| 清澄の山に息づく聖人の魂 |
| 清澄寺別当 岡ア 日泰(おかざき・にったい) |
| (2004年『大法輪』9月号より抜粋) |
| 昨年の春、清澄寺(せいちょうじ)住職である日蓮宗管長、藤井日光猊下(げいか)より別当職を拝命し、日蓮聖人のご霊跡の中でも特に大事なこのお山をお預かりし、お給仕をさせていただいております。 お寺は南房総では一番高い三八〇メートルほどの山上にありますが、周囲を東京大学の演習林に囲まれ、谷間が深く切れ込んでいて自然に恵まれており、境内は千年杉をはじめ、樹齢数百年の杉が聳(そび)え生い茂って深山のおもむきがあります。 今は梅雨空ですから、毎日のように霧が深く立ち込め諸堂がかすんでおり、晴れ渡ったと思うと、また急に谷や空から霧が湧き出てきて杉木立を覆(おお)うという繰り返しです。朝のおつとめが終って部屋に帰ると、法衣(ほうえ)はしっとりと重みを増し、衣の襞(ひだ)を畳み込むのに苦労するほどの湿気です。 東京の谷中の寺に生まれ、浅草の寺で育った私には、見るもの、聞くことがどれも珍しく新鮮なのです。 それだけではありません。このお山にいると、日蓮聖人の息づかいが聞こえて来るのです。ご幼少の時よりこのお山を走りまわり、学問し真実の道を求められ、さらに真理を捉えて遊学から帰り、初めてお題目を唱え法門を説き始めた聖人を、それまではご遺文(いぶん)など本を通じて、あるいはご尊像や絵像を通して、はるか遠くに崇め礼拝しておりましたが、直接、肌で感じられる身近な存在になりました。 清澄(きよすみ)のお山で、お給仕する中で、私がいただいた熱烈な求道者・日蓮聖人のお姿を述べさせていただきます。 ◆若き聖人の求道の動機 日蓮聖人は承久(じょうきゅう)四年(1222)二月十六日、安房小湊(あわこみなと)でご誕生になられ、十二歳のとき両親に別れて清澄のお山に登られました。今から七百七十二年前、天福元年五月十二日といわれています。道善房を師と仰ぎ学問に励まれて十六歳の時、師匠より授戒を受けて得度し是聖房蓮長(ぜしょうぼうれんちょう)と名乗られました。 日蓮幼少の時より仏法を学び候しが念願すらく、人の寿命は無常なり。出づる気(いき)は入る気(いき)を待つ事なし。風の前の露、なお譬(たとえ)にあらず。……されば先ず臨終の事を習うて後に他事を習うべし。(妙法尼御前御返事) と仏法を学ばれますが、そこに疑問が生じてきました。 当時、清澄寺は慈覚大師の流れをくんだ天台密教のお山です。ですから当然、真言の教えも学び、加持祈祷(かじきとう)を習われたことでしょう。また当時は念仏の信仰が盛んで、清澄の山でも阿弥陀仏を祀り、お念仏も称えておられたのです。 これらを修行する中からこれが仏の真実の教えなのか≠ニいう疑問をもつようになりました。本堂に祀られている虚空蔵菩薩は智慧を無尽蔵に分け与える仏です。聖人は「日本第一の智者となしたまえ」と願をかけられました。幼いこの求道者は、必死に祈られたことでしょう。 その祈りが通じたのです。願をかけて二十一日目といわれております。 生身の虚空蔵菩薩より大智慧を給(たま)わりし事ありき。『日本第一の智者となし給へ』と申せし事を不便(ふびん)とや思食(おぼしめし)けん。明星の如くなる大宝珠(ほうじゅ)を給ひて右の袖(そで)にうけとり候し故に、一切経を見候しかば、八宗並に一切経の勝劣ほぼ是を知りぬ。(清澄寺大衆中) 聖人がのちに、身延(みのぶ)から清澄の兄弟子たちに送られた手紙の中で、その時のことを、このように述べておられます。熱血をそそいで、真実を求められたお姿が浮かんでまいります。虚空蔵菩薩が左の手に持っておられる智慧の宝珠を、ご自分の衣の袖にいただき、必ず真実を見究めることができるという自信を得て、ますます仏法を求めたにちがいありません。 仏道を見究めたいと出家した、この若き求道者の動機は何だったのでしょうか。挫折したとか、世をはかなんでということではありません。 本より学文し候し事は仏教をきわめて仏になり、恩ある人をもたすけんと思う。(佐渡御勘気鈔) 自分が学問することは、仏教を追求しきわめて、仏道を成ずることによって、ご恩になった人たちを仏道に到達できるように助けたいと思うからだ。と、ご自分の仏道修行の姿勢を、のちに述べておられます。そしてまた、 何(いか)に況(いわん)や仏法を学せん人、知恩報恩なかるべしや。仏弟子は必ず四恩をしって知恩報恩をほうずべし。(開目抄) 仏法を学ぼうとする者は、恩を知って恩に報いなければならない。仏弟子である者は、必ず一切衆生の恩、父母の恩、国の恩、三宝(さんぽう)の恩、この四恩を知って、それに報いなければならないと示されるのです。 父母の恩はもちろん、私たちは多くの人たちのお蔭をいただいて生かされています。そして山河や自然の恵みがあればこそ生きていけるのです。さらに仏法僧の三宝によって生きる力をいただいている、この四恩によって、今、私たちはここに存在することができているのです。だから、それに感謝の誠をささげ報いていくことが、仏法を学ぶ人の道なのです。 その中でも、まず一番は父母の恩愛、師匠の恩愛です。でも、その世俗的な恩愛に浸っていたのでは、真実の道を求めることはできません。父母のもとで共に生活し親孝行する、師匠のもとで訓育を受け学んでいく、という世間の制約から脱け出し、反逆をしなければ真実の法を求めることはできません。 仏法を習い極めんとをもわば、いとまあらずば叶(かの)うべからず。いとまあらんとをもわば父母・師匠・国主等に随(したがい)ては叶うべからず。是非につけて出離の道をわきまへざらんほどは、父母・師匠等の心に随うべからず。(報恩抄) 聖人は後に師の道善房の逝去(せいきょ)にあい、身延で著述した『報恩抄』の中で、このように述べております。真実の報恩をめざした、熱烈な幼い求道者の姿勢を表わした、なんというはっきりとしたお言葉ではありませんか。 ◆法華経との出会い 授戒を受けた翌年でしょうか。もうこの山では習うものはないと山を下り、当時、幕府のあった鎌倉に出て、法然や中国の善導(ぜんどう)の説いた浄土の教えや禅などを学びます。清澄で学んだ天台密教の教えで成仏できるのか、念仏を称えれば本当に往生できるのだろうか、禅によって真の成仏が得られるのか、ますます疑問を深めつつ、一度、清澄へ戻ります。 そして再び、すべての仏教の教えを明らかにしなければ、という決意を新たにして、今度は当時の仏教の大学ともいうべき比叡山へと旅立ちました。聖人二十一歳の時です。 比叡山の横川(よかわ)を中心に、園城寺・四天王寺・高野山・奈良の南都六宗などに、求道の念に燃える聖人は教えを請い勉学を重ねました。 でも、聖人は天台宗の清澄寺の出身ではあっても、ただ一介の地方から来た若き学僧では相手にされず、教えてもらえなかったようで、どんなに苦痛を感じたことでしょうか。 しかし、一切経をはじめ論文や注釈書を読み、十宗ある各宗の勝劣をくらべて、一人静かに勉学に励むことができました。文献を読み進むうちに、中国の天台大師智(ちぎ)が法華経を中心に仏教を大系づけ、日本の伝教大師最澄がその法門を学んでいることを知り、初めて聖人は師に巡り会ったと感じたのではないでしょうか。比叡に勉学に登って十年がたっています。 そして『法華経』こそ、諸学の王だと確信するにいたりました。 仏のいのちは永遠であり、時間や空間を超えて常に生きつづけており、この世に生命をいただき生かされているものはすべて、その仏の子供であって仏の慈悲に包まれている。父である仏の願いは、すべての人々を最高の教えである仏の道に入らしめて、速やかに仏に成るように願っている、と法華経は説きます。 この法華経は、久遠(くおん)の生命をもつ仏そのものです。その妙法蓮華経へ絶対に帰命(きみょう)し奉ることが「南無妙法蓮華経」です。お題目の南無妙法蓮華経を受持(じゅじ)=受け持(たも)つことは、久遠の本仏(ほんぶつ)の生命そのものをいただくことです。 救われない、成仏できないといわれていた人も、この法華経では成仏することができ、お題目を受持することで、それが可能なのだ。というところまで日蓮聖人は、法華経をつきつめてとらえました。 ◆旭が森での初めての題目 「真理を知ることができたのは自分一人だ」──仏の真意と法の邪正、悟りのお題目をつかんだ聖人は、故郷の清澄への道を胸を張って歩まれたことでしょう。初めて清澄の山へ登り、道を求めてから二十年たった建長五年(一二五三)、聖人三十二歳の春のことです。 自分がようやくつかんだ、この教えを説くべきかどうか、一抹の迷いがありました。 日本国にこれを知れる者、但(ただ)日蓮一人なり。これを一言も申し出すならば父母兄弟師匠に国主の王難必ず来るべし。いはずば慈悲なきに似たりと思惟するに法華経、涅槃経等にこの二辺を合せ見るに、いはずば今生(こんじょう)は事なくとも後生(ごしょう)は必ず無間(むけん)地獄に堕(お)つべし。いうならば三障四魔必ず競ひ起るべしと知りぬ。二辺の中(うち)にはいうべし。(開目抄) 真実の教えを言い出せば、必ず迫害を受ける。自分だけではなく父母師匠にまで害は及ぶことでしょう。 しかし、真理を見究めたのに説かなければ無間地獄に堕ちる。どんな迫害があろうと人々を導かなければなりません。「二辺の中にはいうべし」、幼い求道者が、ようやく真実をとらえたのに何という悲壮なお言葉ではないでしょうか。そして、何という強さでしょうか。 此を申さば必ず日蓮が命となるべしと存知せしかども、虚空蔵菩薩の御恩を報ぜんがために、建長五年四月二十八日、安房の国、東條の郷、清澄寺、道善之房持仏堂の南面にして、浄円房と申す者、並に少々の大衆にこれを申しはじめて……。(清澄寺大衆) 生命をかけられての立教開宗です。聖人はこの日の朝、早暁に旭が森に登られ、太平洋上に昇りくる旭日に向かわれてお題目を唱えました。杉木立の中に朗々とひびきわたるお題目にご自身が感動されたことでしょう。 そして師匠道善房の持仏堂で法門を語り始めたのです。道善房も兄弟子たちもいない数人の人たちの前で。──清澄寺とすれば迷惑なことだったのかもしれません。 果たせるかな、地頭東條景信の怒りをかい、師匠には勘当され、清澄寺から追放されるように、浄顕房・義浄房、二人の法兄の手引きで裏山から花房の蓮華寺へ逃れたといわれています。 聖人が法門を最初に説くのをなぜ清澄とし、初めてのお題目がなぜ、旭が森で旭日に向かってだったのでしょうか。それは聖人が述べた通り、虚空蔵菩薩から智慧の宝珠を授かり、真実をひたすら求め続けた答えを虚空蔵菩薩にささげ、師匠や法兄たちを法華経の教えに導くのが報恩と考えてのことです。 また自分を育(はぐく)んでくれた清澄のお山、その自然の中でという気持もあったと思います。旭が森からの展望は山並みのかなたに太平洋が広がり、刻々と変化する景色は素晴らしく、洋上に旭日が輝いて昇る光景には感動を覚えます。雲ひとつない晴天のご来光、雲間にのぞく旭日、流れる霧に霞む日輪、その変化する光景の中に太陽は昇ります。 太陽ほど明らかなものはありません。世界中をくまなく、平等に照らしてくれます。蓮華は濁りきった泥沼に、清らかな花を咲かせます。法華経の教えが太陽と同じく世界を明るく照らす教えであり、濁りきった社会に、ドロドロとしている私たちの心に、あの清らかな花を咲かせられる教えなのだと聖人は説きます。 お題目を唱え立教開宗をした蓮長は、この時から自ら日蓮と名乗られたのです。旭が森の山上で、感慨をもって唱えたお題目は、すべての人が幸せになってほしいという、仏の願いを実現すべく、世界中の人々に向かって発信した、南無妙法蓮華経なのです。 法華経の神力品(じんりきほん)に「日月の光明の能(よ)く諸の幽冥(ゆうみょう)を除くが如く、斯(こ)の人、世間に行じて能く衆生の闇を滅す」という経文があります。仏の願いを実現するには、自分が斯(こ)の人≠ノならねばならない。 「二辺の中にはいうべし」と決めた時、仏の真の弟子として、仏の願いに生きなければならない。それが末法の世に生まれ合わせた自分の使命だと覚悟されたのです。 真実をつかんで、旭が森でお題目を唱えた日蓮聖人は、仏の真理をこの世に実現させようと、また出発する |
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