泥中の蓮を生きた歌人 ─山崎方代の人生と歌─
歌人・鎌倉瑞泉寺住職 大下一真(おおした いっしん)
(2007年『大法輪』 7月号より抜粋)

 
   
  ホーダイさんの来訪
 日暮ははやい鎌倉の山かげの小庵の薄暮にあらわれた男は、髪はぼさぼさ、目つきはよろしくないうえに着ているものはよれよれ、おまけに酒臭い。あいにく住職は不在で夫人が応対するとなれば身構えるのが当然で、男はそれでもぼそぼそと喋る。その内容は、自分は住職と面識もあるし、今日は吉野秀雄先生の墓参に来たのだと言う。歌人吉野秀雄先生の墓参となれば、まあそういう関係者ではあろうと思い、一生懸命に喋るその語り口からは、悪いことをするようにも思えなくなって、線香に火をつけてあげた。

 という話の、この一見あやしげな男は山崎方代という人物で、住職夫人の想像どおり、吉野秀雄を尊敬した歌詠みの一人でありました。
 「山崎方代」は「やまさきほうだい」と読みます。生れは甲府盆地の南はずれの右左口(うばぐち)村(現甲府市右左口町)で、子供が生れては死に生れては死んでしまうので、父親がこの子には、「生き放題死に放題、勝手にせよ」と「ほうだい」と名付けたといいます。
 ちょっと変ったこの名前は覚えやすいというか親しみやすいというか、長じては「ホーダイさん、ホーダイさん」と親しまれました。 吉野秀雄先生の命日は昭和四十二年七月十三日ですから、方代さんがわが小庵の玄関にあらわれたのは、この年の秋くらいでしょうか。とすると、当時の方代さんは、五十歳をやや過ぎていたことになります。

生れは甲州鴬宿峠(おうしゅくとうげ)に立っている
   なんじゃもんじゃの股からですよ
手のひらに豆腐をのせていそいそと
   いつもの角を曲りて帰る

 その頃の方代さんはこのような歌を発表していました。甲州の鴬宿峠に立っている「なんじゃもんじゃ」と呼ばれる大樹から生れたというホラのような話の面白さ、鍋やボールがないから豆腐を買っても掌に乗せて帰る生活とその孤独、しかし豆腐一丁で「いそいそと」となんとなく可愛くて母性本能をくすぐられるような境涯を歌って、この世界でにわかに注目を集めるようになっていました。

にょうぼうという細長きへらをもて
  ひとり背中を掻いている
ねむれない冬の畳にしみじみと
  おのれの影を動かしてみる

 背中を掻くのに使うのは一般的には「孫の手」と呼ばれ、「にょうぼう」とは申しません。それをことさらそう名付けるのは実際の女房がいないからであり、眠れない夜に語りかける相手がいなければ、「しみじみとおのれの影を動かしてみる」しかない。そんな孤独が、ちょっとユーモラスに歌われて、軽い笑いを誘います。

寂しくてひとり笑えば卓袱台(ちゃぶだい)
  上の茶碗が笑い出したり
卓袱台の上の土瓶に心中を
  うちあけてより楽になりたり

 卓袱台の上の茶碗が笑い出すとは、なんと奇抜な発想でしょう。いや、方代さんの世界では、独り身の寂しさを茶碗が一緒になってたしかに慰めてくれるのです。そして、土瓶に自分の思いを語りかけて、それで「楽になりたり」と言う。土瓶がまるで妻か家族のようです。この土瓶は近くの藪に捨てられていたのを拾って来たものだと、方代さんは後に随想集に書いています。

山崎方代の歌の背景
 このような短歌作品で親しまれた方代さんですが、三十歳前後には次のような歌を発表しています。

狂いたる本間一等兵がタラップの
  闇に女房の名を呼んでいる
甲板に結べる霧ににぶき重き
  額をおしあてなどして支へたり
闘ひて生きねばならぬ体より
  つづけざまに鉄片を抜かしむ

 「狂いたる本間一等兵」の歌は、第二次世界大戦時の軍隊生活が題材です。何が原因だったのか、発狂した兵隊が女房の名を呼ぶ。軍隊生活の現実は、まことに過酷なようです。
 方代さんは、戦線が拡大した昭和十六年に召集され、高射砲隊の一員として最終的にはチモール島のクーパンで戦い、十八年に砲弾片を浴びて右目を失明、左目も視力0.01となって、終戦により帰還しました。「にぶき重き額」とは、そうした戦傷の体が歌われています。帰還してさらに体の中に残っている破片(鉄片)を抜く。それは「生きねばならぬ体」であれば、耐えるしかないことなのです。
 視力を失った傷痍(しょうい)軍人が敗戦後の混乱する社会を生き抜くのは、簡単ではありません。方代さんは、靴の修理技術を身につけ、それを新宿や横浜での生業としました。

父知らぬ子を産みおろす若き娘に
  生の卵を一つ置きて去る
おから寿司水と一緒にのみおろし
  売られゆく娘にマフラを投げる

 終戦後の巷では、生きてゆくために体を売るしかない女性も少なくなかったようです。「父知らぬ子を産みおろす若き娘」「売られゆく娘」はそうした社会の現実から生れた作品。いわば底辺に生きる彼女たちに、方代さんは「生の卵を一つ置き」と言い、 「マフラを投げる」と歌っています。けっして見下しなどしないのです。

地下道をねぐらときめて
  今宵ホールの楽に合わする

 これはどういう歌でしょう。今夜は地下道のどこかで雨露をしのぐと決めて、ついでに音楽ホールかミルクホールか、賑やかなところから流れて来る音楽でも聞こうかというのでしょうか。当世でいうホームレス同様ながら、「ホールの楽」に合わせてハミングするような楽しさはどこにでもあるというたくましい心境と、私は受け取りました。
 どん底の生活にもかかわらず「父知らぬ子を産みおろす若き娘」や「売られゆく娘」にやさしい、というより、「地下道をねぐら」とするような生活ゆえに、人へのやさしさが身についた方代さんのように、私には思われます。

こんなところに釘が一本打たれいて
  いじればほとりと落ちてしもうた

 これはずっとのちの歌。歌われているのはどういう場所でしょう。古い家の一隅か、納屋か。こんなところに釘がねえと思いながら少しいじってみたら、「ほとりと落ちてしもうた」。「しもうた」という剽(ひょう)げた物言いに笑いが誘われるとともに、なんとなく心がほのぼのとするようです。もう使われない、誰も振り向いてくれない釘も、方代さんにはお仲間のように見えます。

手のひらをかるく握ってこつこつと
  石の心をたしかめにけり

 これもどういう世界なのか。いつ、どこでといった背景は歌われず、石に向かう作者方代さんだけが描かれています。そして、「手のひらをかるく握ってこつこつと」は、知人や近所の人の家のドアを叩くような感じではありませんか。「石の心をたしかめにけり」ではやはり、「たしかめにけり」が大げさな表現で笑いを誘いますけれど、まるで「女心を」とか「君の心を」と置き換えたいような親しさが宿ります。
 ここでも、石は親しいお仲間なのです。「石の心」をたしかめることができるのが、方代さんなのです。

ことことと小さな地震(ない)が表から
  はいって裏へ抜けてゆきたり

 もうひとつ、このような歌もあります。地震が好きだというお方は、まずいないでしょう。どおーんとやってきてぐらぐらと脅かすのは無論ですが、いかに小さくとも、やはり気持ち悪いものです。
 ところが、この歌ではどうでしょう。地震が、ことことと表から来てことことと裏へ抜けていったという。友だちがちょっと来て、笑顔を振りまいて帰っていったような感じさえします。方代さんにとっては、地震さえ友だちなのです。

方代さんの人となり
 方代さんの生れは甲州右左口村だと、先に申しました。そこは田も少なく、畑も石ころばかりの貧しい村であったと、随想集で語っております。父は分家で田畑を持たず、母が亡くなると余儀なく老いた父をともなって唯一の肉親である姉を頼って離郷。落ち着き先の横浜では思うような職につけぬうちに召集され、傷痍軍人となって帰還。靴の修理やプー太郎と呼ばれる港湾労務にも身を置き、姉の嫁ぎ先の歯科医の技工の手伝いをしたのが唯一の長期の仕事で、しかし視力の乏しい身には、細かい歯科技工の仕事が不適だったことは察しられましょう。
 やがて農家の手伝いなどするうちに、若い頃より唯一志を立てて捨てなかった短歌での力が認められるようになったのは、五十歳を越えてからでした。昭和六十年に七十歳で亡くなる時にはファンも多く、世間も存在を認めて、多少はおしゃれな姿も見せましたけれど、知人が建てて住まわしてくれた六畳一間がついの住み処で、妻子や、家庭の温かさとはついに無縁でした。
 人は、放浪の歌人と呼び、風狂の人と評し、隠遁者の系譜に位置づけたりしますが、貧しい家に育ち、戦傷を負い、配偶者には恵まれそうもない、いわば限りなく底辺に近い生涯を余儀なくされたというのが真実の姿ではなかったでしょうか。
 そんな人生を送った男の短歌作品が没後二十年余を経てなお、というより、さらにいよいよ愛される理由のひとつは、申して来たようなやさしさにありましょう。体を売る女性も卑下せず、土瓶も石も、地震にすら仲間のように親しく接するそれは、どん底の生活だったのに、ではなく、どん底の生活を味わったがゆえに生れたやさしさなのだと、私は思うのです。
 と言ってこの山崎方代、けっして言うところの聖人君子ではありません。

片付けておかねばならぬそれもまた
  みんな忘れて呑んでしもうた
ほんとうの酒がこの世にあった時
  父もよいにき吾もよいたり

 酒が大好きでご飯がわりに朝から呑み、一日二百本も煙草を吸う大変なヘビースモーカー。死因は肺癌による心不全、となれば、これを人生の見本とせよと、子供たちには口が曲がっても言えない生涯ながら、そのどん底生活から生れた短歌作品に、泥中の蓮の花の譬えを、あらためて思うのです。そういえば晩年の方代さんのお酒落の基本は、白いスーツを着ることでした。