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エッセイ 私の「縁は異なもの」 2


 
新しい湯たんぽ

 

 今年の冬の初めの私の誕生日は、なかなかに味わい深いものとなった。思いがけなく編集者のKさんから、清楚な花籠をお送りいただいた。男性からお花をいただくことは、ずっと久しくなかったのである。高校生の娘の万里子からは、白いふわふわの羊のぬいぐるみがカバーの湯たんぽをプレゼントされた。あまり軽いのにびっくりした。プラスチック製であった。この一、二年、湯たんぽが暖房器具として見直されるようになっていた。昔    からの金物の湯たんぽは、それだけでずしりと重かったような気がした。

 「そういうのも店にあったよ。でもこちらの方が誕生日に向いているかと思った」

 万里子は、そういった。確かに使っていると、よい夢をみそうな気がした。他にウサギやクマのぬいぐるみのカバーがあったという。湯たんぽは今や若い女の子の間でもブームになっていると新聞に載っていたことを思い出した。Kさんの野の花のように愛らしい花籠の横に、白いカバーを付けた湯たんぽを置いてみた。ふたつは、意外にもよく似合った。

 母と二人、目黒のアパートの二階に住んでいたはるか小学生の頃を思い出した。昭和三十年代の冬の思い出である。その四畳半の部屋には、台所がなかった。共同のガス台のある階下まで湯たんぽを暖めにいくのは、私の仕事だった。倉庫会社の食堂勤めの母は、夜になると疲れはてていた。私は母の留守中勉強をまったくしなかったし、部屋中を鳥小屋のように散らかしたりと決していい子ではなかったけれど、この「湯たんぽ係」だけは進んで引き受けていた。暖まった湯たんぽをすぐに母の手製のネルの袋に包み、しっかりと抱きかかえながら部屋に戻った。

 「ありがとう」

 母にそういわれるのが嬉しかった。翌朝早くに母は出勤していた。                      

 「いってらっしゃい」

 二階の窓から大きな声で母を見送った後、私はもう一度布団の中にもぐり込むのだった。まだ充分に暖かい湯たんぽが、今しがたでかけていったばかりの母の笑顔のように思われた。

 「極貧の中の箱入り娘」

 Kさんのお花の傍らの湯たんぽをみつめるうちに、忘れていた言葉が浮かんできた。今はなき評論家の江國滋氏が、十七歳の高校二年生の私について書かれたインタビュー記事の見出しであった。当時「週刊新潮」記者だった氏は、「新潮」に生いたちの記を発表まもない私を取材する為に目黒のアパートヘおみえになった。東京オリンピックが過ぎてまもない冬のことだった。

 「寒い、寒いですね」  

 何度もそう連発しながら、ずっとコートを着たまま座っておいでだった。知的な雰囲気の漂う眼鏡を掛けた細身な氏は、風邪気味であられたのかもしれない。部屋には、小さな電熱器がひとつ置かれていた。蚊取線香のようにぐるぐると巻かれたニクロム線に電気を通したものである。時にその上に金網を置き、銀杏を焼いたりした。昼は電熱器、夜は湯たんぽ、それで充分暖かく感じられたのは、部屋が南向きだったせいもあった。江國氏は、寒がりでいらしたのだろうか。お嬢さんの作家の香織さんが恐らく赤ちゃんの頃のことのように思う。

 今、万里子といる部屋にも、考えてみたら暖房器具がひとつもなかった。やはり部屋が南向きだから我慢できるのである。湯たんぽの暖かさは、遠い昔といささかも変わりがなく思われた。                                                                                 〔平成19年『大法輪』2月号掲載〕 

 

太田治子(おおた・はるこ)神奈川県生まれ。父は作家・太宰治。母は太田静子。 

 

NHK「日曜美術館」初代司会アシスタント。高校2年の時、生い立ちの記『十七歳のノート』を発表。67年紀行文『津軽』で婦人公論読者賞受賞。『心映えの記』で第一回坪田譲治文学賞受賞。『母の万年筆』、『万里子とわたしの美術館』、『恋する手』、近著に『石の花 林芙美子の真実』『時こそ今は』(ともに筑摩書房)、『明るい方へ父・太宰治と母・太田静子』『夢さめみれば日本近代洋画の父・浅井忠』(ともに朝日新聞出版)など著書多数。

 

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