| 南無地獄大菩薩 ─ 白隠の地獄観─ |
| 静岡市・宝泰寺住職 藤原 東演(ふじわら・とうえん)) |
| (2004年『大法輪』8月号より抜粋) |
| あなたは「地獄」と聞いて、何を考えますか。 地獄など実在するわけがない、そんな陳腐(ちんぷ)なものを恐れることなどナンセンス、と考えるのが現代人ではないかと思います。そのせいか、自分がたとえ悪業(あくごう)をなしても、死後、その報(むく)いで地獄に堕(お)ちるなどとはまったく考えないものです。 しかし、かつて日本人は、真剣に自分の罪業(ざいごう)というものを見つめ、来世(らいせ)の地獄を恐怖し、ゆえに「懺悔しなくては」という思いを、強く抱いていました。 いま、江戸時代のすぐれた禅僧・白隠慧鶴(はくいんえかく=1685〜1768)の地獄観を探ってみることは、今日的意義があると思います。 白隠は、地獄に恐怖し、その恐怖を克服するために仏道修行に励み、悟りを得、その悟りによって人々を救済しました。つまり、地獄がなければ、白隠の悟りもありませんでした。ゆえに、白隠がのこした墨蹟のなかには、「南無地獄大菩薩(なむじごくだいぼさつ)」というものもあるほどです。 幼い白隠と地獄 白隠の心に地獄が刻印されたのは、11歳のときのことです。信心深い母に連れられ、村にあった昌源寺(しょうげんじ)というお寺にお参りしたとき、日厳(にちごん)上人は、『摩訶止観(まかしかん)』第一巻「誤った発心(ほっしん)」の章を講義しており、とりわけ地獄の恐ろしさを、巧みに説いていたのでした。 「人間の心には、三毒(さんどく)、つまり貪欲(とんよく=むさぼり)・瞋恚(しんに=いかり)・愚痴(ぐち=おろかさ)の三つの煩悩があり、それらを増長させていくと、さまざまな悪行をはたらくようになるものじゃ。また、悪行をはたらけば、その報いが必ずあるという因果の道理を信じない者は、仏の道を学ぼうなどとは思わないから、ついには恐ろしい地獄に堕ちなければならぬ。地獄には、八寒八熱の地獄があり、また、その人間が犯した罪に応じて、火あぶりや釜茹(かまゆ)で、鋸引(のこぎりび)き、剣の山など、罰の種類が決まるのじゃ」。 白隠は、因果の教えと、想像を絶した地獄の苦しみのありようを耳にして、「自分はトンボを殺したし、チョウチョの羽もむしった。その報いで地獄に堕ちるのは間違いない」と思い、そして身の毛もよだつような恐ろしさを覚えたのでした。 幼い頃の、この地獄についての原体験は、白隠の生涯の方向性を決定づける、大きな影響力がありました。 ある日、母と五右衛門風呂に入りました。下から薪(まき)を燃やすので、お湯はゴウゴウと音を立て、底から熱い湯が体をさします。白隠は、地獄の釜攻めを思って、激しく泣き出しました。そんな白隠に、母は、「西念寺(さいねんじ)の天神様を拝みなさい。天神様が助けてくれるよ」と教えました。白隠は、天神様の画像の前で線香をあげて、「地獄から逃(のが)れたいという願いを聞き届けてくれるのなら、線香の煙をまっすぐ上げてください」と念じると、一筋の香煙がまっすぐ上昇していきましたが、風が吹くと、すぐに煙も揺らいでしまいます。白隠は、天神様の力をもってしても地獄から逃れられないのかと思うと、いよいよ恐怖が大きくなりました。 禅僧になった白隠 十五歳になった白隠は、臨済宗の松蔭寺(しょういんじ)の単嶺(たんれい)和尚の下で出家し、慧鶴という名をもらい、仏道に励みます。 が、白隠が十九歳のときのこと。唐の天才的な禅僧・巌頭(がんとう)が、盗賊に首を斬られて「痛い」と叫び、その叫び声が数里に響きわたった、という話を聞いて、ひどくショックを受けます。巌頭のような悟りを開いた高僧でさえ、現世(げんせ)において盗賊の難を逃れられないなら、自分のような者は地獄の苦しみから逃れられまい。ならば、いくら仏道に励んでも無益なのではないか。こうして白隠は、底なしの「疑惑地獄」に堕ちこんでいきました。 その後、白隠は、落胆する気持ちを奮い起こして行脚(あんぎゃ)に出ます。さまざまな禅の師家(しけ)に道を求め、経典や書物、特に詩文を読んで研鑽しました。もちろん、迷いに翻弄(ほんろう)される日々でもありましたが、この期間は、白隠にとって、決して無駄なものではありませんでした。心の振り子が左右に大きく揺れれば揺れるほど、人生の内省は深くなるものです。 こうして白隠は、次第に仏道を一途に歩み、師家(しけ)から与えられた禅の公案(こうあん=祖師たちの悟りにもとづいた、禅の問答や問題)にも真摯に取り組み、ひたすらに悟りを求めるようになっていったのでした。 地獄の恐怖を克服 白隠二十四歳のとき、英巌寺(えいがんじ)の性徹(しょうてつ)和尚による『人天眼目(にんでんがんもく)』の提唱を聞きに、その門をくぐりました。そして、死を覚悟し、寝食を忘れて坐禅に徹し、公案の工夫をしていたある晩、暁(あかつき)の鐘が「ゴーン」と響き、その刹那(せつな)、天地と自己が一つになって澄み渡り、大きな歓喜を得ることができました。白隠はそのとき、「巌頭はまめ息災(そくさい=元気であること)であった」と叫んで大笑いします。巌頭は大悟したとき、すでに生き死にの恐怖など超えていたのだ、だから殺されたとき、「痛い」と全身全霊で叫んだのだ。その大声は、死そのものと一体化した境地の現れであり、地獄の恐怖など皆無であったのだ、と感じ入ったのでした。そして正受(しょうじゅ)老人の辛辣(しんらつ)極めた接化(せっけ)のもとようやく許され、四十二歳のとき、白隠最大の転機が起こります。ある晩、『法華経』を繙(ひもと)いて「譬喩品(ひゆほん)」を読んでいたときのことです。コオロギの鳴く声を聞いて、今までの疑念が氷解し、あまりの喜びに号泣しました。白隠の修行は、ここに大成されました。 わが心が作り出す地獄 白隠が、地獄を克服した悟りの体験を、誰にでもわかるように著したのが『坐禅和讃』です。「一座の功(こう)をなす人も 積みし無量の罪ほろぶ 悪趣(あくしゅ)いずくに有りぬべき 浄土即ち遠からず」とあります。短い時間でも坐禅に打ち込めば、その力によって妄念を打ち消すことができ、悪業も自ずと犯すことがなくなる。地獄などに堕ちることはないし、それどころか即今、浄土が現れると断言しています。 その後の白隠は、この世を去るまで、松蔭寺を基点に東奔西走(とうほんせいそう)。「いかに地獄の恐怖から人々を脱却させられるか」が、白隠のテーマになりました。 白隠は慈悲心をもって、その人その人にもっともふさわしいやり方で地獄を出現させ、それを克服する禅道を教えました。こんな話があります。 ある日、織田信茂という武士が、白隠に「地獄や極楽はどこにあるのか」と尋ねます。すると白隠は、「地獄や極楽がどこかなどと迷っているとは、そのほうは腰抜け武士だな」といいます。武士は頭にきて「謝れ、謝らなければ斬るぞ」と刀に手をかけました。白隠は身を翻(ひるがえ)し、逃げます。武士は「逃げるとは卑怯だぞ」と、刀を振りかざして追いかけます。 まさに一打ちにしようとしたそのとき、「そこが地獄じゃ!」と、白隠の一喝(いっかつ)。武士は一瞬、石のように動けなくなり、刀を納め、頭を垂れて、「一時の怒りが身を滅ぼす。これこそ地獄だとわかった」と心から詫びました。白隠はにっこり笑って、「それ、そこが極楽じゃよ」。 白隠がこの武士に教えた地獄は、来世の地獄なんかじゃない。一瞬の心の濁りが、自己を見失わせ、地獄を出現させるということを直視させたのです。死後、地獄があるとかないとか、誰にもわかりはしない。そんなことよりもわが心によって地獄を作り出してしまう、そのことに気づいてほしいと、白隠はいっているのです。 他者のため、自ら地獄に下る 最後にもう一つ逸話を紹介します。松蔭寺の門前にあった大きな家の娘が、使用人とあらぬ仲となり、とうとう妊娠しました。娘は厳格な父を恐れ、「相手は白隠様です」と嘘をつきます。父は怒り、赤子が生まれると松蔭寺に殴りこみ、「偉い坊さんだと思っていたがとんでもない奴だ。さあ、この赤子を引き取れ」と、白隠に赤子を押しつけ、ものすごい剣幕でののしりました。しかし白隠は「ああ、そうだったのか」というだけで、赤子をわが子のように抱いて育てはじめました。 白隠のそんな姿に、娘は申し訳なさでいっぱいになり、父に真実を告げました。父は驚き恥じて、白隠に謝罪します。が、白隠は「ああ、この子に父親がいたのか」といっただけで、赤子を返したといいます。嘘をついた娘、怒り狂った父、どちらもそれぞれの「地獄」の真っ只中(まっただなか)にありましたが、白隠は、一言も弁解せずに赤子を引き受けることで、あえてこの父娘とともに地獄を歩んだのでした。 柳田聖山(やなぎだせいざん)氏は、「地獄に気づいた人は少ない。真に地獄を脱した人はさらに少ない。まして他のために地獄に下った人はまれである」と白隠を評しています。この言葉ほど白隠にふさわしい至言はありません。 |
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