| 社会人の悩みに対して |
| 浄土真宗本願寺派勧学 中西 智海 (なかにし ちかい) |
| (2006年『大法輪』 9月号より抜粋) |
| 同僚とうまくやっていけない と悩む人へ 社会人として、同僚とうまくやっていけないという悩みをかかえておられるのは、あなた一人ではないと思います。 およそ、人間は一人では生きられない生きものであります。ですから古代より、「人間とは社会的動物である」といわれているのであります。また、ある人は「人」という字は ノ が いずれにしましても単独では成り立たない、生きられないということでありましょう。 で、あればこそ、その人と人との間にいろいろ悩まねばならない仕組みがあるといわねばなりません。 ところで、言葉にひっかかるわけではありませんが、「うまくやっていけない」というところが気にかかります。といいますのは「うまく」というのは、例えば、要領よくとか、技術的に巧みにという意味ですときわめてテクニカル、手段的な発想に聞こえてしまいます。もし、その段階であれば、その人には「人生はうまく生きる場ではなく、ほんとうに生きるべき道である」と言いたいのであります。 しかし、ここでの「うまくやっていけない」という悩みは「同僚との人間関係への適合がスムースにゆかない」、つまり人間としての「つき合い」が適正にゆかないという意味であろうと思われます。 そこで、対人関係で最も大切な基本的なことは相手と同じ目線に立つということです。つまり、相手がとてつもない優秀な人だとか地位が自分とはちがうとか、大変弁のたつ雄弁家であるとか、反対にいえば、自分はそれほどまでの能力もなく、人生経験もなく、弁もたたないからと卑屈になる必要がないということです。 仏教では、人間に対し、さらに広げていえば、あらゆる生きもの、自然をも含めて、それへの対し方の基本理念は、「縁起(えんぎ)」という真理であると説かれています。 「縁起」とは「因縁生起(いんねんしょうき)」の略語であり、すべてのものは相依(あいよ)り、相支えて成り立っているというのであります。つまり、それだけが、一人だけが単独で存在するのではないということです。 そのことを人生にあてはめて考えますと、一人だけが、あるいは相手だけが単独で存在するのでもなければ、バラバラに存在することにはならないということです。 そこで大切なことは、同僚の性質などは変わることのない、こり固まったものだと決めてかからないことです。 次のような言葉に出会いました。 「怒って鏡をのぞいたら 鏡の顔も怒ってた 笑って鏡をのぞいたら 鏡の顔も笑ってた」 あたりまえだ、というでしょうが、それがほんとうです。 つまり、相手がそのままでは、どうにもならないと思いがちですが、そこで発想の転換が必要なのです。 世界を変えよう、社会を変えよう、会社を変えよう、学校を変えようというのは誰でも言うのですが、世界を変えようと思ったら、まず自分を変えることが肝要なのです。自分を変えるというよりは、自分が変わることが大切だというべきであります。自分が変わらないのに世界を変える、会社を変える、同僚を変えるというのは発想が逆であります。 自分と相手、自分と同僚はどちらが、えらい方を先に立てて、それから他を考えるというスタイルでは問題はかたづかないのです。自分と相手は同時的存在、成り立ちが同時であると考えるので「縁起」の真理なのです。そこにお互いが語りあい、支えあい、見直しあい、働きあいの世界を構築すべきであります。 このように、本当の連帯感をもつことのできる基本的原理、つまり縁起の真理にめざめて人生を見直させていただき、それが実現できるよう努める自分を育ててゆくべきであります。 自殺を考えている サラリーマンへ サラリーマンとして生活するということは大変なことです。上司との関係、同僚とのつき合い、社会人との交渉、それに家庭生活とのバランスなど、まじめに考えれば考えるほど、さまざまな問題をかかえ、悩むことであります。 ところで、あなたは自殺を考えているというのです。 私は次のようなことを聞いたことがあります。ある高校の男子生徒が自転車に乗って、自殺を考えて走って行った、ふと掲示板を見たら「ちょっと待て」と書いてあったという。この「ちょっと待て」という言葉はどのような場面でも、どんな時にでも使える、あるいは使われる言葉です。それが、この高校生には自殺を思いとどまるメッセージになったというのです。つまり、一度、自分を見つめる契機になったということであります。 そこで、ちょっと待って一緒に考えてみたいのです。 犬が自殺した、狸が自殺したということは聞いたことがないでしょう。つまり動物には反射的行動ができても、行動について考え、悩むということがないということになるのでしょうか。それに対して、人間だけが起こす行為が自殺です。ですから自殺とは、自らの意志で自らの存在を否定するという行為です。 そうすると、自分のいのちだから、自分の意志で肯定しようが、否定しようが、自分の自由意志ではないか、ということになります。しかし、そこで「ちょっと待て」が意味があるといわねばなりません。 自分のいのちは自分のものだというとき、それはいのちは私物だという考えです。それなら、死ぬことも私物なら生まれて生きるのも私物ということになります。では尋ねてみましょう。 人は誰でも、自分の思うような場所に、思うような時代に生まれてやろうと思って生まれてきたとはいえないでしょう。さまざまな条件、因縁の中で生まれて、生きているというのがほんとうでしょう。つまり人間が生きるということの基本に、すべて自分の自由意志によって行動しようとするこころに、まず「待て」といわねばならないのです。 つまり、自分の自由意志で人生を決めるといわれますが、その自分の意志は一分のすきもない、完全100点満点だといえるでしょうか。「ちょっと待て」とは、そのことを考えさせてくれたのです。 人間は理性があるから大丈夫だ、その理性こそ動物より高度な生きものだといいたいのですが、私はいつも言います、人間は1日24時間、365日、1秒のすきもなく理性で生きているのでしょうか。私は習いました、人間とは「さるべき業縁(ごうえん)の催(もよう)さば、いかなるふるまいもすべし」(『歎異抄』第十三章)と。つまり、人間は因と縁との組み合わせで因が優性でも縁が劣性となれば、果も劣性となる。また、反対に、因が劣性であっても縁を優性に向ければ果は優性になるということなのです。 要は、人間は自分の価値判断が絶対であるとか、理性があるから他の動物よりえらいものであるとか、自分のことは自分の自由意志で決めるのは当然だという思考の枠ぐみを、もっと、広げ、深め、方向を変えた立場から見直すことのできる「柔軟心(にゅうなんしん)」「柔軟(じゅうなん)な姿勢」で人生を生きるということを身につけることが大切であるということであります。 人生における、悩みも苦しみも、すべて「のりこえる」ためにこそあると引き受けるべきであります。 そこには必ず道はひらけます。死ぬしかないと、せっかく「死」をみつめた、そのエネルギーで、「生」の重みと尊さを発見しなければなりません。そして、そのエネルギーで、「殺すなかれ、殺させるなかれ」(釈尊)のメッセージを、自らの体験をふまえて、世界に発信してくださるよう心から念願しております。 |
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