目次
真実の教え(昭和四十二年五月二十九日・長崎市)
往生と成仏〈一〉― 精神世界 ―(昭和四十二年六月二十八日・東京)
往生と成仏〈二〉― 真宗の人間像 ―(昭和四十二年六月二十九日・東京)
往生の意義について〈一〉― 唯仏独明了 ―(昭和四十二年九月十八日・長野)
往生の意義について〈二〉― 各発無上心 ―(昭和四十二年九月十九日・長野)
往生の意義について〈三〉― 共発金剛志 ―(昭和四十二年九月十九日・長野)
往生と成仏(昭和四十二年十一月十二目・三重県菰野町)
本願と浄土〈一〉― 如来の本願と衆生の本願 ―(昭和四十三年五月三十日・東京)
本願と浄土〈二〉― 一願建立(法然)と二願建立(親鸞)との関係 ―
(昭和四十三年五月三十一日・東京)
遇うて空しく過ぎず― 信心は機に属す ―(昭和四十二年七月七日・京都)
大悲救済の三願と自覚証入の三願〈一〉(昭和四十三年十月二十六日・東京)
大悲救済の三願と自覚証入の三願〈二〉(昭和四十三年十月二十六日・東京)
初出一覧
内容説明
第一巻<まえがき>より抜粋
私は、自分の領解しておることは『中道』という雑誌に発表しておるのでございまするからして、あなた方に強制して『中道』を買いなさいとは私は言わんのだけれどもですね、まあ『中道』という雑誌があるのだから、もしお読みになりたいものならば、それをお読みくださることを私はお願いする次第でございます。
(曽我量深『中道』昭和四十二年十月号)
本講話録(全五巻)は、雑誌『中道』に掲載された曽我量深(一八七五~一九七一)先生の講話聞書を、講話年代順に編集したものである。
『中道』には、東京を中心に全国各地で行なわれた曽我先生の講話が毎号収録されていた。それらの講話は、いくつかは『曽我量深選集』(全十二巻 彌生書房 OD版:大法輪閣)などに収録されているものの、約七割がまとめられることなく、あまり顧みられなくなってきていた。これら単行本にまとめられていない講話を一つに集め、公開することが、本講話録の目的とするところである。
曽我先生の思索を尋ねる際に、中心となるのは『曽我量深選集』である。『曽我量深選集』は、曽我先生の生涯全体を通してその論考を収集したものであるが、戦後晩年の論考に関しては一部の代表的なものしか収録されていない。これに対して、戦後の思索を網羅的に収録しようとしたものが『曽我量深講義集』(全十五巻 彌生書房 OD版:大法輪閣)である。『曽我量深講義集』には、「戦後発表された、主として定期刊行物掲載の講話聞書を年次を遂って収録しようとする」(第一巻「前言」)と、その出版の目的が記される。
しかし残念ながら、この『曽我量深講義集』は昭和三十五(一九六〇)年頃の講話を収録した第十五巻で終了することになる。そして昭和三十年代後半から最晩年に至る曽我先生の講話は、高倉会館(『曽我量深説教集』全十巻 法藏館)や大谷大学大学院(『曽我量深講義録』上・下 春秋社)、仏教文化研究会(『信に死し願に生きよ』百華苑)など、特定の場所での講義録が意義深くまとめられてはいるが、広く一般に語られたものはあまり見ることはできなかった。
このような事情に対し、冒頭に記した曽我先生御自身の言葉から知られる通り、晩年の思索は雑誌『中道』において発表されていた。しかも全百篇もの講話として、である。直弟子である松原祐善先生は、曽我先生の七回忌に際し、その晩年について次のように語っている。
思うに曽我先生は学問として真宗教学のことは勿論でありますが、唯識・法相学の蘊奥を究められておられますが、どちらかともうしますと学者といわれることを厭われまして教化者を以て任じておられたのであります。だいたい還暦以後でしょうと思われますが、請いに応じて地方を巡回されましたが、先生は田舎のおじいさん、おばあさんが私の話に肯いてくれますというて非常なお喜びでありました。
特に晩年死に及ぶまで、日本の全国を南船北馬して自信教人信の誠を尽くされたのであります。まさしく常行大悲を行ぜられて倦むことを知られなかったのであります。
(『仰せをこうむりて』文栄堂 一四一~一四二頁)
このように伝えられる曽我先生の晩年の常行大悲の軌跡こそ、『中道』の講話なのだといえよう。
曽我先生の思索は止まることがなかった。最晩年に至るまで常に思索が展開し、新たな表現が生まれ続けていたのである。雑誌『中道』に遺された講話聞書は、このことを如実に示している。これを誰もが容易に手に取れる形にしておくことは、後の者の責務と考える。
本講話録を通して、一人でも多くの人が晩年の曽我量深先生の言葉に触れ、各人が人生の暗闇を照らし見る一灯の光とせられんことを願うばかりである。
二〇一五年六月
親鸞仏教センター研究員 藤原 智