エッセイ 私の「縁は異なもの」 3
早春の富士山
その朝仕事で熱海に向かう為に、私は一人小田急の電車に乗っていた。小田原から東海道線に乗り換えるのである。平日の午前中の小田急小田原線は、とてもすいていた。殊に小田原が近付くにつれて、車輛の中の乗客は私を含めて二、三人しかいなくなった。すがすがしい早春の青空の下、低い山なみの向こうにふんわりと雪をかぶった富士山がみえた。思ったより大きくなく可愛い富士山だった。「ああ、富士山」私は心の中でそっとその柔らかな山を抱き締めたくなった。それはなつかしく思われた。
ほんの数年前には、富士山がくっきりとみえる横浜の団地の十一階に住んでいた。娘の万里子の高校入学迄のしばらくの間の住まいだった。或る冬の朝ベランダで洗濯物を干していたところ、突然右手後方に大きな白い山がみえることに気が付いた。「富士山だわ」あまりの思いがけなさに、思わず手にしていた洗濯物を下に落としてしまった。それは見事な富士山であった。裾野の片側が切れてみえるのが玉に傷なものの、まるで映画館のスクリーンをみているように大きくみえた。横浜といっても鎌倉が近い新興の街だった。しかし富士山迄は、かなりの距離がある筈である。
「まるで魔法のようだわ」私は大きな富士山をうっとりと見上げながら、これは空の上の母のプレゼントなのに違いないと思った。あの当時、私は心さびしい日が続いていた。本がでても売れないし、これからどうなっていくのかと考えると一人落ち込んでいった。そもそも十一階の部屋に住むようになったのも、致し方のない事情からであった。低層階を借りて住んでいたところ、大家さんが急に海外から戻ってくることになった。急いで空いていた十一階に移り住んだ。私は毎日が落ち着かなかった。つねに両足が宙に浮いている感じがした。いかにも眺めがよすぎたのである。ベランダの反対側の窓からは、はるかベイブリッジとランドマーク・タワーのあかりがお星さまのように輝いてみえた。まるで旅先のホテルに泊まっている感じがした。さすらいの日々のただ中にいると実感するのだった。夜はなるべくこの絶景の眺望をみないようにしていた。
それが朝になると富士山がみえることがわかってから、だんだんと心が明るくなってきた。そもそも私は、富士山のよくみえる小田原市下曽我の生まれだった。小学校入学直前迄の三年間を過ごした葉山一色海岸からも、富士山が臨めた。しかし何よりも富士山の記憶が鮮明なのは、東京の小学生の時であった。渋谷区恵比寿から引っ越しをした目黒区清水町のアパートの二階の窓からは、富士山が小さいなからにすっきりとみえたのである。
「あっ、富士山がみえる」
引っ越しをしてきた翌朝、小学一年生の私は窓をあけるなりそう叫んだ。葉山の海で拾った桜貝のように小さな富士山だった。
「ママ、可愛い富士山だね」
そういうと、
「よかった、ずっと富士山とご縁があって」
母はそのようにつぶやいたのである。しかし昭和三十年代も後半になると、アパートの窓からは富士山がみえなくなってしまった。
それから長い月日がたって晩年の母は、三十路(みそじ)を迎えてまだご縁のない娘に、小田急線の世田谷の街に住みたいといった。その街の駅前から、富士山が小さくみえることを覚えていたのかもしれなかった。今私は高校生の万里子と共に、その隣りの街に住んでいる。富士山のみえる陸橋迄散歩をするのが、何よりの楽しみである。
小田急線の小田原寄りの電車の窓からみた富士山は、私か赤ん坊の頃に母に抱かれてみた山のかたちと同じだったのだと思う。幼い日のアルバムには、私の初めての雛祭りの日の写真が貼ってある。わが子を抱き締めた母の笑顔が、そのまま優しい富士山となって現れた心地がした。 〔平成19年『大法輪』3月号掲載〕