• 書籍
  • 月刊『大法輪』
  • 仏教関連商品
  • web 輪蔵
  • 検索
  • お知らせ
  • 会社情報
ホーム > お知らせ > エッセイ 私の「縁は異なもの」 1

エッセイ 私の「縁は異なもの」 1

  
『大法輪』と私 

 

  二十四年前に空の上へいった母は、『大法輪』の愛読者であった。「かぎっ子」だった小学生の頃、母の文机の上にはいつもきちんと『大法輪』が置かれていた。母が勤め先の倉庫会社の食堂から帰ってくるのを待ちながら、私はそっとその本を開くことがあった。或る号のグラビアに、観音さまのように優しいかんばせの白髪のおばあさまが載っていた。お数珠を手にすっくと立ったその方は、新宿中村屋の女主人相馬黒光であった。

 昨年秋のこと、長くNHK宗教番組のディレクターを担当されていたQ氏と初めておめにかかった。NHK教育テレビ『日曜美術館』に携わった方たちが中心の会の席上だった。私はその番組の初代アシスタントを勤めていた。「太田さんが番組の第一回で、『大法輪』のことを話しだした時にはびっくりしましたよ」

 青年のような温顔のQ氏の言葉に、恐縮した。中身を読んでいたわけではありませんと正直に答えたが改めて、『大法輪』とのご縁の深さを思った。 

 番組の第一回は、「私と碌山荻原守衛」であった。日本のロダンと呼ばれる碌山についてスタジオで評論家の臼井吉見氏からお話を伺った。「碌山は、年上の人妻の黒光に惹き付けられ、いよいよという時に突っ放された。碌山を生かしたのも殺したのも黒光です」 

 思いがけないお話に、私は『大法輪』の黒光の晩年の写真をみた時の感想を話さずにはいられなくなった。そうやって『大法輪』の想い出はまことにハプニングででてきたのであった。そのことでスタジオは和やかな空気に包まれた。すっかり上がりっ放しで泣きそうになっていた私は、母の机の上の『大法輪』を思い出すことで心が救われたのである。 

 昨年は、『日曜美術館』がスタートして三十周年に当たる記念の年だった。思い出の黒光女史の写真をもう一度みたいと思って古い雑誌の並んだ本箱を探した。ここ数年の度重なる引っ越しのせいで、おいそれとはみつからない。すぐにでてきたのは、昭和五十二年十二月号の『大法輪』であった。私が『日曜美術館』のアシスタントになった翌年の冬の号である。表紙の絵は、小山硬画伯が描いていた。長崎の五島の海をバックに、大きなよく太った牛とねんねこばんてんに赤ん坊を背負ったモンペ姿の女性が立っている。牛がしっかりと堂々と歩を進めているのにひきかえ、こけしのように丸顔の女の人はぼんやりと泣き顔のようにみえた。「ああ、なつかしい」私は思わずそう声にだしてつぶやいた。小山画伯の絵は何皮か、『日曜美術館』の今週のギャラリーのコーナーで紹介したことがあった。五島を描き続ける画伯の絵は、いつもゆったりと時が流れているような気がして私は人好きだった。 

 その日はずっと小山画伯の表紙の『大法輪』を、のダイニング・テーブルの上に飾っていた。牛の傍らの若いおかあさんは、女手ひとつで私を育ててくれた母の姿のようにも思われてきた。高校生の娘の万里子が学校から戻ってきてからも、しばらくその表紙をみつめていた。 

  「ママはこの絵のおかあさんのように、一度も私をおんぶしてくれたことがなかったでしょう?」 

 そういわれて、私はあわてた。ただ子供をおんぶすると重くてつらそうでしなかったのだ。しかし私も母から、おんぶされた記憶がなかった。母は生まれつき心臓が弱かったのである。それでも牛のようにふんばって働き続けた。母は、黙々とよくがんばる牛が好きだといっていた。そのことを話すと、 

  「ママは、誰にでもよく尻尾をふる耳垂れ犬に似ている」 

 娘の言葉が痛かった。   〔平成19年『大法輪』1月号掲載〕

 

太田治子(おおた・はるこ)神奈川県生まれ。父は作家・太宰治。母は太田静子。

 

NHK「日曜美術館」初代司会アシスタント。高校2年の時、生い立ちの記『十七歳のノート』を発表。67年紀行文『津軽』で婦人公論読者賞受賞。『心映えの記』で第一回坪田譲治文学賞受賞。『母の万年筆』、『万里子とわたしの美術館』、『恋する手』、近著に『石の花 林芙美子の真実』『時こそ今は』(ともに筑摩書房)、『明るい方へ父・太宰治と母・太田静子』『夢さめみれば日本近代洋画の父・浅井忠』(ともに朝日新聞出版)など著書多数。

 

このページのトップへ