目次
仏 と は〈一〉-如来の呼びかけ-(昭和三十八年七月二日・富山市)
仏 と は〈二〉-念仏と信心-(昭和三十八年七月三日・富山市)
大行大信〈一〉-自然法爾の道理-(昭和三十八年七月五日・武生市)
大行大信〈二〉-信心の根元-(昭和三十八年七月六日・武生市)
大行大信〈三〉-信に死し願に生きよ-(昭和三十八年七月八日・武生市)
大行大信〈四〉-自然法爾と三世-(昭和三十八年七月八日・武生市)
大行大信〈五〉-平等一味-(昭和三十八年七月九日・武生市)
大行大信〈六〉-還相廻向-(昭和三十八年七月九日・武生市)
宿 業〈一〉(昭和三十八年十一月十一日・東京)
宿 業〈二〉(昭和三十八年十一月十二日・東京)
さとりの道と救済の道
-『歎異抄』第十五章について-(昭和三十九年六月二十七日・東京)
あきらかにそのもとを求む
-他利利他の深義について-(昭和三十九年六月二十八日・東京)
仏教における人間像〈一〉
-作った信と生まれた信-(昭和三十九年九月四日・山形市)
仏教における人間像〈二〉-宿業本能-(昭和三十九年九月四日・山形市)
仏教における人間像〈三〉
-衆生の本能と如来の本願-(昭和三十九年九月四日・山形市)
初出一覧
内容説明
第一巻<まえがき>より抜粋
私は、自分の領解しておることは『中道』という雑誌に発表しておるのでございまするからして、あなた方に強制して『中道』を買いなさいとは私は言わんのだけれどもですね、まあ『中道』という雑誌があるのだから、もしお読みになりたいものならば、それをお読みくださることを私はお願いする次第でございます。
(曽我量深『中道』昭和四十二年十月号)
本講話録(全五巻)は、雑誌『中道』に掲載された曽我量深(一八七五~一九七一)先生の講話聞書を、講話年代順に編集したものである。
『中道』には、東京を中心に全国各地で行なわれた曽我先生の講話が毎号収録されていた。それらの講話は、いくつかは『曽我量深選集』(全十二巻 彌生書房 OD版:大法輪閣)などに収録されているものの、約七割がまとめられることなく、あまり顧みられなくなってきていた。これら単行本にまとめられていない講話を一つに集め、公開することが、本講話録の目的とするところである。
曽我先生の思索を尋ねる際に、中心となるのは『曽我量深選集』である。『曽我量深選集』は、曽我先生の生涯全体を通してその論考を収集したものであるが、戦後晩年の論考に関しては一部の代表的なものしか収録されていない。これに対して、戦後の思索を網羅的に収録しようとしたものが『曽我量深講義集』(全十五巻 彌生書房 OD版:大法輪閣)である。『曽我量深講義集』には、「戦後発表された、主として定期刊行物掲載の講話聞書を年次を遂って収録しようとする」(第一巻「前言」)と、その出版の目的が記される。
しかし残念ながら、この『曽我量深講義集』は昭和三十五(一九六〇)年頃の講話を収録した第十五巻で終了することになる。そして昭和三十年代後半から最晩年に至る曽我先生の講話は、高倉会館(『曽我量深説教集』全十巻 法藏館)や大谷大学大学院(『曽我量深講義録』上・下 春秋社)、仏教文化研究会(『信に死し願に生きよ』百華苑)など、特定の場所での講義録が意義深くまとめられてはいるが、広く一般に語られたものはあまり見ることはできなかった。
このような事情に対し、冒頭に記した曽我先生御自身の言葉から知られる通り、晩年の思索は雑誌『中道』において発表されていた。しかも全百篇もの講話として、である。直弟子である松原祐善先生は、曽我先生の七回忌に際し、その晩年について次のように語っている。
思うに曽我先生は学問として真宗教学のことは勿論でありますが、唯識・法相学の蘊奥を究められておられますが、どちらかともうしますと学者といわれることを厭われまして教化者を以て任じておられたのであります。だいたい還暦以後でしょうと思われますが、請いに応じて地方を巡回されましたが、先生は田舎のおじいさん、おばあさんが私の話に肯いてくれますというて非常なお喜びでありました。
特に晩年死に及ぶまで、日本の全国を南船北馬して自信教人信の誠を尽くされたのであります。まさしく常行大悲を行ぜられて倦むことを知られなかったのであります。
(『仰せをこうむりて』文栄堂 一四一~一四二頁)
このように伝えられる曽我先生の晩年の常行大悲の軌跡こそ、『中道』の講話なのだといえよう。
曽我先生の思索は止まることがなかった。最晩年に至るまで常に思索が展開し、新たな表現が生まれ続けていたのである。雑誌『中道』に遺された講話聞書は、このことを如実に示している。これを誰もが容易に手に取れる形にしておくことは、後の者の責務と考える。
本講話録を通して、一人でも多くの人が晩年の曽我量深先生の言葉に触れ、各人が人生の暗闇を照らし見る一灯の光とせられんことを願うばかりである。
二〇一五年六月
親鸞仏教センター研究員 藤原 智