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ホーム > お知らせ > エッセイ 私の「縁は異なもの」 10

エッセイ 私の「縁は異なもの」 10


トリノの絵 

 
 今年の夏、イタリアを旅行した。七日間の旅である。ミラノに連泊して、トリノとジェノヴァへでかけた。どちらも特急で片道一時間半という日帰りできる距離にあるのだった。十八歳になる娘の万里子と二人のイタリア美術館めぐりの旅であった。七月二十七日の夕刻ミラノに着いて、翌朝にはトリノに向かう列車に乗っていた。今回の旅のきっかけは、トリノで明治初期の洋画家浅井忠の油絵をみたいというところから始まった。トリノゆきは、ここ数年来の夢だったのである。

 トリノに、大好きな画家浅井忠の絵があることを知ってから十年以上の月日が流れていた。たまたま家にある彼の画集をみていて、そのことに気付いた。工部美術学校の生徒時代に描いた油彩の風景画だった。どうしてこの絵がトリノにあるのか、とても不思議な気がした。

 「浅井さん」

 およそ百五十年も昔の安政三年に生まれた彼を、私はいつからかそのように呼んでいた。浅井さんの描く絵は、素朴で親しみ深い。穏やかな人柄が、そのまま絵となって現れている感じがするのだった。殊に私は、彼が明治三十三年四十代半ばになってフランスへ留学した折りにパリ近郊のグレー村で描いた人物画や風景画にひかれていた。京橋のブリヂストン美術館で、それらのうちの何枚かをみることができる。縫い物をする婦人のうつむい

た顔は、観音さまのように優しくみえた。村の川の水は、どこまでも清らかに微笑んで感じられるのだった。

 絵の中の柳の木は、日本の木とは違ってそれは大きくのびのびとしてみえた。その下を手押し車を押していく老婦人の姿も、ゆったりと穏やかであった。彼の絵がグレー村に残っているというのなら、よくわかる気がした。しかし何故トリノなのか。画集の解説を読んで、その答えがわかった。トリノは、浅井さんが入学した工部美術学校の先生フォンタネージの出身地だった。フォンタネージは、明治九年に伊藤博文によって設立された工部美術学校の図画教師として来日したのである。この日本最初の美術学校は、男女共学であった。

 美術の中心のパリでも、この時代には考えられないことだった。絵を勉強したい女性は、画家から個人レッスンを受けていた。それが何んと日本では、フォンタネージの指導の許に男女が一緒になってデッサンやスケッチに励んでいたのである。ヨーロッパの人たちにも誇ることのできる学校だったと思う。

 しかし明治十一年にフォンタネージは帰国してしまった。彼がトリノで世を去った明治十五年頃の日本には、洋画を排斥する風潮が高まっていった。日本画ばかりがよいというその後の国家主義の芽が伸びようとする中、工部美術学校も閉校された。それにもめげず、浅井さんはこつこつと絵を描き続けていた。

 フォンタネージはトリノヘ、愛する教え子の一人の浅井忠の絵を持ち帰っていたのである。『徳川家の霊廟』というその小さな油絵は画集でみる限り、そんなにひかれる絵ではない。しかし異国の地に若き日の浅井さんの絵があるとわかると、どうしてもトリノまでいってみたくなるのであった。

 トリノの静かな新市街の一角にある近代美術館には、フォンタネージの絵だけの部屋がいくつもあった。はるばると日本まできた彼が、近代イタリア絵画を代表する画家だったということがよくわかった。その絵は、優しくロマンチックだった。フィレンツェの街を一人さまよう若い女性の絵があった。どこかさびしそうなその顔は、日本にいる時の彼とも似ているように思われた。

 浅井さんの絵は、美術館に展示されていなかった。恐らく収蔵庫で長い眠りに着いているのだろう。それもいいことのような気がして、私は満ち足りた思いで美術館をでたのである。トリノの夏は、明るかった。旧市街の中心サン・カルロ広場に向かう古いアーケードをゆきかう人の顔は、みな浅井さんのようになつかしくみえた。         〔平成19年『大法輪』10月号掲載〕

太田治子(おおた・はるこ)神奈川県生まれ。父は作家・太宰治。母は太田静子。 

NHK「日曜美術館」初代司会アシスタント。高校2年の時、生い立ちの記『十七歳のノート』を発表。67年紀行文『津軽』で婦人公論読者賞受賞。『心映えの記』で第一回坪田譲治文学賞受賞。『母の万年筆』、『万里子とわたしの美術館』、『恋する手』、近著に『石の花 林芙美子の真実』『時こそ今は』(ともに筑摩書房)、『明るい方へ父・太宰治と母・太田静子』『夢さめみれば日本近代洋画の父・浅井忠』(ともに朝日新聞出版)など著書多数。

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