| 親鸞聖人「和讃」入門(1)──親鸞の詩にみる人間と教え── |
| 武蔵野女子大学教授・同仏教文化研究所々長 山崎龍明(やまざき・りゅうみょう) |
| (2002年『大法輪』8月号より抜粋) |
人間は詩うものである 私たちは、嬉しい時、悲しい時に詩(うた)います。ひとは詩うことによって、喜びを確認し、悲しみを癒したりします。 親鸞さんの詩、『和讃(わさん)』と呼ばれるものは、実に、五百十首を超えるといわれています。日本の仏教史上、これほど多くの詩を作った人はいないといってもよいでしょう。しかし、『和讃』製作の理由は、かならずしも明らかではありません。 親鸞さんが残した、多くの詩は、簡単に言うと、三つに分けられると私は考えています。 人間が、酷しい現実を生きていく上で、いのちの依りどころとなる、アミダ如来とのであいの慶びを詩ったもの。(『浄土和讃』) アミダ如来の真実を私に届けてくれた、インド、中国、日本の七人の仏法者(七高僧)をたたえたもの。(『高僧和讃』) 時代の濁りと、人間の濁りを悲しみ、今こそアミダ如来の真実に生きるべき時である、ということを情熱的に詩ったもの。(『正像末和讃』) いずれにしても、これらの詩は、七十五−六歳頃(『浄土和讃』、『高僧和讃』)と、八十五歳頃(『正像末和讃』)のものと伝えられ、晩年の親鸞さんの信心の世界が、実に明確に示されている貴重なものです。 親鸞さんの生涯と信心に対して「晩年に至っても、なお、到達した信仰の境地というものを説かない宗教者だ」と言った思想家がありました。私も共感します。親鸞さんは、九十近くになっても、決して安易な信仰のよろこびを語るような人ではなかったようです。 生涯を一求道者して生きた、希有の人だと私は思います。私たちは、ともすると、年齢を加えると、自分の生きてきた人生に意味をもたせるためにか、もっともらしいことを周囲に言いたくなるものです。 特に信仰をこととして生きる者は、この誤りにおちいりがちです。つまり、何かまともなことを言わなければいけないような錯覚にとらわれるのです。私自身も年を加えるたびに、そんな錯覚におそわれます。注意しなければならないと私は自分に言いきかせます。 生涯を求道者として生きた親鸞さんは、答えを求め、答えを与える道に生きた人ではなかったようです。終生、間いを持ち続け、仏道とは仏・如来より信仰課題(問い)をいただいて生きる世界であるということを実践した人でした。 関東の念仏者たちが、いのちがけで答えを求めて京都の親鸞さんのもとを尋ねた時、親鸞さんは「面々のおんはからいなり」と言って、安易な「答え」をだすことを拒絶しました(『歎異抄』二章)。一見、冷徹にみえるこの姿勢の中に、私は生涯一求道者として生きた親鸞さん一途さと暖かさを感じます。 つまり、人生の問題は安易な解答を他に求めるのではなく、どこまでも自己が問い、悩み、求めるところに、答えがみえてくるものである、と親鸞さんは言うともなく、示しているのです。与えられたものではだめなのです。借りものではだめなのです。自己が真底、うなずくことのできるものとのであいを、私自身が求めつづげることの大切さが、ここにあります。 苦悩は自らがのり超えるもの 私は最近とても悲しい出来事に遭遇しました。五十一歳の知人がなくなったのです。彼は、結婚して十八年目に待望のこどもに恵まれました。しかし、四年余りでそのこどもとも別れなければなりませんでした。 お葬式が終り、出棺の時にお母さんがそのこどもに言いました。「最後だからパパにさようならって言いなさい」。しばらくしてから、四歳の坊やが大きな声で「パパ、さようなら」と言いました。私は涙を禁ずることができませんでした、辛く、悲しい日でした。 その知人のお母さんは八十歳を少しすぎています。四十年位まえに娘さんをなくされました。二人のこどもが自分より先に逝ってしまったのです。「どうしてこんなことが」と涙されるお姿に、言うべき言葉がありませんでした。お通夜、お葬式に、気丈に振舞っておられるそのお姿が、私の悲しさを倍加させました。 釈尊は「身自当之(しんじとうし)、無有代者(むうたいしゃ)」(身、自らこれにあたりて、代る者あることなし−私たちが生きていく、すべにてのことは、自分自身がこの身に担っていかなければならず、誰も代ってくれる者はない−『大無量寿経』)と、いのちの事実をいいあてました。その通りです。一言もありません。しかし、私たちは、その道理になかなかうなずくことができません。「どうして」「なんで私がこんな目に」「別に悪いこともしていないのに」と、とまどうばかりです。 今、私はこのお母さんと、奥さんに何ができるのか、ということをしきりに考えています。この雑誌が書店に並ぶ頃、彼の三十五日の法要がつとまります。さて、筆が少し走りすぎたようです。申し訳ありません。 さきに、親鸞さんが「安易」な答えを用意せず、答えは自らが求めていくものであると示されたと言いました。それが仏道の基本であると言ってもよいと思います。今、なくなった知人のお母さんと奥さんの苦悩のほどを考えると、つくづくそう思います。 私は時間の経過の中で「脳みは恵みである」(『家族という名の孤独』斉藤学)と言える日の来ることを、そして「死は悲しみではあるが、不幸ではない」とうなずく日がその方々にもたらされる日のくることをねがっています。だいぶ時間がかかると思いますが。 これから、しばらくの間、皆様とともに、親鸞さんの詩、『和讃』を学びたいと思います。その基本姿勢としては、サブタイトルに「親鸞の詩にみる人間と教え」と示した通り、親鸞さんの『和讃』に、こんにちを生きる私たち人間をとりまく諸間題と、いのちの学びをいただきたいと考えています。 なぜ「和讃」なのか まず、はじめに、『和讃』というものについて少し考えておきたいと思います。『和讃』は平安時代から始められたうたいもの(歌謡)のひとつで、法門歌のかたちで作られています。その多くは、七五調です。 親鸞さんの場合は特に四句を一首として、その総数、五百十首を超えます。そして、さきに述べたように、アミダ如来の教えの素晴しさや、七人の高僧方の徳や、教えの尊さをほめたたえ、また、社会や人間の悲しみをうたったものが、親鸞和讃の特徴であるといってもよいと思います。 よく、親鸞さんの生涯の著述である『教行信證』を裃(かみしも)をつけたような、かたぐるしい書物であるが、『和讃』は、浴衣がけで気軽に話しかけるような、身近かな雰囲気である、などと言われることがあります。 たしかに、漢文の『教行信證』に対して、『和讃』は和語の『教行信證』とも言われる通り、比較的身近かな感じがしますが、しかし、『和讃』もなかなかむずかしいものです。 なぜ、親鸞さんは多くの『和讃』を作られたのでしょうか。昔から学者方がさまざまな角度から、そのことについて研究しています。 しかし、親鸞さんご自身がそのことについて、直接述べてはおられません。が、「浄土和讃」(国宝本)の中におさめられる「現世利益和讃」の「和讃」の語の左側(左訓といいます)に「ヤワラゲホメ」と記されているところから類推して、むずかしい仏法をなるべくやさしく説き、アミダ如来の救いのはたらきを讃めたたえるために『和讃』が作られたものとみられています。 また、ある学者は『教行信證』の序文に「聞くところを慶び、獲るところを嘆ずるなり」とある通り、『和讃』は親鸞さんが自ら学び、獲得した信心の世界の素晴しさを、自らに向かって書き記したものである、と記しています。 私は、このような二つの立場が、親鸞さんの『和讃』製作の意図ではなかったかと考えています。親鸞さんのひ孫の存覚(ぞんかく)さん(一二九〇−一三七三)は「和讃は経釈の深旨(じんし)を弁(わきま)えない無知の輩に、経釈の意を和げて、これを心得しめ、時々念仏に加えて誦するように授け与えられたもの」(『破邪顕正鈔(はじゃけんしょうしょう)』中)と大上段にふりかぶった言い方をしています。 親鸞さんの『和讃』にはさきに記した三つの『和讃』(「浄土和讃」「高僧和讃」「正像末和讃」)を、三帖和讃と言いますが、この『和讃』が格調も高く、内容も充実したものとして、従来特に重視されています。このほかの『和讃』としては、『皇太子聖徳奉讃』(七十五首)、『大日本国粟散王聖徳太子奉讃』(百十四首)といった。「太子和讃」があります。 また、このほかいくらかの「別和讃」「帖外(じょうがい)和讃」といったものもあり、総計、五百十余首にも及びます。ここには、「日本のお釈迦さま」(和国の教主聖徳皇)と呼び、深く尊敬された親鸞さんの、太子への思慕がみられます。そして『帖外和讃』(九首)にも、私のこころ魅かれるものがあります。 要するに、親鸞さんの『和讃』とは、アミダ如来の徳をたたえ、人間としての自己を傷み、そして師の徳を深くこころに刻みつける、という信心の営みからうまれた、静かなるさけびではないかと、私はひそかに考えています。 親鸞さんの『和讃』は、親鸞さんが生きた鎌倉時代という中世の現実からうみだされたものです。過酷な現実から目をそらし、ユートピアを夢みるような思いで『和讃』がうまれたものではないことは、たしかなようです。きびしい中世という現実の只中に立ち、自己の救いと解放を熾烈に求める途上においてであった、アミダ如来への讃歌そのものでした。 しかし、その慶びは、深い深い人間の傷みによってもたらされたものであることは、言うまでもありません。真実の慶びは、深い悲しみによって紡がれるものなのでしょう。 うわべの慶びだけを求める者は、自己自身から自己がますます離れて自己満足に陥ります。また自己への悲しみに埋没する者は、自己以外のものに目を向けることができず、自已閉鎖に苦しみます。ここには、自己の解放はありません。 信仰は単なる慶びの世界ではありません。また、単なる悲しみの世界でもありません。悲しみが慶びになり、慶びが悲しみを喚起するような「教え」とのであいです。親鸞さんは、「慶ばしきかな」といい、「悲しきかな」といい、「誠なるかな」と言いました。 それは、「なんとうれしいことか」「なんとおそまつな私か」「その通りだな」という思いが、アミダ如来とのであいによって生じた世界でした。私たちは、こんにちどこで、この「慶び」と「悲しみ」と「誠」(真実)にであうことができるでしょうか。 (以下略) |
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