| 坐禅についてのQ&A |
| 福岡市明光寺専門僧堂師家・山口市泰雲寺住職 関口 道潤(せきぐち どうじゆん) |
| (2003年『大法輪』9月号より抜粋) |
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◆自分が自分にサービスする
=自受用三昧(じじゅゆうざんまい) 蟻(あり)がナズナの花を見上げて言った。 「あなたはどうしてこんなに大きく堂々と咲いているのですか」 ナズナが答えた。 「私はむかしから、こんなふうに芽を出して、こんなふうに咲いているだけだよ」 そこへ青年がやってきて、無造作に生えているペンペン草の垣根を見て言った。 「ここは花さえ咲かない荒れ地なんだ」 次に松尾芭蕉(ばしょう)がやってきて一句を詠(よ)んだ。 「よく見れば薺(なずな)はな咲く垣根かな」 今日の我が国では、高学歴杜会、高度に進化して細分化された科学技術社会、情報管理社会となっている。こうした時代に生きる現代人には、ナズナをなんと偉大ですばらしい花と見上げた蟻の気持ちや、ナズナが自分の生命を当たり前と表現した心根は理解しにくいかもしれない。 しかし芭蕉はさすがに永遠の生命を見つめていた大文学者、大哲学者であり、花は決して桜やボタン、バラや椿(つばき)に限らない。花にとっての生命力、命のサイクルの偉大さを、その可憐な花弁から読み取った。 学問や勤務先の仕事に熱中し、それで満足できる人、それを自らの人生と受けとめることのできる人はそれでいいが、一度しかない人生、掛け替えのない一生を、なんとしてか「ああ生まれてきて良かった、こんな人生なら何度でも生きてみたい」という自覚の生命を感じ取り、その実感の日々を送りたいと願う、目覚めた人たちは、自己の人生への開眼(かいげん)を試みないわけには行かない。 仏教の言葉に昔から「他人にサービスする行ない=他受用(たじゅゆう)」と「自分自身にサービスする行ない=自受用(じじゅゆう)」の二つがある。道元禅師の『辨道話(べんどうわ)』の冒頭に、「諸仏如来、ともに妙法を単伝(たんでん)して、阿耨菩提(あのくぼだい)を証するに、最上無為(むい)の妙術あり。これただ、ほとけ仏(ほとけ)にさづけてよこしまなることなきは、すなはち自受用三昧、その標準なり。この三昧に遊戯(ゆけ)するに、端坐(たんざ)参禅を正門(しょうもん)とせり」とある。 ここでいう阿耨菩提とは「無上正等覚(むじょうしょうとうがく)」などと訳すが、「この上もない生き方=他人と比較しない人生」めこと。それが結局のところ「ナズナがナズナの花を咲かせる」ことを自己の命とし、桜が桜の花を咲かせることを自己の命としている「自受用三昧」の世界だというのが道元禅師の意図するところらしい。 ところが私たち人間は悲しいことに、自分の人生を他人と比較し、競争して優越感や、劣等感を持つことを訓練しすぎている。この必要悪から過剰に訓練された自己の人生を、一時的にまったく放棄して、ただ自分が自分のためにのみサービスする行―これが仏教で長く伝承され、磨き抜かれてきた坐禅なのだ。 その坐禅も決して何かのためにするのではなく、ただナズナがナズナの花を当たり前に咲かせている世界=ただひたすら(祇管(しかん))に坐る(打坐(たざ))坐禅なのだ。 ◆坐禅の実際 ―身を調(ととの)え、息を調える 参禅というのは本来、手を組み、足を組んで姿勢を正して坐ること、全くそれだけのこと。坐禅は静かなところが好ましく、坐蓐(ざにく)(少し大きめな坐布団)を厚く敷(し)くものだ。風が吹きつけたり、雨露の心配がないようにして、落ちついて身のおける場所を確保したい。 かつて釈尊は金剛の上に坐り、岩の上を坐所としたというが、もちろん、それぞれに干し草を厚く敷いて坐っていた。坐る場所は明るくし、昼も夜も暗くてはいけない。冬暖かに、夏涼しいというのがその心構えと、なる。 坐禅の時は、杜会的地位、対外的評価、自身の人生の問題、教養や感情の問題、杜会に対する義務の問題など、あらゆるものを棚上げにしてしまう。 なすべき善事も考えず、厭(いと)うべき悪事も思わない。人間の生理的状況も心理的状況も、これを問題とせず、宗教的理想や、自己の悟りのことも顧みてはならない。坐禅にはどんな種類があるかということも心にかけないで、飲食(おんじき)は量を知り、人の世の時間が短いことを肝に銘じておきたい。頭についた火を払うように坐禅を好みたい。 坐禅は坐蒲(ざふ)(丸く厚い坐禅用の布団)を用いて行なう。坐蒲は組んだ足の下に敷くのではなく、組んだ足の踵(かかと)より後ろ、つまり尻の下に敷く。だから組んだ足の下は坐蓐に触れている。背骨の下は坐蒲となっている。こうした坐り方が、釈尊及びインド・中国・日本と伝承された歴代祖師の坐法なのだ。 坐り方には、半跏趺坐(はんかふざ)と結跏趺坐(けっかふざ)の二通りがある。結跏趺坐は、まず右足を左足の腿(もも)の上にのせ、左足を右足の腿の上に持ってくる。足の先は左右均等になり、長い方や短い方があってはならない。半跏趺坐の場合はただ左足を右足の腿の上にのせる。組んだ足の上にお裟や着物の裾(すそ)などゆったりとかぶせ、さっばりと整えたい(前頁、澤木老師坐禅の写真参照)。 こうしてから、右手を仰向(あおむ)けにして左足の上に置き、左手を同じく仰向けにして、右手の上にのせる。左右の親指の先はかるく触れあった程度にし、臍(へそ)のあたりになっているのが普通だ。だから両手とも腹に近づけて置くことになる。 背筋をしっかり伸ばして坐る。体が左の方へ出ていたり、右の方へ傾くのはよくない。前の方へ背骨を丸めてはいけない。後ろへ仰ぐようでもダメだ。その姿勢は外からみると、ちょうど耳と肩とが垂直になり、また鼻と臍とも垂直になっているのが標準だ。 口はしっかりと閉じ、舌が上顎(うわあご)に触れるようになり、呼吸は静かに鼻から通う。唇(くちびる)と歯とはしっかりと付け「目はごく自然に開いている状態が好ましい。しっかりと見開くこともなく、ダランと閉じ加減になってもならない。このように身も心も整え終わったら、大きく息をして新鮮な空気と入れ換えをしてみよう。 これでいよいよ坐禅が始まる。ガッシリと坐り、自己の坐にすべてを委(ゆだ)ね、どうならなくてもよい自分を、そこに体現しているのだ。 それはオレという人間的世界をすべてやめ、息の通うに任せ、血液の循環するに任せ、思いが浮かんでも一切無関心。姿勢が乱れたら、すぐに直し、良くても悪くてもただひたすらに坐り続ける。これが坐禅の正しい在りかた。 坐禅とは決してあんたのその愚かな人間根性でどうにかすることではなく、疑うことのできぬ我が身の事実を坐に委ねるのであり、大したこともない自分がすべての価値判断を必要としない姿なのだ。 ◆坐禅についてのQ&A Q1・仏教には幾つもの入り口があり、念仏、称名(しょうみょう)、唱題、加持祈祷、戒律、観法(かんぼう)など多岐に渡っていますので、坐禅だけがいいとは限らないのでは? A・特に難しい理由ではなく、お釈迦様が座禅によって道を得、この法門を広く出家在家の弟子に示したからであり、これが仏門中心の修行だからです。 Q2・たとえば念仏したり、戒律を護れば、少しは自身が向上したり、自身の愚かしさが浮かび上ってくるのに、ただ何もしないで坐っていたら人生の無駄遣いにはなりませんか? A・今言うところの「人間的思い」で好いと決めつけ、常識的基準で悪いと判断すること=凡慮をかなぐり捨て、坐禅を生涯の行(ぎょう)と伝承する祖師に就(つ)いて参師聞法(さんしもんぽう)することが大切なのです。 仏道修行の決定的特徴は、不完全な弟子が不完全な師匠に就いて、その両者がいかにして完全な師匠と弟子の出逢いを持つかにあります。そのために黙って五年、十年の坐禅をすべきです。 Q3・一般家庭で坐禅する場合の心得は? A・まず他の家族の邪魔にならぬように心がけ、早朝などの時間に仏間、書院、書斎など適宜な部屋に仏菩薩の画像等を祀(まつ)り、八寸五分(二五センチ)ほどの線香を立て、花瓶に菊二〜三輪またはヒサカキ、シキミ等の仏花を供え、壁または床の間に向かって坐ります。 坐禅の時間は五十分位が適当です。例えば午前四時十分から坐り始め、五時になって、一旦静かに立って室内を十分程度経行(きんひん)して、五時十分からさらに六時まで坐るのも好い。 経行は立って手を揖手(いっしゅ)(揖手とは両手の甲を上に向けて胸に当てること。上の写真参照)に組み、一、呼吸につき半歩ずつ静かに歩を進め、角に来たら直角に右に身を転ずる、いわゆる歩く坐禅です。また坐禅の前後には、自分の座に対して合掌し深く頭を下げ、さらに右に身を転じて反対側にも合掌して、深く頭を下げます。これは例え自分一人で坐る場合でも、一緒に坐ってくれる仲間があるものと見なし、その仲間に敬意を表わします。専門の坐禅道場でない限り、坐る場合はそのまま壁に向かって腰を下ろして坐れば好いでしょう。 また夏場は普通の部屋なら早朝でも明るいので、照明は必要ありません。冬場なら長さ五寸(十五センチ)ほどの臘燭を点灯すれば十分です。(夜明けは季節や場所によって異なります) Q4・坐禅の服装は? A・清潔でこざっばりしたものが好ましく、例えば着物に袴(はかま)とか、脚は交差して組むので、なるべくズボン風でないものを選び、一般人でも七条の袈裟(けさ)や五条の絡子(らくす)をかけて坐るのもよい。靴下や足袋(たび)は履(は)かない。女性の場合は構造上、脚を締め付けるような下着は避けたい。 Q5・坐禅中に何か考え事が起こってきたらどう対処しますか? A・思い、考え事はアタマの分泌物です。だから思いは思いに任せ、考え事は考え事に任せて、ただ姿勢を正し、呼吸を整えて自己の正体である坐禅に帰るべきです。思い、考え事については「追わず、払わず」が古来の極意です。 Q6・坐禅中に眠くなったらどうしますか? A・平素における過度の睡眠不足、または冬や春に過度の暖房をしたり、暖めすぎは禁物です。また坐禅中に眠くなるのは呼吸の乱れによることが多いので坐禅中は必ず、しっかりと腹式呼吸に標準を合わせます。呼吸が整うか否かは坐禅の致命的な問題です。 Q7・坐禅には半跏趺坐(はんかふざ)と結跏趺坐(けっかふざ)がありますが、どちらが正しい坐り方ですか? A・いずれも古来の坐禅儀(ざぜんぎ)に示される坐法で、共に正しい坐方です。ただ長時間安定して坐るには結跏趺坐の方が無理なく坐れますので、初心者はなるべく結跏趺坐に慣れていただきたいです。 また最近、椅子坐禅もよく見かけますが、これはあくまで正式な坐法ができない人、または設備上困難な場合の特例です。 Q8・坐禅中、従来体験しなかった世界が開けたり、感激で涙が溢(あふ)れ出たり、微細な事実を認識することはありませんか? A・これらのことは通常生活ではよくあるし、また価値あることですが、もしそれを坐禅中に体験すれば妄想幻覚のたぐいです。人間的凡慮(ぼんりょ)ではなく、全てを自己の坐に委ねることを自覚の坐禅と呼び、諸仏諸祖の坐禅と言います。 Q9・坐禅の前後の準備はどうしますか? A・坐の前後には左右前後に体を揺すり、姿勢を整え、呼吸を整えることが必須です。姿勢を整え、呼吸を整えて心が整う―調身、調息、致心が大切です。 Q1O坐禅は平素どれくらいが適当ですか? A・一日に三十分、一時間でもかまいませんが、坐禅を生活習慣として持つことが大切です。 |
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