| 私の出会った仏教者 後藤瑞巖(ごとうずいがん)老師の教え |
| 裏千家前家元 千 玄室(せん げんしつ) |
| (2005年『大法輪』9月号より抜粋) |
| ○三人の師匠 私には三人の道の師匠がある。もちろん茶家に生れ育ち道を極めるための師は、父である十四代淡々斎宗室である。 利休(りきゅう)以来、連綿と続く家を継ぐためには、それ相当以上の覚悟が当然必要である。そのために先ず大徳寺(千家の菩提寺)の管長のもとで修行しなければならない。もちろん僧堂に掛搭(かとう)し、一人の僧としての修行である。一応の修行後、将来家元になるという若宗匠(わかそうしょう)の格を戴く。参禅弁道し居士号(こじごう)を受ける。この関門を通過しなければならない。自分が何らかのことで跡を継ぐことを否とする場合は、この関門を肉親の者に譲ることになっている。厳しい掟である。このときの師が一生涯ついて廻るのだ。 そしてもう一人は、結婚という人生最大の人間的セレモニーの指導役割をもっていただく媒酌人ということになる。私たちの媒酌人は吉川英治先生夫妻で、単なる名義上の媒酌人でなく、何くれとなく人生の何たるかを御指導いただいた大切な方である。 ○瑞巌老師の一喝 今回は、私にとって一生涯の師となっていただいた禅家・後藤瑞巌老大師について述べてみよう。 妙心寺および大徳寺の管長をされた禅宗の最高の指導者である後藤瑞巌老大師に相見(しょうけん)したのは、昭和二十三年の十二月十日であった。そしてその後、昭和二十四年二月二十八日の利休居士毎歳忌(まいさいき)を終えて正式な入門の出会いとなる。 私は昭和十八年に戦局最悪の段階になって学徒出陣で海軍に召集され、飛行科士官として二年あまりの飛行機乗り(搭乗員)を経て特攻隊での訓練を受けたが生存し、昭和二十年九月末に復員することが出来た。そして大学生活に戻り、茶家の長男として茶道修行に新たな覚悟で出発したのである。 卒業後、大徳寺での修行のために後藤瑞巌老大師のもとに弟子入りさせていただいた。第一印象は、当代一の傑僧で学識・識見・人格すべて整ったお方と承(うけたまわ)っていたが、大喝一声(だいかついっせい)「千家の息子で戦争で生きて返って来たというような自負心が顔に出ておる。そんなもんは、ここで通用せん。顔を洗って出直してこい」と浴びせられた。ただひれ伏して弟子入りの請願をすれば、「今日はこれまで」と部屋を出てしまわれた。取りすがることも出来ず困却していると、私より先に弟子入りしていた先輩が「もう一度出直して直ぐに来なさい」とのこと。私は一目散に門を出て再び入り直して相見をお願いした。ようやく目通り叶い僧堂に入ることになる。 ○草取りの教え 僧堂の老師は小田雪窓老師で以前から顔なじみだが、今回は総て異なる。第一、千家の息子を捨て、一介の私が修行に入らなければならない。僧堂は当時人数も少なく、五、六名だったが、みんなそしらぬ顔で、取りつく島もない。軍隊で鍛えに鍛えられ、地獄まで落ちて這い上ってきた男が、情けなくなり涙をポロリ。 普通僧堂に掛搭するには、玄関での庭詰(にわずめ)を通り旦過詰(たんかずめ)に。そして、それらの関門を一週間かけて通過してこそ、堂々と新到入堂となれる。私は横から入ったようなことになり、それがために直接瑞巌老大師の直下での修行が特に認められた。何かにつけて先輩が兄貴分として導いて下さったことは、私にとって有り難いことであった。 坐禅の苦しさ、食事の少なさからのひもじい思い、これは今想い出してもよく辛抱出来たと思う。軍隊の厳しさ、死との対決の日々と比べたりしていた。自分の今日あるのは、茶道で鍛えられ、軍隊でしごかれ、禅堂での修行の三つのお陰、と今でこそ感謝するのである。 坐禅のあとは作務(さむ)で、庭掃除や薪割りやいろいろある。ある日、草むしりをしていたら背後から「あんた今雑草を抜いているだろう。どんな気持で抜いているのだ」と声がかかった。いつの間にか瑞巌老大師がおられる。私は咄嗟(とっさ)に返事が出来なかった。「いらん雑草でも、生かす雑草のために犠牲になる。すまないなあ、という気持で抜いてこそ、その草も成仏出来るんだ」と教えられたときは、その抜いていた草を自然に押しいただいていたのであった。 一年間であったが、私にとってはいろいろなことどもを身につけられた。いまだ食糧の不足の時代であり、托鉢で拝戴する米や野菜では中々まかないが足りず、手分けして、いろいろなところへお願いして分けていただいた。今もなお、もったいない有り難いと、食事のときに手を合わせながら心から感謝する日々である。 ○主人公の公案 後藤瑞巌老師が大徳寺の管長をやめられ、竜安寺の大珠院に隠栖(いんせい)されたのが昭和二十七年のことであった。 私は昭和二十六年一月に許しを得て老師から「主人公」の公案を戴き、米国へ渡ったが、その間の出来事である。 主人公とは中国の瑞巌師彦(ずいがんしげん)和尚に由来する。参禅のとき、自分を自分で「主人公」と呼び、「ハイハイ」と答える。そこに「惺々著(せいせいじゃく)」(はっきり眼を醒ましておくれよ)と語りかけ、さらに、「いかなるときも人に謾(あなど)られてはならんぞ」と言い聞かせる。そして「ハイハイ」と返事をするのが日常になった。自己の主人公に目醒め、常にその立場を明確にすることなのである。私はこの主人公を戴いて、自問自答しながらアメリカ行脚(あんぎゃ)をしたのである。 瑞巌老師が弟子の私に、「一盌のお茶をになってアメリカという国をはっきり見てこい」と訓(さと)されたことは、私にとって大きな心の展開であった。帰国後は、老師が住まれる竜安寺塔頭(たちゅう)大珠院に通参をした。院の前庭の向こうは池である。その池に向かって参禅をするのが日課であった。「枯木寒巌(こぼくかんがん)、三冬暖気無(さんとうだんきなし)」の心を求めるため、冬の寒い朝に枯れ果てた蓮池をじっと見つめつつ坐り続けたが、一向に心が開かない。老師がそんな私を背後からじっと見守ってくださっていたことなど、後で他の人から伺って老師の奥深い無言の教えに涙したのである。 東大で仏教哲学を修められ、アメリカへ布教に渡られて三年後に帰国。そして厳しい修行を重ね、妙心寺管長であったときに請われて大徳寺管長に兼務されて就坐。禅僧に限らず、他宗派の僧侶からも尊敬されていた後藤瑞巌老大師は、私を十五代家元として利休居士よりの名跡(みょうせき)を立派に継げるようにと、厳しく優しくあらゆることどもを通じて鍛えていただいた。公案が解からず襟首をもって畳に押えつけられたこと、完全無視されたことなどもあった。 老大師が遷化(せんげ)されるまでの十八年間、私は人生の生き方の大切さ、そして人間関係の重要さ、心の正しい在り方など多くのことを教えられた。そのことを有り難いことだと、今この年八十歳になって、ことさらに思っている。いま一度老大師の御温顔に接したい気持で、私の机上にある老大師の厳しい御写真を見つめているのである。 |
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