母殺しの少年と
    赤ちゃんポストに思う
浄土真宗本願寺派・称名寺住職 本多隆朗(ほんだ たかお)
(2007年『大法輪』 8月号より抜粋)

 
   
  母殺しの少年
 もう1ヶ月ほどになるが、その事件は、5月の第2日曜日の母の日を終えた3日後、福島県警会津若松署に、高校3年生の少年が、タクシーで乗りつけて『母親を殺した』と自首したことが始まりだった。
 午前7時、署員が事情聴取をしたところ、ショルダーバッグから母親の生首が出てきた。署員は驚愕(きょうがく)するとともに、少年の自宅に駆けつけ、2階で首のない遺体を見つけ、少年を殺人容疑で逮捕した
 このニュースが報道された時、誰もが驚き、なぜ? どうして? どうなっているの? とテレビのチャンネルをまわした。テレビは、ワイドショーが連日、詳細に報道し、新聞や週刊誌も、大きく紙面を割く日が続いた。時間が経過し、事実が明らかにされる中で、「うちの子とは違う」と誰が言えるのだろう
 少年は、両親、祖父母、兄弟との7人家族の長男で、進学のために次男と実家から約40キロ離れたアパートに住んでいた。少年が通う県立高校は、県内でも有数の進学校。また、父は団体職員、母は保育士で、週末には少年の家事の世話のため、アパートを訪れていた。母は明るくまじめな人柄と評判で、殺害される前日も、夕刻まで保育所で働いていた。「母は愛情をたっぷり注ぎ、常に少年とよりそって生活していた」らしい。少年も中学時代はスキーの選手で活発な一面もあったが、高校に入って異変が起り始め、3年時にはほとんど学校に行かなかったようだ。そして母の47歳の誕生日の日、少年は寝ていた母の首を包丁で刺して殺害、しかも右腕を斬り落として塗料で白く塗って室内の植木鉢に突き刺していた。おぞましい、恐ろしい、背筋の氷るような犯罪である

少年達の「心の闇」
 私は10年前の神戸連続児童殺傷事件を思い起こした。それは1997年5月24日、偶然とはいえ5月。少年A(当時14歳)は、小学校6年生の男児を殺害し、その生首を自らが通う中学校の正門に置くという、この事件も驚きの凶行であった。
 共通するのは、犯人が10代であり、生首を持ち歩くという常識をはるかに越えた事件であること。今年は平成19年、2007年、21世紀だ。江戸時代ではない。江戸の頃は、確かに、打ち首の刑はあったし、武士の果たし合いで首を斬って持ち歩くことも多くあったかもしれない
 時代は変わった。電化製品で家庭生活は、はるかに楽になり、終夜営業のコンビニでは、ちょっとしたものなら、なんでも揃う。そのうえテレビ・ラジオは終夜放送だし、Eメールは間断なく発着信し、携帯電話は任意な時間に雑談でき、パソコンの電源を入れれば、インターネットに繋がって、世界の情報に接することができる。そんな超近代的な中で、子供が子供の首を斬り、子供が母親の首を斬って持ち歩く姿を想像するだけで、時計の針が数百年遡った錯覚を覚えるし、少年達の「心の闇」は深くて暗い。
 筆者は僧侶の一人として、「心の闇」に少しでも光をあて、多くの少年達の心の不安を解消できる一助になればと思い、この事件を冒頭にとりあげてみた
 戦後60年を過ぎ、日本は物が豊富にあり経済的にも世界のトップクラスに成長した。それに反比例するように、日本の家庭が崩壊し、心の拠りどころが見えなくなってきた。核家族化や転勤社会、東京一極集中など、原因は多岐にわたり、女性の社会進出、父親の不在、晩婚化や高齢者の急増、介護問題等、その根は大きく拡がっている

『盂蘭盆経』の教えを少年
 8月は関西を中心に、お盆の行事が数多くある。今年、初盆を迎えて、親しい人の別れを改めて、涙しておられる方も、筆者の周辺には、例年以上に多い。高齢者が順番に往生されていく場合、当然のこととはいえ、悲しみは、時間とともに薄らぐが、夫や妻、子供や孫など逆縁の別れは、悲しみは簡単に癒されない
 以前は三世代同居や大家族で「死」を身近に体験することができたが、近年は形態が大きく変わった。家で死ぬのではなく、病院で死を迎える。「死」が遠くなったと言える
 40億年以上も経過している地球の生命からみれば、人間の生命はまばたきのように短く、親子の縁(えにし)がほんのちっぽけなひとときと言える。それだけに家族の縁は非常に尊いものだ。その家族が崩壊していく日本人が、何をどのように依りどころとして生きていくのか、現代社会が苦悩している
 『盂蘭盆経(うらぼんきょう)』には、「三宝(さんぽう)」の尊さに気づき、帰依するのだと説かれている。夏のお盆は、『盂蘭盆経』に由来している。教えが伝わる過程で、各地のさまざまな習俗と融け合い、宗教儀礼として今日に至っている。盂蘭盆という言葉は、梵語「ウランバナ」の音訳で、倒懸(とうけん=逆さ吊り)と訳されており、目連尊者の母親が餓鬼道(がきどう)に堕ち、苦しむありさまを言い表したものとされている
 『盂蘭盆経』の内容を要約すると、釈迦の弟子に神通(じんずう)第一といわれた目連という聖者がいた。神通力(じんずうりき)とは普通の人間には、見ることも聞くことも知ることもできない世界を見聞できる不思議な能力。目連は超能力を得て、最初にしたのが、今は亡き母の行方を探すことだった
 深い禅定に入って精神を集中して探していると、餓鬼道に苦しんでいる母を見つけた。そこにはやせ衰え、見る影もない母、食べ物も飲み水ものどを通らず、死ぬことさえも許されない母の姿を見て、急いで食べ物を母の口に近づけると、食べ物は焼けて炭になり、水は口に入ると炎となって口を焼き尽くした。救おうとすることが、かえって母親を苦しめる。目連は自分の力のなさに号泣しながら、釈迦の許へと行った
 釈迦は「世の母は皆、わが子を育てるために、人知れず、さまざまな罪を犯さねばならない。その罪を背負って苦しんでいる母を救うことは、その母の愛情に、はぐくまれ育てられた子供の責任である。しかし、この母を救うのに、目連の神通力では不可能。それが出来るのは、仏・法・僧の三宝の威神力(いじんりき)だけである。そのためには、3ヶ月にわたって行われた雨期の安居(あんご=修行僧達が一所に定住して修行すること)が終わった7月15日(新暦の8月15日)の自恣(じし)の日に、すべての修行僧達に供養を捧げることです」と教えられた。自恣とは、修行僧達が集まって行う反省会のことで、安居の間に犯した罪を、互いに指摘しあって懺悔し、身心ともに清浄になって心から喜ぶこと。 目連は釈迦から教えられた通りに、母が残していった財産のすべてを、食べ物や果物や灯明や衣などに替えて修行僧に施し、母も目連の勧めに従って三宝に帰依した。  こうして餓鬼道の苦しみから、解放された母と子は、歓喜し、釈迦に「三宝の神通力によって、お救いにあずかることができました」と御礼を言ったという話。その歓喜を表す踊りが盆踊りとして各地に伝わり、今日では盆行事の中心的な存在となってい
 『盂蘭盆経』に学べば、超能力や物質だけでは、人を本当に救うことができない。母が救われたのは「三宝の功徳力」。三宝とは、仏陀(ブッダ、真実に目覚め、人々を目覚めさせる力)と、教法(ダルマ、仏陀が人々の歩むべき、まことの道を説き示された教え)と、僧伽(サンガ、仏陀のみ教えにあって、真実の道を歩みつづける修行僧の和やかな集い)の三種。これこそ、万人の心の依り所で、心豊かに人生を全う出来る最高のもの
 この三宝をとりあえず17歳の少年に話してあげたい。今夏の初盆を留置所で過ごすであろう彼、そして彼の祖父母や父親それに弟はどんな思いでお盆を迎えるのであろうか。一番大切な母親を救うために三宝に帰依するのが、人の道、その大切な母を殺害した少年。地獄・餓鬼・畜生の三悪道すらはみ出た畜生にも劣る行為に、法律の裁きだけで終わっていいものだろうか

五濁の現代を克服する
 2007年夏は、洪水のように茶の間に映し出される事件や事故、酷税(こくぜい)が庶民を直撃し、年金問題で老後の不安がますます増し、自殺者が年間3万人を超える中で、家庭の崩壊、家族の孤独感が深まっている。『阿弥陀経』にある五濁(ごじょく)の世界と言える
 五濁とは劫濁(こうじょく)・見濁(けんじょく)・煩悩濁(ぼんのうじょく)・衆生濁(しゅじょうじょく)・命濁(みょうじょく)をいう。劫濁とは、時代そのものが濁っていることで、疫病や飢饉などがひっきりなしにおこる乱世のこと。見濁とは、真理に背く邪な見解がはびこり、正しい道理が覆い隠されている状況。煩悩濁とは、真理を知らず、すべてを自己中心的に見ていく無知(愚痴=ぐち)によって、自分の都合のいいものには愛欲(貪欲)を起こし、都合の悪いものには憎悪(瞋恚=しんに)を燃やしていく心の濁り。衆生濁とは道義的な頽廃によって、精神も体力も衰弱し、人々は無気力な状態になり、苦悩ばかりが深くなること。命濁とは生き甲斐を感じられなくなり、寿命が次第に短くなっていくこと
 これらはピタリ今の時代にあてはまる。人々の身も心も環境もすべてが濁りきった五濁悪世の現実を直視して、ひとりひとりが克服していく必要がある。しかしそれは至難の道だが、不可能を可能にしようと志す生き方が、仏道であり、大乗の菩薩道だ。五濁を浄化して、生きとし生けるすべてのものを、邪見と煩悩の束縛から解放し、安らかな浄土にあらしめようと、浄土の建立を願う、願うべきことを信知して、阿弥陀仏を念ずる。浄土真宗の教えが、現在を救う、苦悩を救う時代の道標とも言える

赤ちゃんポストと親鸞聖人の「自然(じねん)
 先頃、病院に「赤ちゃんポスト」が設置され、3歳の子供が早速入れられたという報道があった。赤ちゃんを捨て去る親が増加し、考案され、欧米では機能しているらしい。いかにもヒューマニズムに支えられたシステムだが、私には赤ちゃんがハガキか小包扱いをされているようにしか思えない。親がいながら親に捨てられる子供は、存在してはならないという、動物の根本に関わる大問題だ。誕生した子供の命は、母の手にゆだねられる。それが人間教育の原点ではないだろうか。母に抱かれて子供の感性が育つ。理屈の世界ではなく「自然(じねん)」の世界だ。赤ちゃんポストに入れられた子供は、物理的に生命を維持出来るが、人間としての心の命が育たない。親が子供を育てる。母が子を抱く、このあたり前の大切さを拡げねばならない。わが子を抱きしめるはたらきが、わが計らいを越えた「自然」なのだ
 わが子を赤ちゃんポストに放置するのは、わが計らいそのもの。西欧文明は、ヒューマニズムは、自己中心的で非常に危なっかしい。浄土真宗の宗祖、親鸞聖人は、88歳の晩年時に、最も円熟した他力思想を述べられている自然法爾(じねんほうに)章を著された。本文では「自然(じねん)といふは、自はおのづからといふ。行者のはからひにあらず。然といふは、しからしむということばなり」とある。自分の自は、みずからと読み、自分の意志で決断して動いていくことだが、自然(じねん)の自は「おのづから」と示されており、自分の意志よりももっと深いところから、そうせずにはいられないということ。それは私と同じ次元のものではなく、もっと大きなもの、それ自体が働きかけて、せしめられる世界に「おのずから」という。おのずからとは、もはや自分で止めることのできない、ただ、如来の働きに然(しか)らしめられていく世界。もう少し分かりやすく言うと、阿弥陀如来のご本願の力で、自然(じねん)に救われるということ
 赤ちゃんはしぜんに生まれたのではなく、動物の営みを越えて、両親の願いによって生まれてきた。両親の大切な生命であると共に、大いなる生命、仏の命ともいえる。その仏の命を、わが計らいによって赤ちゃんポストに入れる。子供の命を奪う。あまりにも自己中心的になってしまった現代。赤ちゃんポストでなく両親ポストを作って、子供を捨てる親の再教育をする必要がある。10代の少年達には、合掌させる宗教教育を家庭でしつける。感謝の心を育てることで、ハンカチ王子やハニカミ王子のように、素直な少年達が、もっともっと世に出てくる「自然(じねん)」の時代到来となるのだ。