子どもにわかる「たんにしょう」
草加市・超光寺住職  七里 順量(しちり・じゅんりょう)
(2002年『大法輪』9月号より抜粋)

 
 

■歎異抄

 いまから八〇〇年ほどまえの鎌倉時代の人「親鸞聖人」のすばらしさは、『歎異抄』という本にのっています。「歎異」とは違いを悲しむの意味で、自分の先生「法然上人」から聞いた仏さまの教えをかんちがいした人がいることを悲しんで書かれたのです。教えの細かいところを分かり易く説いている部分と、聞き間違いやすい所を詳しく説いている部分があります。では、勘違いはどうしておきるのでしょうか?

■仏教

 二五〇〇年まえ、インドのお釈迦さまは社会で生活する上で必要な考えかたや、大切にしなければならないこと、本当の物の見かたを教えてくれました。その教えかたはその人に合わせて説かれ、「対機説法」といわれています。その人の性格や素質や教養の段階に合わせて、さまざまな言葉やいろんなたとえ話で説かれています。人間にはいろんな人がいて、学者のような理論が好きな人や、理論を好まないけれど感覚によって理解する人、また、体を通して理解する人などさまざまです。
 何万人というお釈迦さまのお弟子には、それこそたくさんの種類の人がいます。それは、お釈迦さまの教えが、その人その人にあわせて説かれたことを示しています。

■法然上人

 親鸞聖人の先生である法然上人は、親鸞聖人をはじめ多くの弟子や一般の人々に念仏(南無阿弥陀仏)の教えを説きました。修行としての念仏は昔から実行されていました。しかし、修行という面で一般の人には無理ということになりますし、また念仏をたくさんとなえるほど良いという考え方もありました。だけれども、たくさんとなえられる人はいいけれど、限られた年数(一生涯)では多い少ないが出てしまいます。
 法然上人の念仏は、一声の念仏の中に阿弥陀如来の全部の功徳(仏になる条件)が入っているという教えです。私が仏になろう、悟りを開こうと思う心「菩提心」(インド語のボディーチッタ)も入っています。悟りを開くために必要な修行の内容全部が、念仏の中に入っています。だから、法然上人がとなえる念仏も、親鸞聖人がとなえる念仏も、誰かがとなえる念仏も、私がとなえる念仏も、みな同じ功徳が入っているのです。
 その人の身分や職業や生まれによって尊いのではなく、念仏の功徳はどんな人にも平等で、そして同じ仏の悟りに向かって生まれていくのです。生まれていく世界を、清らかの国という意味で「お浄土」といいます。私たちの世界は、怒ったり泣いたり、嘘を言ったり悪口を言ったり、不満や“いじめ”などさまざまににごっています。そして少なくとも「ものの命」をうばわなければ生きていけない世界です。その生き方を「悪人」と名づけ、私たちが普通と思っている生き方に、大きな反省の心を伝えています。

■嘆き

 このすばらしい仏への道を多くの人が聞いて喜んで、念仏をとなえてるようになりました。しかし、人間は人から聞いたことを勝手に思いこむことも多いのです。法然上人は一日に八万回も念仏をとなえたそうです。これを見た人はたくさんとなえる方がいいと勘違いします。でも実は、それだけ多くとなえるのは「いつも仏さまと一緒にいることがうれしい」ということだったです。また身分階級がきつかった時代でしたので、違う身分でも同じ「お浄土」に生まれることがなかなか受け取りにくかったこともありました。
 そんななかで、教えを自分の都合で勝手に考え違いをする人が出てきました。そのことを不安に感じた親鸞聖人は、正しい仏教の教えを書物「教行信証」にまとめました。そしてこの『歎異抄』は、親鸞聖人がつねひごろ口にしていた話を、弟子の唯円がまとめ書きとどめたものです。念仏の教えが間違って受け取られないように。仏教の教えは、すべての人に大きな安心を伝える教えであることと、仏さまはいつでもどこでも私と一緒にいてくれることを伝えています。私たちも唯円さんが書き残した『歎異抄』に感謝しています。すばらしい教えが間違って受け取られませんように、素直に教えに耳をかたむけましょう。

■人間

 人は立派な生き方を目指して、学校や社会で勉強して人間を高めています。そして、努力して我慢して人間は仲良くしようとします。自分のやりたい放題では他の人に迷惑がかかると、一生懸命「良い子」でいようと努力します。すばらし生き方ですね。でも努力をやめたり我慢ができないとき、私たちは怒りが爆発したり、友達や兄弟をいじめてしまったりします。どちらが本当の私なのでしょうか?
 もし人間が本当にすばらしい生きものなら、この世から戦争も殺し合いもなくなります。もし人間に本当の「愛」(仏教では慈悲という)があるなら、いろんな差別やいじめはなくなります。もし人間に本当の相手を敬う心があったら、この世は真に自由な世界が開けるはずです。でも現実はそうではなくて、戦争と差別不平等と自分の欲望で多くの人を傷つけて生きています。
 このことに気がついて正しい生き方をした人もたくさんいますが、条件や環境やさまざまな場面で、人は本来歩む道を踏み違えてしまいます。どちらが本当の姿なのかよく分からなくなってしまいます。

■自分

 本来の自分の姿に気づいても、社会や世間はそのままを歩かせてはくれません。本来持っている動物としての人間からも逃げ出すことはできないようです。もののいのちを食事といって食べています。大自然に生かされていながら自然を破壊しています。正直に生きていきたいけれど、時には嘘を付いて、つい自分を良い子に見せようとします。そんな自分に気がつくとき、はっきり言っていやになります。
 でも、良い子でいられる自分と、我慢できない自分やどうしようもない動物としての自分の両方で、実は人間なのです。それを親鸞聖人は「悪人」と表現しています。悪人の自分は、表面では善人になろうとしますが、時折見せる本来の自分があるかぎり、自分を「悪人」と言っているのです。

■悪人

 『歎異抄』で一番有名な言葉は、「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」というものです。そのまま訳すと「善人でもお浄土に生まれていくのだから、悪人はいうまでもない」となります。怒りや欲ばりやいじめる人がお浄土に生まれるとは、いったいどういうことなのでしょうか。もしそうなら、良い子でいる人は損な気もしますね。この損な気持ちとはどういう気持ちでしょうか?
 本当の自分と向き合うことはつらいことです。一人で机に向かって考えてみましょう。鏡に向かって本当の自分を探しましょう。一生涯をかけて自分に向き合った人が親鸞聖人でした。そして、本当の自分が見えてきたのです。「悪人である」と。我慢できない姿が本来人間の姿なのではないか? だからこそ人は努力して生きていくものなのです。
え・佐古井美江子

■仏さま

 この親鸞聖人の言う、善悪の両方を持っている「悪人」は、ちょうど水に浮いた水風船のようです。しかしこの風船は、表面はきれいでも中に「悪人」という黒い水がはいっていて、中には水に浮く風船もありますが、ほとんどは水に沈んでいます。
 人間の数ほどの水風船を助ける方法は、いくつかあると思います。まず、黒い水を清く美しい空気に変え自分で浮かび上がる方法もあります。ひとつずつすくい上げる方法もあります。しかし、深く沈んだ風船はたいへんです。
 親鸞聖人の出会った仏さまは、そんなずっと深い所の風船も、大きな網で引き上げることができる仏さまです。黒くにごった風船を見事にすくい上げることのできる仏さまの力は、そうとう大きく力強いものです。この力ならどんな重い風船でも引き上げることが可能です。私のような「悪人」だらけであっても、ちゃんと仏=悟りの人になることができます。

■安心

 仏教の教えは、すべての人に「だれでも完成した仏(悟りの人)に成る」ことができる大きな安心と、そしてつねに私のそばに付いていてくれる仏さまとして安らぎを伝えています。いまは黒い水であっても、一生真っ黒の水であっても、阿弥陀如来は黒い水をさわやかな空気に変える力で私を包んでいてくれます。
 自分の「悪人」が見えるとき、欲に目がくらんだとき、食べ物を粗末に扱ったとき、人の悪口を言ったとき、友達を助けてあげられなかったとき、みんなで一人をいじめたとき、そんなときそばに来て涙を流しているのが阿弥陀さまです。でもそんな「悪人の私」を大好きなのが阿弥陀さまです。みんなを自分の子どものように思ってくれているのです。
 「悪」が重ければ重いほど阿弥陀さまの力の大きさを知ることになります。「悪」が深ければ深いほど阿弥陀さまの力強さを知ることになります。こんな「悪人の私」でも救われているのですから、私以外のすべての人を敬う気持ちを持つことができます。みんな阿弥陀さまから愛されている人であると。私以外の世界中の人々と共に理解し合える世界を作ることができます。ともに阿弥陀さまと手をつないでいる人々と思えるから。
 「悪人の私」という気づきは阿弥陀さまが教えてくれました。親鸞さまを通じて「いつもそばにいてくれる南無阿弥陀仏」と伝えてれくれました。親鸞さまも一生涯「お念仏」をとなえた人でした。「悪人」の自分を大好きな人でした。だって阿弥陀さまと一緒に生きることができるからです。だって一人の寂しい人生ではなくなったからです。だっていつも私のことを大切に思ってくれる阿弥陀さまがここにいてくれるからです。南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏。