読するようになった。
 柳は仏教に帰った理由を自分は仏教国に育った東洋人であるから「故郷の宗教」に帰ったのは「自然の推移」であったと述べている(「仏教に帰る」、『現代仏教講座』、角川書店、昭和三十年)。
◇柳の妙好人観
 柳は仏教の世界では、素朴で、ひたむきな自然児の如き妙好人を愛した。『柳宗悦・宗教選集』の第五巻『宗教随想』には「妙好人の入信」「妙好人の辞世の歌」など、妙好人に関するエッセイが収録されている。「妙好人の入信」は『大法輪』昭和三十年四月号に掲載されたものだ。
 柳によれば、妙好人は「信者の信者とでも云つてよい人々」で、「その信心は、凡ての信心を代表するもの」であるという。偉い坊さんが安心(あんじん)を決定(けつじょう)するに至った歴史も貴重であるが、凡夫の庶民にとっては「大概は無学で貧乏な」妙好人の方がより「親しみが深い」と述べる。
 柳は「妙好」とは梵音(ぼんおん)で「芬陀利華(ふんだりけ)」と記され、元来は「白蓮華(びゃくれんげ)」を意味し、「妙好人」とは白い蓮華のような浄(きよ)らかな信心を篤く身に付けた信徒たちを讃えて呼ぶ言葉であると説いている(「妙好人」、『柳宗悦・宗教選集』第四巻、春秋社、昭和三十五年)。 柳は「妙好人の入信」で、四人の妙好人を取りあげている。目を開かせてもらった周天という坊さんを「周天如来周天如来」と言って拝んだ庄松(しょうま)。どうしたら安らかに死ぬことができるかと悩み続け、元明(げんみょう)師の「死なれたらよいがなあ」という独り言で眼を開いた泉州の魚行商人吉兵衛。老婆の言葉から「分らぬまんまのお助け、持ったまんまの仕合せ、その姿のまんま」ということを教えられた三田(さんだ)源七。父親から「おらあが死んだら親様を頼め」と遺言され、爾来(じらい)「親様」を求めて苦悶し、重い草の束を牛に背負わせようとしたことから「他力」ということを悟った因幡(いなば)の農民源左(げんざ)。彼等は一様に「切実」な問い、棄てることのない「疑ひ」、そして「光を追」い続けたのだという。

◇因幡の源左と信女おその
 柳の妙好人論は、寿岳文章が編んだ『柳宗悦妙好人論集』(岩波文庫、平成三年)に集成されている。そこには、妙好人に関する柳の熾烈(しれつ)な思いを読み取ることができる。ここには前掲の因幡の源左が「源左の一生」と題して紹介されている。ある人が源左に「自分は偽同行(にせどうぎょう)だ」と語ったところ、源左は「偽になったらもうええだ、なかなか偽になれんでのう」と答えたという。
 柳は源左の考え、生き方を例として、妙好人は誰よりも自分が凡夫だと自覚していると述べる。自分以上の凡夫はいないと悟ったとき、執着する必要のない醜い自分を見出す。すべての者が自分より上にある。そう考えたとき、凡夫は慚愧(ざんき)と謙虚(けんきょ)とに変わる。自分が受けるどんな苦痛も当然受けるべき呵責(かしゃく)となる。怨みも怒りも消える。何もかも恵みに変わる。
 このように考える柳はやはり哲学者である。それも心根のまことに優しい哲学者である。柳は源左の生き方、考え方に遭遇して生きるとは何かを考えているのだ。柳にとって妙好人の生き方はおのれを振り返る、人間とは何かを考えるうえで大きな存在となっていたと思われる。
 柳は感謝も忘れない。「有難いことである」と断ったうえで、名も知れぬ土地に名も知れぬ妙好人が現われてくることに思いを馳せている。それは「真宗のみが有(も)つ不思議な力」で、妙好人とは「無量寿経や阿弥陀経の教えが、そのまま活きた姿で現れてくる」のであり、妙好人がいるからこそ「経文にも教学にも千鈞の重みが加わる」と論じるのである(「源左の一生」)。
はいはいとうなづくばかり百合の花
 三河の国田原の信女おそのの臨終の偈(げ)という。ここの「はい」というのは、承諾など判断の入ったものではない。条件の絶えた「はい」なのである。柳はおそのの「はい」に注目して、信者の「はい」とはこのような「うぶなただの『はい』に活きている」ことではないかと述べている。
 おそのの念仏の称え方は有難そうもない、味気ない念仏であったという。ある者が、
 「おそのさん、お前さんの念仏は滓(かす)にもならぬぜ」 と批評した。おそのは、
 「有難い、おらそれは初聴聞じゃ、わしの称うる念仏が、もしや滓にもなったらどうしょう。それが滓にならぬとは、有難や有難や、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」 と答えたと伝えられている。柳は私の力が念ずる念仏など、どれだけの意味があるかといい、「滓も残らぬ空念仏となってこそ、本当の念仏」であり、「私が念仏するのではなく、私なき念仏、私の残らぬただの念仏となってこそ、はじめて念仏といい得る」と説くのである(「信女おその」)。
活きた仏法
 田舎にいて別に学問もないけれど、篤い安心を頂いている人々を「妙好人」と称し、浄い蓮の如き信者を指している。柳は、立派な学僧や住持(じゅうじ)もさることながら、「貧しい名も知れぬ信者の中に、仏法がかえってよくいきいきとしている事実を、われわれは深く省みねばなりません」と述べるのである。そうして田原のおそののような人々を見ると「まことに活きた仏法をまともに見る想い」がするのだという(「信女おその」)。
 吉兵衛は、「安心して死ねるようにならなければどうしょう。このままでは、死んでも死にきれぬ」と思い、その答えを求めて諸国遍歴の旅に出たのだ。その心はあくまでもひたむきで純粋であった。柳は吉兵衛の「倦(う)まざる求め」・「死を賭(と)しての希い」に驚嘆するのである(「妙好人の入信」)。
 柳宗悦は、柔軟な感受性と激しい探求心を持ち続けていた人であった。そして柳の妙好人たちに注ぐ優しい、驚嘆の眼は、木喰仏に注がれる素朴な讃仰の眼と同種のものである。そしてこの柔軟な感受性と素直な優しさが柳宗悦の優れた文化活動の根幹をなすものであった。