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 戒名・法名についての相談
埼玉県・東陽寺住職、仏教情報センター代表幹事  鈴木 永城(すずき・えいじょう)
(大法輪閣刊『葬儀・戒名ここが知りたい』より)
1. 戒名がなくてもお葬式ができますか
2. 生前に戒名をもらうにはどうしたらいいですか、
  また菩提寺以外の僧侶につけてもらっていいですか

3. 戒名・法名が付いてしまっても、納得いかなければかえてもらえますか
4. 犬や猫に戒名をつけてよいですか
5. 自分で戒名を付けてもよいですか
6. 夫婦で宗派の違う戒名・法名でもよいですか
7. 一度いただいた戒名・法名を格上げ、格下げすることがありますか、
  それによって「浮かばれない」ということがあるのですか


 1.戒名がなくてもお葬式ができますか
 キリスト教では洗礼を受け、洗礼名が授けられて入信の証しとなります。つまり「神の子」となるわけです。
 日本の仏教おいては・宗派によって必ずしも戒法を授けるとは限りませんが、それぞれの教義に照らして、入信の儀式を経て、戒名なり法名を授け「仏の子(仏弟子)」とする、この道筋は厳然としてあります。
 多くの宗派の場合、作法は異なるにしても、葬式の中に二つの流れが見られます。一つは授戒と、また一つは葬儀そのものです。次の問いでも述べるように、生前受けられなかった戒法を、ここでは葬式の中で授ける形式になっていることがわかります。したがって戒名や法名のない葬式は、本来は考えられません。けれども、菩提寺や住職の都合などで、式場に臨めない場合もあり、最近のように菩提寺や墓地が決まっていないまま亡くなるといったケースも多くなり、取りあえず、その場は俗名で葬式を済ませ、寺や墓地を決めてから、しかるべき僧侶に戒名をいただくといったことも、ないわけではありません。またごく少数ではありますが、仏教そのものは信じていても戒名はいらない、といった遺言などに従い、俗名のまま葬儀を執り行うといった例もあります。それは本人や家族の自由ですが、お寺や宗派のしきたりや立場からすれば、その意図がどうであっても、認められないことです。

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 2.生前に戒名をもらうにはどうしたらいいですか、
  また菩提寺以外の僧侶につけてもらっていいですか
 戒名(法名・法号)といえば、一般的に亡くなった人に付ける名だと思っている人がほとんどのようです。本来の意味を一口でいえば、「仏の教えに従って生きていこう、とする人に授けられる名前」で、作法としては、僧侶になる儀式に準じた形で行われます。ですから一般の人も、その宗派のしきたりにのっとり、戒名がいただけるわけです。仏教の考え方からすれば、もともとは生前戒名が正しいのですが、「没後作僧(もつごさそう)」という言葉で示されるように、亡くなった人にまで広く応用され、やがて、その方式が定着してしまったのです。これは生前、その機会が得られなかった人に、死後やむなく授けたことになります。何事にもルールがあり、ルールを守ることによって事がスムーズに誤りなく進むのであって、仏教徒にも当然ルールは必要です。それが「戒律」であり「戒法」とよばれるもので、この「戒=いましめ」とは、世俗の価値観を離れ、心清らかに安らかに生きていくための、いわば「道標」です。
 学校を例にとれば、そこには担任の先生や指導教授がおられます。仏教の方では「師僧」ともいって、この方から「戒法」の説示を受け、仏弟子としての自覚と誓いをたてることによって、初めて戒名が授与されます。ですから、あの世への片道キップを早目に買っておくような、そんな軽率なものではありませんし、生前に戒名をもらうと縁起が悪い、などという考えはあたりません。
 この師僧となる人の立場や資格などは、宗派によってそれぞれ定めがあります。いちばんよいのは、自分が尊敬できる僧侶からいただくことなのですが、菩提寺がある場合、生前はともかく死後において、他から与えられた戒名が持ちこめないケースがほとんどです。いわゆる「寺檀関係」が結ばれている場合ですが、宗派によっては院号は本山からという規定もあり、この点に留意してください。
 また戒名の授与は、紙切れ一枚をポイともらうのとはわけが違います。時代や宗派によって意義や形式が多少異なるにしても、お釈迦さまからの仏教の精神を受け継ぐ、尊い儀式であり、戒名は仏弟子としての名前ですから、身と心を正して臨むべきです。その寺その宗派によって、それなりの「志」を納める慣しがあることも、忘れないでください。

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 3.戒名・法名が付いてしまっても、納得いかなげればかえてもらえますか
 戒名法名を授ける僧侶の立場は、そのまま仏の世界への導師・導き手でもあります。ですから亡き人の生前を想い、後生の安楽ならんことを願って、文字の選択に真剣に取り組むべきことは当然のことです。
「戒名についての説明は避けた方がよい」といった考え方があります。なぜかといえば、せっかくの深遠な意味合いも、言葉の表現次第では半減してしまう危惧があるというのです。私個人としてはその忠告をふまえつつ、あえて説明することにしています。霊魂の滅・不滅の論議はさておき、仏弟子となってあの世に赴く亡き人の、生前はかく有り次生はかく在れかし、と限られた文字に托した一念を説くことは、遺族はもとより縁者の方々にも十分受け入れられる、と確信しております。
 ところが、大のお酒好きだった、ということで「酒泉呑海」とされては、親しみはこめられているとしても、「仏弟子」の名として適切とは思えません。また、例えば「多福」とあったからといって、これを「オタフクの面」に連想し、単純に“けしからん”と激怒してはなりません。後生は幸多かれという思いがこめられていると思えば、ほほえみをもって受け入れられるでしょう。とはいえ戒名をつける側としては、こうした点にも十分注意をはらい、いたずらに誤解はさけるべきことはいうまでもありません。
 またその戒名・法名が万が一にも差別的であったり、あるいは差別感をいだかせるものであれば、納得のいくよう善処を求めることはいっこうにさしつかえありません。その意味で、つけかえは可能です。
 ただ、好みの文字だから何としても入れてほしいとか、俗名の一字が入っていないとかの議論では、付ける側としては“納得できません”。大事なことは、亡き人の人徳がしのばれ、遺された者の信心が深まり、恩に報いるべく精一杯生きようという思いに連なるか否かなのです。
 戒名・法名には難解な文字も多く、読み方も時として特殊です。「居士(こじ)」をキョシと読んで、隣りの人からツッツかれるといった場面もあります。その意味するところをも含めて、あらかじめたずねる方がよいでしょう。

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 4.犬や猫に戒名をつけてよいですか
 お釈迦さまが亡くなられたご様子を描いた涅槃図(ねはんず)には、人間のみならず、その死を嘆く多くの動物たちも登場し、一様に教えに帰依する姿が表わされています。ここからも仏教が、生きとし生けるものすべての成仏を説く教えであることがわかります。
 日本においても、祖師と仰がれる方が猛威をふるう大蛇に「戒法」を授け、これを鎮めたとか、一休禅師がスズメの死を弔った、といった逸話が伝えられています。「戒法」を授けられたものに与えられるのが「戒名」ですから、それからすれば犬や猫に戒名をつけても、少しもおかしなこととはいえません。
 吉留進堂師による『続 禅門引導香語集』(鴻明杜)の中には小鳥や鳩・猫と並んで「犬」の引導文があり、たいへん興味をひかれます。

犬相俊秀(けんそうしゅんしゅう)にして太(はなは)だ情あり
呼応欣欣(こおうきんきん)たり 主従の間
即今 誦経の功徳に乗じて
直に獣身を脱して仏身を成ず

 お経の功徳によって犬も成仏できる。この文からも、仏教の広く深い、慈悲心に根ざした平等観がうかがいしれます。私としては、犬や猫たりとも家族の一員にほかならず、人を和ませ家の守りに尽くしてくれた、これら言葉なきものへの思いやりとして、こうした行為をほほえましく思っております。
 一方、言葉や思索が不可能な動物は、しょせん仏教の理解はできないという否定的な立場もあります。それは、とりもなおさず、「人間界」に生まれ得たことの尊厳さと表裏をなした考え方だと思いますが、少なくとも、ねんごろには供養したいものです。

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 5.自分で戒名を付けてもよいですか
 戒名・法名というものは、あくまでも仏弟子となった証しとして、「授けられるもの」ですから、師と仰ぐ僧侶や菩提寺の住職に依頼するのが道理です。「戒(いましめ)」ということに重要な意味があるので、自分や、少し漢文の素養がある人にたのんで勝手に付けたものは、「戒名」でなく、それは「改名」でしかないでしょう。
 誰が誰を戒めるのか。仏が私を戒めるのであり、その仏にかわって、修行を積んだ僧侶が戒めるのです。「私」という存在、その人間性や人生観をしっかり見すえてくれる師をまずもって求めるべきです。菩提寺というものは死者の供養ばかりするところではなく、人生上の相談にも応ずべき「道場」でもありますから、「自己採点」はやめて、ご住職によくよくご相談したらいかがでしょう。

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 6.夫婦で宗派の違う戒名・法名でもよいですか
 結論的に申しますと、特に現代においては有り得ることで、事情によってはそれでもよいという答えになります。
 昔のことですが、私の身近な地域では「男寺」「女寺」があったそうです。夫と妻が宗派の違うお寺や同宗でも別なお寺に葬られる、そういった例があったということは、檀家制度が確立されるあたりの時代、家族や当時奉公人といわれる人たちが、自分の意志でそれぞれ菩提寺を選べたということか、と思っています。それが時代が下るにつれて、徐々に統廃合されて、「家の宗旨・宗派」が固まったと考えられます。
 今日、宗派が違ってこまるのは誰かといえば、後を見る家族の者と菩提寺ぐらいで、亡くなった人そのものがこまることはありません。本尊と仰ぐ多くの仏・菩薩がおられ、各宗派の祖師方がおられますが、仏弟子とは、つまるところお釈迦さまに帰依する人たちだからです。私は先に「事情によっては」と申しました。その一例は地方から東京に移転し、お墓も改葬しようと近隣に同宗派の寺をさがしたが、適当な所がなく、やむなく他宗派の墓地を求めたというケース。これは致し方のないことで、違う戒名・法名になってしまいますが、それでよろしいとお寺さえ認めれば、それでよいわけです。
「宗派が違ってこまるのは誰か」とも申しました。最近の相談で、夫や姑といっしょの墓に入りたくないというのがあって思わず声を飲みこんでしまった実例があります。これは本人の意志(あるいは遺志)はともかく、人さわがせなことになるでしょう。やがては二ヵ所のお寺(墓地)を子供は守らなければならないのです。むしろそこに至る動機とか道すじがどうなのかが問われるところです。

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 7.一度いただいた戒名・法名を格上げ、格下げすることがありますか
  それによって「浮かばれない」ということがあるのですか
 およそ仏教の教えからして戒名そのものの格の上下は問題外といえましょう。もっとも大切なことは、与えられた生命をどのように生きたかどうかにあります。そして、足りなかった部分を含め、仏の教えに帰依する姿そのものに昇華させたものこそ、戒名です。
 しかし不幸なことに、永い歴史の中で家柄がモノをいう時代があり、権力や財力の道具に戒名が悪用されたことも、いつわらざる事実です。
 院号とか、居士・大姉、信士・信女といった「位号」、あるいは字数の多さだとかによって、その家や人の価値までが一方的に判断されるとしたら、仏教とは何なのか、疑われる余地は残ります。
 こうした「位号」というものの存在や字数の多さは、遺族や縁者が、亡き人の人徳を、精一杯讃えたい、つまり「追善」という範囲内で許されるのではないでしょうか。こうした、「その時は何もしてあげられなかったが」といった心情から、俗にいう「格上げ」は考えられます。それも決して“院号はこちら、単なる信士はあちら”などという「あの世」の存在はないという立場においてです。
 世間体をはばかり、ギョウギョウしい戒名を高額な金でもらったとしたら、表面的には「浮かばれ」ているように見えても、実のところ一種の「のぼせ」でしかなく、仏の目からすれば、それこそが「浮かばれない」所業と映ることでしょう。
「格下げ」というのは、一時代前までは先祖の戒名に順じたおつき合いがあったが、それができなくなったから、「位号」も下げようという、経済的な感覚が強く感じられてなりません。戒名・法名の歴史をたどれば、古くは西暦1300年代は一般に○○居士、あるいは信士というように二字がほとんどであり、1500年代に多く四文字になったといわれております。とかく字数の差ばかりに目を向け、格の上下を推しはかる生き方こそ、やめにしたいものです。

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