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エッセイ 私の「縁は異なもの」 9


司馬遼太郎先生 

 このところ世の中のなりゆきが、どうもおかしな方向へいっているような気がしてならない。東京を中心に土地の値段が、急に高くなってきた。ミニバブルの時代に突入してしまったらしい。今住んでいる世田谷の街からも、それを感じるのである。

 私が毎日のようにその前を歩いている小田急線高架沿いの高層マンションに、一億円近い売り値が付いた。数日前の新聞の折込みチラシでそれに気付いた時、ついにバブルのころに舞い戻りしたのを感じた。確かにお金さえあれば、住んでみたい気がする立派なマンションである。しかし建物は、築二十年が近いと思う。数年前に小田急線の高架ができてからも、このマンションの住人の方たちは高架反対運動を続けていた。高架ができて、この建物がかすんでみえるようになったことは確かだった。騒音の問題もある。それでいて、一億円なのである。一戸当りの面積が広いらしい。しかし、これは中古マンションとしていかにも高過ぎると思う。

 今私は十八歳の娘と共に、小さな賃貸マンションに住んでいる。一千万円のマンションを買うお金のゆとりもない。しかし新聞のマンションの折込み広告には、眼がいくのである。まったく買うあてがなくても、建物の美しいカラー写真にはすいこまれる。「そうか、三千万円位あれば素敵なマンションを買うことができるのだわ」いつそのような日がくるのか見当がつかないのに、そのように夢見てにっこりする。しかし一億円となると、これは正直いって鼻白むだけである。

 今は空の上の司馬遼太郎先生のお顔が浮かんでくる。十数年前の異常に土地の値段が高騰したバブルの時代を、晩年の司馬先生はこれでは日本が駄目になると鋭く警告されていた。司馬先生というとその温顔しか思い浮かばないだけに、そのきっぱりと世の間違いを問われる言葉は胸に沁みた。土地を投機の対象にしてはいけない、土地は公有のものであるというかねてからのお考えに、今から二十年前になくなった私の母は心から共感していた。「私は司馬遼太郎先生を尊敬する」母ののこした最後の日記帖には、そのように書かれていたのである。

よもやその司馬先生と奥さまのみどりさんに、母の死後親しくお付き合いさせていただくことができるようになるとは夢にも考えていなかった。私か一人になったことを週刊誌の記事で知ったみどりさんが、母の初七日の夜に突然電話を下さったのである。みどりさんは、「未婚の母」として私を生み育てた母の生き方を、誰よりもよくわかって下さっていた。みどりさんも私と同じように働くお母さんに育てられた女の子だった。司馬先生もみどりさんも、三十路半ばを過ぎた私か「結婚したい」というといつも笑っていらした。「治子さん、今のままでいいよ」お二人は異口同音にそういわれた。一番尊敬するお二人の言葉だけに、却って私は反撥したくなった。

 結婚をして、娘の万里子が生まれた。その時も、世田谷の賃貸マンションに住んでいたのである。すると今度は、家を持ちたくなった。「今のままでいいじゃない」みどりさんはそういわれたが、私は聞く耳を持たなかった。横浜郊外の新しい団地に引っ越しを決めた。バブル全盛の時代である。3LDKが六千万円もしたが、二十五年のローンで買うことにした。司馬先生の言葉を忘れて、その時はこの団地がやがて八千万円にもなるという不動産会社の勧誘の方を信じたのだった。すぐにバブルがはじけた。またたくうちに二千七百万円まで値が下がった。東京への不便さを思うと、それがまともな値段であった。その当り前のことに気付かなかった私は、どうかしていた。バブルに踊らされていたのである。

 三年前に娘と二人の新しい生活を始めるようになってから、心が明るくなった。「一億円」のマンションを見上げながら、今日も司馬先生の言葉を思う。娘は猫の飼える住まいに引っ越したいという。しかしその願いが叶うのは、当分先のことになるだろう。  〔平成19年『大法輪』9月号掲載〕

太田治子(おおた・はるこ)神奈川県生まれ。父は作家・太宰治。母は太田静子。 

NHK「日曜美術館」初代司会アシスタント。高校2年の時、生い立ちの記『十七歳のノート』を発表。67年紀行文『津軽』で婦人公論読者賞受賞。『心映えの記』で第一回坪田譲治文学賞受賞。『母の万年筆』、『万里子とわたしの美術館』、『恋する手』、近著に『石の花 林芙美子の真実』『時こそ今は』(ともに筑摩書房)、『明るい方へ父・太宰治と母・太田静子』『夢さめみれば日本近代洋画の父・浅井忠』(ともに朝日新聞出版)など著書多数。

 

 

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